第2話
第2話
翌朝、上履きの右踵がまだ少し痛んだ。昨日のゴムの縁が当たっていた箇所が、靴下越しに薄く赤くなっていた。一晩で治るほど僕の皮膚はやわらかくない。痛みは小さく、けれど確かに、僕に「今日も来た」と教えてくれていた。
朝のホームルームのあいだ、僕は黒板の右下を見た。鳥は——いた。掃除当番が日付だけを綺麗に消して、骨の鳥は翼を広げたままだった。一瞬だけ、誰かの指で守られた小さな砦のように見えた。彼女は今朝も中央の輪の中にいた。僕の二つ前の席で、誰かのスマホ画面を覗き込んで、けらけらと笑っていた。鳥のことは、たぶんもう忘れている。
二時間目は、音楽だった。
「クラス合唱の練習、四階の音楽室に集合な」
担任の声に、教室は緩慢な渦を巻いた。音楽の教科書とファイルだけ持って、廊下に出る。階段の踊り場を曲がると、別のクラスの合唱がもう始まっていた。ガラスの嵌った扉の向こうで、四十人ぶんの声が、ふくらんだり萎んだりしている。扉のガラスが、内側からの声に、ほんのわずか震えていた。指先で触れたら、たぶん微かに熱を持っている。そう思った。
「あー、合唱だるー」
前を歩く男子が、誰かの背中を指で突いて笑った。突かれたほうも、笑い返した。僕はその笑い声の隙間で、ゆうべ廊下の突き当たりから聞こえた、あの低い音のことを思い出していた。胸の骨の奥を、一度だけ叩いた音。あれは合唱部の声ではなかった気がする。じゃあ、誰の声だったのか——聞こえた時刻も、もう一度思い出そうとしてみた。下校のチャイムの、たぶん十分後。西の窓が橙に染まる、あの短い時間帯だった。
音楽室に着くと、ピアノの鍵盤の上に、音楽教師の白い指がもう乗っていた。部屋は、古い木と松脂のような、微かに甘い匂いがした。床板は踏むたびに、ほんの少しだけ沈んで、ほんの少しだけきしんだ。たくさんの声が長い時間をかけて染み込んだ床、という気がした。
「はい、整列。ソプラノ前、アルト後ろ、男子は壁際」
僕はテノールの位置に押し込まれた。隣に並んだ男子の身長が僕より頭半分高くて、僕の声はその胸の影に隠れる。前の学校で合唱コンクールに出たのは去年が最後で、僕はそのとき、口だけ動かしていた。誰も気づかなかった。それが少し悔しくて、それ以上に少しだけ楽だった。
「今日は『遥か』の通し。ソプラノからAメロ」
ピアノが鳴った。ソプラノの女子たちの声が、伸びる。中央の輪の彼女もそこにいて、誰よりも口を大きく開けていた。鳥を描いていた指の人と、同じ口だとは、やっぱり思えない。アルトが入る。男子が入る。テノールの僕は、息だけ吐いて、声は出さなかった。前の学校のときの癖が、こんなに早く戻ってきた。喉の奥に、声を出さないための小さな蓋ができていて、それを持ち歩くのが、もうずいぶん上手くなっている。
その時だった。
一度、和音の下が、ふっと支えられた。
僕は、息を止めた。
ソプラノの高音とアルトの中音が、ほんの少し揺れていた。揺れていたものを、下から、誰かの低い声が一瞬だけ、押し上げた。バスのパートの、誰かの声。耳を澄ますと、その声は他のバスの男子よりも、ほんの半歩だけ深くて、ほんの半歩だけ遅かった。遅いんじゃない、最後まで音を保っているのだ。他の男子が一拍前で息を吸うところを、その人だけ、最後の最後まで音を切らない。息の使い方が、他の誰とも違う。吸う場所を、人に合わせるのではなく、曲のほうに合わせている。そういう吸い方だった。
サビに入ると、その差はさらにはっきりした。
サビの三小節目、ソプラノが上に駆け上がるとき、合唱全体がほんの少し前のめりになる。前のめりになって、転びそうになる。そのたびに、バスのその声が、地面の方に重みを置く。重みを置いて、転倒を引き戻す。誰も気づいていない。指揮の音楽教師でさえ、ピアノを弾きながらソプラノの高音にしか目を向けていない。アルトの女子も、隣のバスの男子も、その声がなければ自分たちの音が転がっていることに、たぶん気づいていない。気づかれないように支える、という支え方を、その人は知っている。
歌が止まったとき、僕は自分の額に汗が滲んでいるのに気づいた。歌っていないのに、汗をかいていた。指先が、譜面ファイルの角を、知らないうちに強く握り込んでいた。爪の白いところが、ほんの少し広がっていた。
「はい、もう一回」
ピアノがまた鳴る。僕は今度はバスのほうへ目だけを動かした。壁際に並んだ五人の男子。背が低い順に並んでいる。一番奥の、窓を背にした男子。中肉中背、髪はぼさっとして、襟元のボタンを一つ外している。顔は、よく見えない。譜面を持つ手だけが、視界に入った。指の関節が、長かった。関節の上に、うっすらと乾いた皮がむけている。歌うためだけに整えられた手、ではない。どこかで、何か別のものを握り続けてきた手だ、と思った。
二回目の通しで、僕はもう、その声しか聞こえなくなっていた。
休憩の十分間、男子の半分は廊下に出た。残った男子は窓際で水筒を回し飲みしている。バスの一番奥の彼は、一人で譜面を眺めていた。ファイルの表紙の右下に、小さく名前のシールが貼ってあるのが見えた。距離があって、字までは読めない。彼は譜面の上を、指の腹で一度だけなぞった。何かの小節を、声を出さずに、指だけで歌っているように見えた。
「お前、転校生だっけ」
横から声をかけられた。僕より頭半分高いテノールの男子。さっきから、僕が声を出していないのに気づいていたのだろう。
「……あの人、誰、ですか」
バスの彼を、目で示した。声をかけてきた男子は、ああ、と声を低くした。声を低くしたのは、周りに聞かれないためというより、単にその話題がこの教室でそれほど消費されていない、という温度のせいに思えた。
「西崎、な。中学んとき、合唱部のソリスト」
ソリスト、という単語が、僕の頭の奥で小さく弾けた。
「今は、辞めたんだけど。理由は知らね」
そう言って彼は、自分の水筒を傾けた。麦茶の匂いが、湿った空気にかすかに混じった。彼は西崎、についてそれ以上何も言わなかった。たぶん本当に知らないのだろう。知らないことを、悪気なく忘れているのだろう。
僕は譜面ファイルの陰で、ポケットの手帳に手を当てた。布越しに、四角い角が指の腹に触れた。それだけで、心臓の音が、ほんの少しだけ戻ってくる場所を見つけた気がした。
休憩が終わって、もう一度通しが始まった。西崎は、また同じ場所に立って、同じ深さで、同じ半歩遅れで、合唱の地面を支えていた。誰も気づかない。合唱が終わって、音楽教師が「ソプラノもう少し抑えて」と注意したときも、西崎には何も言わなかった。注意するべきところがなかった。注意されるほど、目立っていなかった。
授業が終わって、生徒たちが一斉に音楽室を出ていく。西崎は最後尾だった。ファイルを胸に抱えて、誰とも喋らず、廊下を曲がっていった。彼の歩幅は、合唱で音を保つときと同じくらい、最後まで一定だった。
僕は教室に戻る前に、廊下の窓辺で立ち止まって、手帳を出した。窓の外では、別のクラスの体育の号令が、遠く、途切れ途切れに響いている。その号令のリズムのすきまに、自分の呼吸を一度だけ置いた。
——音楽室、バスの最奥。和音の地面を踏み続ける男子。西崎。元・合唱部ソリスト。
二行目に、僕は彼の苗字を書いた。一行目の「窓際の、鳥の子」の下に、初めて、苗字だけだけれど、本物の名前が並んだ。シャーペンの芯が、紙にほんの少し凹みを作った。一行目の凹みより、二行目の凹みのほうが、ほんの少し深くなった気がした。書いた瞬間、胸の奥で、誰にも聞こえない低音が一つ、短く鳴った気がした。
次の授業のチャイムが、廊下の天井で短く鳴った。
僕は手帳を閉じて、教室に戻った。教室では、中央の輪の彼女がまた誰かのスマホを覗き込んで笑っていた。鳥のことは、彼女自身も忘れている。西崎のことも、たぶん誰も覚えていない。覚えているのは、僕だけ——いや、覚えていることが何かの意味になるかは、まだ分からなかった。
声は、かけられなかった。今日も、明日も、たぶんしばらくは、かけられない。手帳の二行目を、僕はもう一度、指の腹で確かめた。紙の凹みが、指紋の谷に引っかかる。引っかかったまま、ポケットに戻した。引っかかった感触は、ポケットの中でも、しばらく消えなかった。
放課後、音楽室の前を通ったら、扉の向こうから、低い声が一つだけ漏れていた。誰もいない部屋で、彼が一人、譜面を歌い直していた。声は、昼間の合唱のときよりも、ほんの少しだけ、自分のために鳴っていた。誰かの前のめりを引き戻すためではなく、誰にも聞かせる気のない高さで、ただ自分の地面を踏み直している、そういう声だった。僕は扉の前で、上履きの踵の痛みを感じながら、しばらく動けなかった。