Novelis
← 目次

窓際の、鳥の子

第1話 第1話

第1話

第1話

新品の上履きのゴムが、右足の踵を擦った。慣らしていない硬い縁が薄い靴下越しに食い込んで、教室の床を踏むたびに小さく痛む。黒板の上の校名プレート、四月の光が当たって反射した端の白さ、桜の花びらが窓の桟に溜まりかけているその無音。転入生の紹介が終わってから、たぶん十三分。僕はずっとその踵の痛みだけを頼りに、背筋を立てていた。

「——えーと、転校生の席、窓際な」

 担任の眼鏡がずり落ちるのを指の第二関節で押し戻す仕草、それを見て前から二列目の女子が小さく笑った。その笑いを拾ったのか、中央の男子が三人同時に肩を揺らす。僕はもう何人目の「中央の男子」を見ただろう。前の学校にも、その前の学校にもいた、声の形が同じ男子。喉の奥を少し震わせて、母音の終わりだけ上に跳ねさせる、あの笑い方。名前が違うだけで、音の骨格は同じだった。

 机に鞄を置くと、桟の花びらがひとひら、ふっと宙に浮いた。

「よろしくな、転校生」

 誰が言ったのか分からない。振り返っても、誰もこちらを見ていなかった。僕は小さく頷いて、窓の外へ目をやる振りをした。本当は教室の後ろ側、黒板の端、そこに目を置いていた。窓ガラスに映る自分の横顔は、思ったより痩せていて、思ったより目の下が暗かった。朝、母が「もう少し食べなさい」と言ったのを、また思い出した。

「じゃあホームルーム終わる。日直、号令」

 号令のあいだ、僕は動かない。起立の、礼の、着席の、三つの動作のどこにも僕の体はちゃんと間に合っていなかった。遅れて立って、遅れて座る。それも慣れていた。放課後まで、四十七分ある。

 五時間目の古典が終わると、教室は一斉に音量を上げた。誰かが誰かのあだ名を叫び、誰かがそれにかぶせて椅子の脚を引き摺る音を立てる。僕は机の端、シャーペンの芯を一本折って、ノートの余白に何も書かないまま、目だけを動かす。折れた芯が机の溝に転がって、蛍光灯の下で小さく光った。その光を拾うのも、たぶん僕だけだった。

 カースト上位の三人が、自分たちの机を中央に寄せている。優等生、と呼ばれるのだろう男子がその輪にいる。よく通る声で、よく笑う。彼が笑うたびに、半径二メートル以内の全員が少しだけ彼の方を向く。磁石の砂鉄みたいだ、と思った。その輪の外——いちばん窓際に近い席、ちょうど僕の二つ前——女子が一人、黒板を見ていた。

 みんなが後ろに集まっているから、黒板のすぐ前が誰もいない空白になっている。その空白をまっすぐ見据えて、彼女はふっと立ち上がった。椅子を引く音もほとんど鳴らさなかった。背中のリボンが、歩く振動でかすかに揺れた。

 チョークが、黒板の端を軽く叩いた。

 誰も見ていなかった。中央の三人も、その周りの女子たちも、廊下で叫ぶ男子も。ただ僕だけが、その指先を見ていた。黒板の右下、誰も板書を書かないその余白に、小さな何かが足されていく。日直の書いた「四月十二日(月)」の日付のすぐ横。枠外。誰にも咎められない、誰にも気づかれない余白。チョークの先端が黒板をひっかく、ごく小さな音——それは教室のざわめきの下に沈んでいて、でも僕の耳にだけは、糸のように細く届いた。

 それは、鳥だった。

 いや、正確には鳥の骨格だった。翼を広げた一羽の、骨の線だけの鳥。羽の一本一本が指の爪ほどの長さで、くちばしの角度に意志があった。チョークの白が、彼女の手の湿気を吸って少し滲む。僕の喉の奥が、乾いた粉の味がした気がした。骨と骨の繋ぎ目に、ほんの一瞬だけ躊躇が走って、そのあと迷いなく線が伸びていく。描いているのではなく、元からそこにあったものを、彼女が浮かび上がらせているように見えた。

 彼女はすぐに座った。五秒もかかっていない。

「おーい、帰るぞ」

 中央の輪から声がかかって、彼女はぱっと振り返る。描いた鳥の方は見ない。僕の方も見ない。弾けるように笑って、「うん」と言って、鞄を掴んで出ていった。その「うん」の音は、さっき黒板に線を引いていた指先とは、別人のもののようだった。彼女が出ていったドアの、閉まる音の残響のあいだ、鳥はまだそこで翼を広げていた。

 前の学校でも、こういう子がいた。美術部の、名前を覚えられないまま卒業した先輩。体育祭のクラス旗を一人で徹夜で描いて、当日は「絵うまいね」の一言で終わった先輩。僕はそのとき、何も言えなかった。ありがとう、も、うまい、も言えなかった。言えなかったことを覚えているのは、たぶん僕だけだった。

 窓から風が入って、桟の花びらがまたひとつ動いた。春の匂いは、花よりもチョークの粉に近い。教室の人口が、五人、三人、と減っていく。部活に行く足音、早弁の弁当箱の金具、スマホの通知音。それらが引いていったあと、残ったのは僕と、黒板の鳥だけになった。

 鞄から、手帳を出した。

 新学期に母が買ってくれた、薄い茶色の革の手帳。表紙の隅に「転入手続きメモ」とだけ書いてあって、その一行以外、どのページもまだ白い。革の表面は、まだ新しいときの固い匂いがした。

 僕は黒板の前まで歩いた。上履きのゴムが、また踵を擦った。右足、左足。誰もいない教室の床は、午後の光で少し黄ばんで見える。黒板の前に立つと、鳥は思ったより小さかった。手のひらに収まるくらいの、でも骨の線は一本一本はっきりしていて、強かった。チョークの粉が、触れていないのに、近づいただけで指先に付いた。粉の粒は、指の腹でこすると、ほんの少しだけ冷たかった。

 手帳を開いて、最初の白いページに、シャーペンを下ろした。

 ——黒板の右下。鳥の骨。四月十二日。

 名前を書こうとして、書けなかった。

 紹介のとき、全員の名前が黒板に書かれていた気がする。でも僕はそのあいだ、踵の痛みと、自分の声の震えのことばかり考えていて、誰の名前も覚えていなかった。

 手帳の名前の欄に、僕は「窓際の、鳥の子」と書いた。

 書いてから、ばかみたいだと思った。ばかみたいだけど、消さなかった。消すためには鞄から消しゴムを出さなければいけなくて、そのあいだに、たぶん僕はこの手帳を閉じてしまう。閉じたら、二度と開かない気がした。

 開いたままにしておく。それだけは、決めた。

 前の学校でもこの時間に、僕は一人で教室にいた。当時はまだ手帳を持っていなかった。ノートの隅に小さく「三組のトロンボーンの子、ソロ中にテンポを戻してた」と書いて、すぐに消した。消したから、その子の名前は誰にも届かなかった。今もどこかで、トロンボーンの子は、誰にも気づかれないまま吹いているのだろうか。あの日の消しゴムのカスが、ノートの背に残っていたのを、今になって思い出した。

 見えるだけで、何もしなかった。

 手帳の最初のページに書いた文字を、僕はもう一度、濃く、なぞった。シャーペンの芯が、紙を小さく凹ませた。その凹みを、指の腹で確かめた。紙の繊維の、ほんの少し毛羽立った感触が、指紋の谷に引っかかった。凹みの底に、午後の光がほそく溜まっていた。

 まだ、声をかける勇気はない。でも、名前の欄を空けておくことはできる。

 立ち上がって、黒板消しを手に取った。鳥を——消さずに、その周りのチョークの粉だけを払った。明日の日直が、日付を消すときに一緒に消してしまわないように、鳥の左右に一センチずつ、余白を作った。粉が舞って、光の中で一瞬、鳥の形をなぞった気がした。錯覚だと分かっていた。錯覚だと分かっていて、それでも、息をそっと止めた。

 教室を出るとき、廊下の突き当たりから、低く低く、歌声が聞こえた。合唱部の練習の声——ではなくて、その裏側の、もっと深いところで鳴っているような音。メロディではない。和音の、一番下を支えている音。その音は、僕の胸の骨のどこか、いちばん奥の仕切りを、一度だけ小さく震わせた。

 僕は立ち止まって、手帳を鞄から出し直した。シャーペンの先で、二行目の名前欄に、もう一本、線を引いた。

 まだ、誰かは分からない。でも、明日からこの手帳には、名前を知らない名前が増えていく。前の学校でしなかったことを、ここでするかは、まだ分からない。ただ、閉じないでおく。それだけは、決めた。

 上履きのゴムが、また踵を擦った。今度の痛みは、朝よりも少しだけ、遠かった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第1話 - 窓際の、鳥の子 | Novelis