第3話
第3話
二粒目の雨が、左手の甲で、ちゃんと雨粒の形に砕けた。
指の背を、冷たい線が一筋、手首の方へ流れていく。ノブを握ったままの左手が、その冷たさで初めて、鉄の冷たさとは別の温度を覚えた。五月の雨は、まだ優しい。粒の大きさだけが、重くなるほど、もう本気だと告げていた。
「……中、入ろ」
桐生は、胸の前で揃えた紙の束から、目を離さずに、そう言った。
「濡れる、これ」
「あ、」
俺の喉の奥で、やっと音らしい音が戻った。反射で手を伸ばしかけて、途中で止まる。桐生の指の下に、俺の楽譜がある。俺のと、彼女の入院中の編曲者のスコアが、同じ厚みで重なっている。その重なりを、俺の汗ばんだ指で崩しにいく勇気が、どうしても出てこなかった。指先だけが、空中で、意味のない半円を描いて、制服のポケットの縁まで戻っていった。
桐生は、俺の躊躇を待たなかった。
階段室の扉の内側、灰色の踊り場まで、半歩先に踏み込んで、湿った紙の束を、壁際の古い消火器の箱の上にそっと置いた。踊り場の窓から入る光は、雲のせいで、いつもの昼の半分より暗い。蛍光灯がついていないせいで、桐生の髪の先が、灰色と青のあいだの色に見えた。消火器の赤も、その光の中では、錆びた茶色に近かった。
俺も、扉の内側に、やっと一歩入った。ノブを引いた拍子に、鉄の擦れる音がして、鼓膜の奥が、かすかに痺れた。
「あの、」
紙の束の角を揃え直しながら、桐生は、まだ俺の顔を見ずに、そう始めた。指の腹が、一枚ずつ、端を押さえ直していく。几帳面な手つきだった。ピアノの鍵盤に触れる人の、重さの配り方だと、俺は勝手に思った。
「前にも、あったの」
「……え」
「風で、飛んできたの。一枚。ここの扉の、」
桐生の指先が、壁の向こう——屋上の方を、小さく差した。
「下の隙間から、音楽室の、廊下まで」
踊り場の空気が、一段、狭くなった気がした。
音楽室。
うちの高校の音楽室は、特別棟の三階。屋上の扉から、階段を二つ降りて、渡り廊下を一本越えた先。風向きによっては、そこまで紙が滑っていく距離では、ある。頭の片隅で、俺はそのルートを、BPMを数える癖の延長で、勝手に計測していた。二階の踊り場を下る人影、渡り廊下の排水溝の段差、音楽室前のドアマットの手前——紙の一枚が止まる場所として、確かに、不自然ではない。むしろ、風の通り道としては、あまりに自然すぎた。四月の、あの放課後の西風の強さを、俺の左手は、まだ覚えている。
「いつ、」
声が、勝手に出ていた。
「先月。四月の、頭」
桐生は、ようやく、俺の顔を見上げた。濡れた睫毛は、もうほとんど乾いている。代わりに、睫毛の下の黒目が、屋上で見たときより、さらに半歩深くなっていた。
「それから、時々」
「時々、」
「二週間に、一枚くらい。多いときで、三枚」
桐生の右手が、彼女の持っていた自分のスコアの、裏表紙の内側に、指を差し込んだ。
クリアファイルの角が、覗いた。
透明な、A4用のよくあるやつ。その中に、くたびれた五線譜が、五枚、重なっている。角が丸く潰れている。一番上の一枚に、見覚えのある癖のある付点が、四分音符の尻にぶら下がっていた。紙の右下の隅には、俺が無意識に鉛筆を滑らせて作った、小さな三角の黒ずみまで、そのまま残っていた。
俺の、四月の、書き損じだった。
「これ、」
桐生は、クリアファイルを、踊り場の壁に押し付けるように、俺の目の高さに掲げた。透明なフィルム越しに、蛍光灯のない踊り場の光が、五枚の紙を裏から薄く透かす。五線の一本一本が、水面の下の糸のように、ゆらりと見えた。
「音楽室の、前で、拾った」
「……」
「捨てようと、思ったの。最初は。誰かのいたずらかと」
桐生の声が、少しだけ、上擦った。
「でも、一枚目を、読んでみたら、」
そこで、彼女は、一度、唇を噛んだ。下唇の内側に、小さな縦の歯形が残って、すぐに消えた。
「四小節目で、手が、止まったの」
俺の、膝の裏が、じわりと汗ばむ。
「次の日、また、拾った。二枚。読んだら、同じ人の字だった。鉛筆の濃さと、旗の傾き方で、分かるの。わたし、楽譜、いっぱい見てきたから」
桐生の指が、クリアファイルの縁を、そっと撫でた。指先が触れるたびに、ファイルの端が、きゅ、と短く鳴った。その音は、雨音よりも、ずっと近くで、俺の耳の内側に届いた。
「それで、溜め始めた。誰が書いてるのか、分からなかったけど」
彼女は、そこで一度、息を吸い直した。肩が、わずかに、上下した。
「今日、」
「屋上で、見たとき、」
「同じ、字だった」
俺の喉が、勝手に、ごくり、と鳴った。
その音は、踊り場の静けさの中で、自分でも不格好なほど大きく響いた。桐生は、気づかないふりをしてくれた——というより、気づいているのに、触れないでくれていた。その気遣いの一拍が、かえって、俺の奥歯を締め付けた。こめかみの裏で、心臓の音が、四分の四で、律儀に鳴っていた。
「これ、」
桐生の顔が、雨の音の薄い向こう側で、まっすぐ俺に向いた。踊り場の窓の外を、雨粒が、斜めに一本、走って落ちた。その影が、桐生の頬の上を、一瞬だけ撫でて消えた。
「あなたが、書いたの?」
屋上で一度訊かれた問いが、もう一度、踊り場の湿った空気の中で、別の温度を連れて来た。一度目より、声が低かった。低い分、逃げ場が、どこにもなかった。
答えたら。
答えたら、俺の指は、二週間後、たぶん人前で震えることになる。十五人の部員の前で、指揮台の袖で、三宅先生の視線の前で、彼女の期待の前で。書いたものを紙のままで留め置く聖域は、この瞬間に終わる。終わったあとの世界で、俺がまた五年生の合唱コンクールの天井を見上げることが、ないと、誰にも保証できない。あの日の、体育館の梁の、白い塗装の剥げ方まで、俺の網膜は、まだ正確に覚えていた。
俺の舌は、もう、鉄の味に慣れかけていた。四月に切れた頬の内側の傷が、今日、三度目に開いている。三度目は、もう、痛くも、なかった。その痛みのなさが、かえって、たちが悪かった。
「……違う」
嘘だった。
息よりも細い声で、俺は、そう言った。自分の声が、踊り場のコンクリートに吸い込まれていくのを、他人事のように聞いた。
桐生の、目が、半歩、揺らいだ。揺らいだけど、呆れなかった。怒りもしなかった。ただ、黒目の奥が、ふっ、と湿り直した。雨で乾きかけていた睫毛が、内側から、また濡れていく。
「……そう」
その一音は、責める声ではなかった。
責められたほうが、俺は、たぶん、楽だった。
桐生は、それ以上、問い詰めなかった。代わりに、クリアファイルを胸の前で抱き直して、消火器の箱の上の紙の束に、視線を落とした。置いてある楽譜と、ファイルの中の五枚が、同じ筆跡の、同じ製本糊の匂いを、踊り場の中で、静かに並べて見せていた。その匂いは、湿気を吸った分、いつもより一段、甘く、重かった。
俺の左手は、まだ、扉のノブを握ったままだった。
ノブを、引いた。
内側から引いたのか、逃げるために引いたのか、自分でも分からないまま、俺は扉の隙間に、体を滑り込ませた。階段の下り口に向かって、半歩、踏み出す。
「待って、」
桐生の声が、背中に当たった。
「名前、」
俺は、振り返らなかった。
階段の一段目を、踵から強く踏んだ。踵の骨に、石段の硬さが、ごつり、と跳ね返ってくる。その痛みだけが、今、俺を教室まで運んでくれる唯一の推進力だった。
階段を、二段飛ばしで駆け降りる。
踊り場の窓ガラスに、自分の顔が、一瞬、映った。頬が、妙に白い。唇の端に、赤いものが滲んでいる。俺は、それを制服の袖の内側で、乱暴に拭った。袖口のボタンが、唇の下のすぐ横を、小さく引っ掻いた。
雨音は、もう、本物になっていた。
渡り廊下の屋根を、粒の音が、二つ三つと叩き始めている。窓の外の空は、五時間目の開始を待たずに、完全に灰色へ沈んでいた。五時間目の本鈴が、鳴り出す。その音の下で、俺の頭は、また勝手に、BPMを数え始めていた。
教室の扉は、もう閉まっている。
俺はノブに手をかける前に、一度、背中で廊下を振り返った。屋上に続く階段の、踊り場の角。人影は、見えなかった。ただ、湿った製本糊の匂いだけが、俺の制服の袖口に、うっすら移って残っていた。
明日、屋上の扉を開けたら、そこに、桐生陽菜が、立っている。
そんな予感が、濡れた袖口から、じわりと、腕の骨まで染みてきた。