第2話
第2話
冷たい鉄のノブが、俺の指の半分だけ、ゆっくり回った。
湿気で鉄の表面に薄く水の膜が張っている。掌の線に、その冷たさが一本ずつ入り込んでくる。五時間目の予鈴はもう鳴り終わって、校舎の中で上履きの音も遠のいた後だ。俺は一拍遅れで教室に戻る、それだけのことをするために、肩の重さを作り直していた。
その瞬間、内側から、ノブが勝手に跳ねた。
俺の親指の付け根に、ぐきり、と鈍い痛みが走る。握っていた指を振り払うように、ノブは逆方向へ大きく弧を描いた。扉の内側、階段室の冷えた空気が、湿った土埃の匂いを連れて、俺の顔面にぶつかってくる。
つんのめる俺の二歩前で、誰かが息を切らしていた。
「——ごめん、っ」
掠れた声が、扉の陰から飛び出してきた。
白いハイソックス、紺のプリーツスカートの裾、青い縁取りの上履き。下から順番に視界に入ってくる情報を、俺は一拍、処理できない。上に視線を上げる。制服の胸元に、ピアノの鍵盤を横に並べたような、白い校章の刺繍。その上で、肩が上下している。
桐生陽菜、だ。
二年一組、吹奏楽部部長。名前と肩書きだけは知っていた。学年集会で一度、前に出て喋ったことがある。その時の声は凛と整っていて、マイクを通しても語尾が震えなかった。今、俺の目の前で肩を上下させているのは、その声の持ち主と、同じ顔とは思えない何かだった。
まず、睫毛が濡れていた。
その下の目の縁が赤く腫れて、左の頬に、涙の通った細い光の筋が二本、まだ乾いていない。鼻の頭は桃色というより朱色で、呼吸のたびに、息が喉の奥で一度引っかかっている。右手にはA4より一回り大きい紙の束。握りすぎて、表紙の角がくしゃくしゃに曲がっていた。
「あの、ここ、」
彼女の目が、俺を素通りして、屋上のコンクリートの上を走った。
あ、と思う間もなかった。
音楽理論書の脇で、風が、ぱら、ぱら、と、俺の楽譜の束を乾いた音でめくっていた。一番上の数枚は、もう位置が半分ずれかけている。五月の湿った風が、さっきより確実に強くなって、重しの和声学だけではもう足りていない。
桐生の視線は、その紙の山の前で止まった。止まって、それから、動かなくなった。
「——ごめん、本当にごめん、」
もう一度、同じ言葉が、今度は誰に向かって言っているのか分からない形で落ちてきた。
桐生は扉のこちら側、屋上のコンクリートに踏み出した。踏み出した拍子に、右手に握っていた紙の束の角から、製本糊の甘ったるい匂いが、湿った風に乗って俺の方まで届いた。その匂いは、俺が毎日指の腹で撫でている五線譜と、まったく同じ銘柄の匂いだった。
「ここ、誰もいないと思って、」
小さく言って、彼女は膝のあたりに手をやった。制服のスカートの生地を、指先で一度だけ、ぎゅっと握り込む。爪の先が白くなって、生地に細い皺が寄る。
「編曲者が、」
そこで言葉が、半拍、止まった。
「——編曲者が、倒れて」
音は、小さかった。教室で誰かが笑う声より小さい、俺が屋上で鉛筆の芯を折る音と、たぶん同じくらいの小ささだった。でも、その一行を全部言い切るまでに、彼女は三回、息を飲み直していた。
「コンクールまで、」
「二週間、」
俺の口が、勝手に後を引き取っていた。
桐生の顔が、ゆっくり上がる。濡れた睫毛の向こうで、黒目が一度、焦点を失って、それから、俺の顔の上でちゃんと止まった。
「……知って、るの?」
「——あ、いや、」
声が、喉の奥で、半オクターブ上擦った。
「予鈴の前に、廊下に、貼り紙、」
嘘だった。
俺は毎日吹奏楽部の部室の前を遠回りで通って、合奏の乱れを頭の中で勝手に直していて、コンクールの日程が部室の脇に貼り出されているのを、三日前に一分間立ち止まって全部暗記した——そんなことを、初対面の部長に、言えるはずがなかった。
「……そう、」
桐生は、俺の嘘を疑うような目は、しなかった。
その目は、俺を通り越して、もう一度、コンクリートの上の楽譜の方へ吸い寄せられていた。
「譜面、」
彼女の喉仏のあたりで、小さく言葉が跳ねた。
「その、そこにあるの、」
重しの和声学を、風が、またぱら、とめくった。
一番上の、さっき俺が書きかけた四小節が、半分だけ桐生の方を向いて、ひらり、と軽く持ち上がった。木管のライン、テナーサックスの副旋律、四小節目のあの直せなかった一節。鉛筆で書いたばかりの付点八分音符が、五月の薄い光に透けて、彼女の目の中に入っていく。
桐生の、息が、止まった。
肩が一度、大きく上がって、そのまま、おりてこなかった。右手に握っていた紙の束の角が、重力を忘れたみたいに、だらりと下がる。糊の角が擦り切れて、表紙の端が、ぴくりと震えた。
「これ、」
桐生は、唇を一度、噛み直した。
「……これ、」
目が、楽譜の一枚目から、二枚目、三枚目へと、ものすごい速さで移っていく。譜面を読んでいるというより、譜面の上を目で舐めている。俺の知らない音が、彼女の耳の中で、たぶん鳴っている。紙の上の音符が、彼女の頭の中で、十五人分の楽器に分配されていく——その光景を、彼女の目玉の動きだけで、俺は勝手に再生してしまった。
いや、やめろ。
俺は、唇の内側を、奥歯で一度、強く噛んだ。四月に切ったあの場所が、また、同じ角度で、ぷつ、と開く音がした。舌の先に、鉄の味。
「待っ、ちょっと、待って、」
俺は屋上の真ん中へ踏み出して、桐生と楽譜の間に、自分の体を割り込ませた。膝が、自分でも思っていた以上に、細かく震えていた。
「それ、ただの落書きで、」
「落書き、」
彼女の目が、初めてまっすぐ、俺を捉えた。涙はもう、乾きかけている。代わりに、別の熱が、その目の奥で立ち上がっていた。部長として学年集会で喋ったときの声より、もっと低い場所から、持ち上がってくる何かだ。
「落書きが、四段書きで、」
「……え、」
「落書きが、十六分で刻んで、」
彼女は紙の一枚を、慎重な指先で拾い上げた。
「落書きが、こんな、副旋律を、」
続きは、言葉にならなかった。
代わりに、彼女は、握りしめていた右手のスコアを、ゆっくりと胸の前で広げた。表紙の中央に、青いインクで印刷された曲名。その下に、「編曲」から始まる人の名前が一つ。さらにその下に、三日前の日付で、赤いボールペンの殴り書きが一行——「入院・連絡不可」。赤い文字の下に、細かい涙の跡が、黒い滲みになって残っていた。
「うちの、編曲担当、」
桐生は、スコアを胸に当てたまま、俺のほうを見なかった。
「今朝、倒れた」
声が、また、一度、喉で引っかかる。
「過労。本人は、やれるって言ったのに、顧問が、病院から出るなって、」
「……」
「コンクールは、二週間後」
「誰も、書けない」
雲の底が、もう一段、低くなった。五月の風が、屋上のフェンス越しに、遠くの中学校のB♭のロングトーンを連れてきた。フラット一つ多めの調、音程はやっぱり揃っていない。そのずれを、俺の頭は、いつもの癖で、勝手に直し始めていた。
やめろ。頼むから、今は、やめろ。
桐生が、顔を上げた。
「あなた、」
「名前を、聞いてない」
俺は、答えなかった。答えられなかった、が正しい。名前を言ったら、そこから先、楽譜の話に、なるに決まっていた。
桐生は、俺が答えないのを、責めなかった。
代わりに、屈み込んで、コンクリートの上に散らばりかけていた俺の楽譜を、一枚、また一枚、両手で拾い集め始めた。壊れ物を扱うみたいに、角を一切曲げない手つきで。指の長さが、俺のそれより一関節分、細かった。爪の先が短く切り揃えられていて、そのどれにも、マニキュアの痕が、ない。
「これ、」
拾い終えた束を、彼女は胸の前で、もう一度そっと揃えた。自分のスコアと重ねる前に、一度だけ、俺の顔を正面から見た。
「全部、あなたが、書いたの」
俺の舌の先に、また、鉄の味が上がってくる。答える代わりに、俺は奥歯をひと段、噛み直した。頬の内側の肉が、四月に切れたあの場所で、三度目に開く。その小さな痛みの方が、喉の上で固まりかけていた声の塊より、ずっと扱いやすかった。
風が、一段、強く屋上の真ん中を吹き抜けて、和声学の表紙を、ぱた、と鳴らした。
桐生の右手の中で、彼女のスコアと、俺の落書きの束が、同じ厚みで、一度だけ揃った。
ノブにかかったままの俺の左手の甲に、ぽつり、と何かが落ちた。
最初の一粒は、たぶん、五月の雨だった。
二粒目の方は、本当に雨なのか、俺は、確かめることができなかった。