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屋上で書いた楽譜

第1話 第1話

第1話

第1話

鉛筆の芯が、乾いた音を立てて折れた。

五時間目が始まる十五分前、屋上のコンクリートに腰を下ろして、俺は今日一本目の鉛筆を諦めた。4Bの木屑がスラックスの膝に散って、五月の風がそれを端から掃いていく。ペンケースから次の一本を取り出す。HBだと線が薄すぎる。この屋上で音符を書くには、芯が柔らかくて濃いやつがいい——そう決めてから、もう二年になる。指先で芯の先端をそっと撫でて、削り跡の角がきちんと立っているのを確かめる。この一手間を省くと、付点の粒が潰れて読めなくなる。俺だけが読めればいいのに、それでも粒の揃わない音符は、自分で見返したときに嫌な気分になる。

俺こと藤代奏、高校二年二組、出席番号二十三。教室で喋った時間を全部足しても、たぶん一日十分に届かない男だ。

昼休みの屋上は、俺だけの聖域だった。

鉄柵の向こうに、街の音が薄く層になって届いている。踏切の警報、遠くのトラックの低い唸り、どこかの中学校で練習している吹奏楽部の合奏——B♭のロングトーン、フラット一つ多めの調、音程はまだ揃っていない。俺はそれを聞き分けながら、五線譜の上に鉛筆を走らせる。小指の側面が、紙の繊維をなぞる感触。日に焼けてざらついたコンクリートが、制服越しに尻の裏を熱くしている。鼻の奥には、雨が来る前の、水を含んだ土埃の匂い。給水塔のあたりで鳩が一羽、短く鳴いた。そのピッチは、たぶんラの♭。俺は無意識に、そいつの鳴き声をノートの余白に音価なしで書き留めてしまう。街の全部が、俺の耳には勝手に音符になって降ってくる。頼んでもいないのに、世界は俺に楽譜を書き取らせようとする。

ノートの上には四段。木管のライン、金管のライン、打楽器、ベース。全部、誰にも聞かせない。聞かせる相手も、いない。

教室の俺は、空気だ。

朝の挨拶をされたら頷く。ノートを貸してと言われたら黙って差し出す。笑いの中心で誰かが跳ねているとき、俺は自分の机の木目の数を数えている。背は高くない。顔もべつに整っていない。運動はそこそこで、勉強はちょっとだけ上。何一つ尖っていない男だから、クラスの誰も、俺が鞄の底に五線譜の束を隠していることを知らない。

四月の最初に、音楽の時間で前に出て歌うやつがあった。俺は上から三番目の声の高さで、誰の声とも被らないように、リコーダーみたいに薄く歌った。担当の三宅先生が「藤代くん、音感いいね」と、通り過ぎざまに一度だけ言った。俺はそのとき、舌の上に鉄の味がするくらい強く奥歯を噛んだ。頬の内側の柔らかい肉が、犬歯の角にひっかかって、ぷつんと小さく切れた。その夜、洗面所の鏡の前で口を開けたら、白い粘膜に赤い線が一本走っていた。いい音感ですね、と言われたこと。たったそれだけで、俺は自分の口の中を傷つけてしまう程度には、まだ壊れていた。

気づかれたら、期待される。

期待されたら、応えなきゃならない。

応えきれなかったときの、あの声の翳り方を、俺は小学校の合唱コンクールで嫌というほど覚えている。五年生、ソロ。前列の男子が一回咳き込んだだけでずれた伴奏を、俺は立て直せなかった。体育館の天井は高くて、音は上に吸い込まれていって、誰の拍手もすぐに消えた。母さんが帰り道で「いい経験だったよ」と笑った声の、作り物の抑揚。帰り道の桜はもう散って、アスファルトに張り付いた花びらが靴の底にへばりついていた。家に着いてから庭の木の根に腰掛けて、指先が痺れるまで地面を叩いた、あの乾いた土の感触。爪の間に土が入り込んで、その夜、風呂で洗ってもなかなか落ちなかった。

だから、屋上に逃げた。

ここには採点する人間がいない。

風向きが、少しだけ変わる。北西から東寄りに、十度、十五度。スコアの端がめくれ上がって、俺は左手の甲を紙の上に置いた。手首に、インクと製本糊の匂いが移る。甘くて、ちょっとだけ酸っぱい匂いだ。

十六分音符を三つ、続けて打ち込む。タ・タ・タ——このタイミングでクラリネットの抜け、ここに金管のアクセント、四小節目の頭でスネアが跳ねる。ノートの右上、日付の欄に「五月十七日」と書き足す。うちの高校の吹奏楽部のコンクールまで、あと二週間。

俺は、その曲を勝手に書いている。

吹奏楽部の部室の前を、俺は毎日わざと遠回りして通っている。扉の隙間から漏れてくる音の乱れ、合っていない和音、誰かのソロの上擦り方を、頭の中で勝手に直している。もしもこの人がここを吹かなかったら。もしもこのパートが半拍早かったら。もしもこの曲の二小節目に、裏で木管が滑り込んだら。

そういう「もしも」を、誰にも言わないまま、屋上に運んで、紙の上に落とす。

今日書いているのは、架空の演奏のための譜面だ。十五人編成、中規模ホール、残響一・五秒。主旋律はクラリネット、副旋律はテナーサックス、最後のサビでトランペットが割って入る。頭の中では、もう完璧に鳴っている。あとは紙の上に移すだけなのに、鉛筆を握った瞬間から、あの合唱コンクールの「ずれ」が喉の奥で疼く。完成の二歩手前で、俺はいつも止まる。

誰かに渡すわけでもないのに、俺は完成を恐れている。

そのことに気づかないふりをして、今日も四小節目を書いては消し、書いては消しする。消しゴムのカスが、黒いスラックスの膝にくっついていく。親指でそれを払ったとき、風が一段、強くなった。

北東から、五月にしては湿った風。

遠くの空で、雲が厚くなり始めていた。西の山の稜線の上に、灰色の縁取りが一本伸びていて、その縁の内側だけが妙にくっきり白い。夕方までに降るな、と思う。湿度の上がった空気が、鉛筆の黒鉛を紙に吸着させる音を、少しだけ鈍くしている。筆圧を半段階上げて、俺は四小節目の最後の音を置こうとした。その瞬間、胸の奥で、自分でも認めたくない小さな期待が、ぽっ、と火をつけたように温かくなった。今日こそ、止まらずに最後まで書けるかもしれない——そんな、根拠のない予感。

楽譜の束は、重しがわりに置いた分厚い音楽理論書の下にある。白茶けた表紙、角が擦り切れて、中は蛍光ペンで半分以上塗り潰されている。表紙の「和声学」の文字は、何度も指でなぞったせいで、金の箔押しが半分剥げて下地の紺が覗いていた。その本の脇から、一番上の一枚だけが、ぴらり、と風にめくれた。

あ、と思った。

指が届かない。

一枚の五線譜が、宙に浮いた。くるりと裏返って、俺の手の甲の産毛をかすめて、屋上の端の方へ流されていく。鉛筆で書いた音符が、五月の光にうっすら透けて見える。木管のライン、四小節目の、ずっと直せなかったあの一節。紙の裏側に書き殴った「もしも、裏で滑り込んだら」という走り書きまで、透けて光っていた。あれは、誰にも読まれないための覚え書きだった。読まれないことが前提の、俺の臓腑みたいなものだった。

立ち上がって追う。運動靴のゴムが、熱いコンクリートを蹴る。膝の裏が引き攣る。スコアを押さえていたはずの左手に、風の冷たさだけがぽっかり残っていた。紙は俺の二メートル先で、気まぐれに上昇気流に乗って、屋上扉の庇の上まで上がってしまった。指先が庇の鉄板に触れて、爪の間に錆の粉が食い込む。鉄の匂い。口の中にまで、その錆っぽい味が上がってくる。つま先立ちで背伸びをして、肩の関節がぎちりと鳴った。指先と紙の間は、わずか十センチ。その十センチが、どうしても埋まらない。喉の奥で、小さく、情けない声が漏れた。あ、とも、う、とも言えない、音にならない呼吸のかけら。庇の鉄板は日に焼けて熱く、触れた指の腹に、ちりっと低温火傷みたいな痛みが残った。

紙は、屋上扉の向こう側——階段室の、開いた小窓の方へ、すっと吸い込まれるように消えた。

チャイムが鳴った。

五時間目の予鈴。俺は庇の下で、錆のついた指を握り締めたまま、動けなかった。校舎の内側で、誰かの上履きがぱたぱたと廊下を走っていく音がする。そのリズムは八分音符、テンポはおよそ百二十。こんなときまで、俺の頭は勝手にBPMを数えている。そのことが妙に情けなくて、俺は奥歯を噛み直した。頬の内側の、四月に切れたあの場所が、また同じ角度で肉に食い込んで、うっすら鉄の味が戻ってきた。

誰かの靴の底に踏まれて、そのまま捨てられるのが、たぶん一番いい終わり方だ。俺の名前は書いていない。筆跡なんて誰も覚えていない。大丈夫、きっと何も起きない。そう、起きないはずだ。起きてたまるか。

そう言い聞かせながら、もう一度屋上を振り返る。散らばった残りの楽譜の上で、五月の風が、知らん顔をしてめくれ上がっていた。音楽理論書の角で押さえきれなかった端が、ぱら、ぱら、と乾いた拍手みたいに鳴っている。空は、さっきよりも確実に暗い。西の雲の縁が、もう屋上の真上にまで伸びてきていた。

明日、屋上に来ても、もう俺だけの聖域じゃないかもしれない——そんな予感が、首の後ろを、冷たい汗みたいに伝った。シャツの襟の内側で、その汗がすっと一筋、肩甲骨の方へ落ちていく。背骨のひとつひとつを、誰かが鍵盤みたいに上から順に押していくような、嫌な冷たさだった。

扉のノブに手をかける。

掌に食い込む鉄の冷たさだけが、妙に、ちゃんと現実だった。

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