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鞘の中の十年、春の教室

第3話 第3話

第3話

第3話

朝から何も食べていない胃の底で、二限目の後に無理やり飲み下した牛乳が、鉄くさい塊のように沈んでいた。四限目の英語の授業中、シャープペンの先で教科書の余白に、道場、という二文字を書いては、消しゴムで擦り消すのを、もう六回繰り返していた。消しゴムの屑が、指先に汗で貼り付いて、机の縁に払い落としても、いつの間にかまた指の腹に戻ってきている。

昼休みのチャイムが鳴った瞬間、俺の膝は、机の下で一度だけ、はっきり跳ねた。

弁当はない。購買に行くふりをして、いつもの菓子パンを買いもせず、俺は教室を出た。上履きのゴム底が床を擦る音が、今日はやけに湿って聞こえる。廊下の窓から射し込む五月の光が、階段の踊り場の手摺りに、白く薄い線を引いていた。

昨日の朝比奈桜の声が、耳の奥にまだ残っている。

――あんたの手、道場の手だ。

その一言が、夜、河川敷で木刀を振る間じゅう、切っ先の先にぶら下がっていた。振りおろすたび、払えず、払おうともしない自分がいた。結局、素振りの本数を、いつもの半分で切り上げて帰った。祖父の三本の白い傷のことばかり、考えていた。

剣道部の道場は、校舎の裏手、体育館からさらに渡り廊下を一本挟んだ、古い木造の建物だった。渡り廊下の屋根のトタンが、風で微かに軋む。近づくにつれ、床を蹴る足音と、短い気合いの声が、聞こえてくるようになった。

「メエッ」「オウッ」

気合いは、生き物の声に似ている。途切れないのに、一声一声は独立していて、押し合ったり、重なったりする。俺は渡り廊下の途中で、一度、立ち止まった。上履きの爪先が、渡り板の継ぎ目を踏んだまま、動かなくなる。

扉の脇に、竹刀袋を抱えた女子が立っていた。

黒の前髪の下、切れ長の目が、まっすぐに俺を見ている。朝比奈桜は、腕時計も見ず、壁にも凭れず、ただ扉の脇の決まった位置に立っているだけで、時間を正確に掴んでいた。

「来た」

短い一言に、値踏みと、ほっとしたような色が、ほんの少しだけ混ざっていた。

桜は返事も待たずに、道場の引き戸を、両手で横に滑らせた。油を差し忘れた戸車が、ガタリと一度だけ渋い音を立てて、すぐに静かになった。

中から流れ出した空気が、顔に当たった。

床板のワックスの匂い。汗を吸って乾き、また吸った防具の、革と綿の発酵したような匂い。畳んだ手拭いのかすかな洗剤の香り。そのすべての奥に、祖父の道場と同じ、古い木材が何十年もかけて溜め込んだ、乾いた埃と油の匂いが、細い一本の線になって通っていた。鼻の奥が、ぎゅっと狭くなった。

「入って」

桜が顎で指した。俺は渡り廊下の縁で、上履きを脱ぐ。靴下のまま板の間に足を乗せた瞬間、足の裏に、磨き込まれた木の冷たさと、指の腹へ細かく吸い付くような、適度なざらつきが伝わった。祖父の道場の床は、もう少しだけ冷たかった。この道場の床は、生きている。

「部長、連れてきました」

奥で、素振りをしていた男子が一人、手を止めた。身長は俺より少し低いが、肩幅が倍近くある。面金の痕が、まだ頬骨に赤く残っていた。

「お前が、昨日の」 「……はい」 「こっち来い」

有無を言わさない声。俺は桜に背中を押された。押された、というほどの力ではない。人差し指の腹が、肩甲骨のあいだに、一瞬だけ触れただけだ。それなのに、そこから全身の骨格が、前へ押し出された。

道場の中央まで、俺は歩かされた。

部員は、男子が五人、女子が三人。全員が、それぞれの稽古を止めて、立ったまま俺を見ていた。板の間の隅に、試合用の旗が二本、壁に立て掛けてあった。赤と白。赤い方の布が、袋の口から少しだけ覗いて、蛍光灯の光を含んでいた。

「名前」 「……柊、悠真です」 「二年?」 「はい」 「剣道、経験は」 「中学で、三年間」

短い問答のあいだ、彼らの視線が、俺の身体のあちこちを通り過ぎていった。肩、腰、膝、手首、指。特に、指。俺は無意識に、右手を左の掌で握り込んで、後ろに回そうとしていた。

「手、見せろ」

副将だ、と名乗る前からわかった。部長の隣に立っていた、眼鏡の男子。俺より少し背が高く、竹刀を左手一本で、鍔元から垂らしたまま、軽く揺らしていた。揺らし方が、うますぎる。指先の力の抜き方が、日常ではない。

「……はい」

俺は、両手を、前に差し出した。

副将の指が、俺の右手を取った。豆の位置を、親指で押す。人差し指の付け根、薬指の第二関節、小指の付け根。三箇所、確認するように押して、もう一度、親指の付け根の丘を、ゆっくり撫でた。

「竹刀を握ってきた手じゃないな。お前、木刀組か」

道場の空気が、ほんの僅かに、重くなった。

「……祖父に、家で」 「流派は」

答えられなかった。祖父は、流派の名前を、俺に一度しか教えなかった。それも、墓場まで持っていけ、と笑いながら言ったきりだった。消えた流派を、名乗る資格が、俺にあるのかわからなかった。

副将は、俺の沈黙を、別の意味で受け取ったらしい。眼鏡の奥で、目が、細くなった。

「部長」

副将が、部長の方へ、顎を一度だけ動かした。

「やらせてください。一本」 「葛城」 「昨日の廊下の話、桜から聞きましたよ。中段の残心、入ってたって」

部長は、腕を組んで、俺を見た。その視線は、副将とは種類が違う。値踏みではなく、測量だった。

「柊、防具は」 「……持って、ません」 「稽古着は」 「ないです」 「貸せ」

部長の声に、女子部員の一人が、壁際の棚から、藍染めの稽古着と袴を一式抱えてきた。袖の内側に、白い糸で「葛城」と縫い取りがあった。副将のお下がりらしい。

「着替えてこい。更衣室、そこ」

部長が指した先は、道場の奥の、小さな引き戸だった。

「あの」 「あ?」 「……俺、まだ、入るって、言ってないです」

喉の奥で、やっと言葉が、形を作った。自分でも驚くくらい、小さな声だった。でも、言えた。

部長は、組んでいた腕を解き、俺の目の高さまで、顔を近づけた。汗と、湿布の匂い。頬骨の痣の赤が、近くで見るとまだ新しい。

「入るかどうかは、一本やってから決めろ。逃げんなら、その後に逃げろ」

逃げる、という単語が、鼓膜の内側で跳ねた。

更衣室の床は、稽古場よりさらに冷たかった。稽古着に袖を通すと、綿の繊維の中に、前の持ち主の汗と洗剤の匂いが、染み込んでいた。他人の汗を纏うのは、生まれて初めてだった。袴の腰板を合わせて、紐を前で結ぶ。指が、手順を忘れていなかった。祖父の家で、四歳のときに、祖父の太い指が俺の指を包み込んで、一回ずつ結び方を覚えさせた、あの感触を、腰骨のあたりが、覚えていた。

引き戸を開けて、道場へ戻る。

板の間の中央に、竹刀を中段に構えた副将が、立っていた。

葛城京介。全中の個人戦、ベスト八。壁に貼られた部活動の実績一覧を、さっき目の端で読んだ。ベスト八は、全国の、本気で勝つために毎日三時間振ってきた人間が集まる場所の、上の方だ。

部員たちは、壁際の板の上に、正座していた。赤い旗と白い旗を、部長と桜が、それぞれ持って立っていた。桜の旗は、赤。赤が、俺の色だった。桜の指が、旗の柄を、握り直した。握り直す、その力の入れ方が、昨日、廊下で俺に「むかつく」と言ったときよりも、ほんの少しだけ、強かった。

部長が、俺に竹刀を差し出した。祖父の木刀よりも、わずかに軽く、撓みがあって、握った瞬間、掌のなかで、呼吸を始めた。

「礼」

号令。俺は、膝を曲げ、手を床についた。額の高さまで、身体を沈める。板の匂いが、鼻の下まで、迫ってきた。

「構えて」

立つ。中段。切っ先、相手の喉の高さ。肘、張らず、垂らす。

葛城の切っ先も、同じ高さにあった。けれど、空気の重さが、違った。彼の切っ先の先で、道場の空気が、細く、絞られていた。

息を吐ききった直後、俺は、自分の呼吸が、いつのまにか、十年前の祖父の道場の呼吸に、戻っていることに、気付いた。

「始め!」

部長の声が、板の間に落ちた。

葛城の左足が、半歩、滑った。滑る、という表現は正しくない。床を擦らず、ただ距離だけが、縮まった。俺の膝の裏が、勝手に、数センチだけ沈む。体重が、爪先の付け根に乗った。指が、柄巻を、ほんの少しだけ絞る。

見えた。

葛城の右肩の筋が、ほんの一筋、起きた。面を打ちに来る、前動作。

十年のあいだ、誰の前でも動かさなかった、俺の身体の、古い動きの最初の一粒が、

――勝手に、動いた。

机の引き出しの奥、赤いマジックの文字の呼吸と、いま、掌の中の竹刀の呼吸が、重なっている。

――今日も喋らなかった。

そう書いていたはずのノートの隅の一行が、今日の夜、書き換わる。

書き換わってしまうことが、まだ怖い。

それでも俺の右足は、もう、踏み込んでいた。

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