第2話
第2話
六時間目の終わりを告げるチャイムが、長方形に切り取られた窓の外で、薄く伸びた春の空気に吸い込まれていった。黒板消しの粉が、西日の光の筋のなかにゆっくり浮き沈みしている。机の下、俺の右膝が、ひとりでに小さく震えていた。膝頭が、木の天板の裏側をときどき擦って、布越しの小さな振動が皮膚に戻ってくる。
引き出しの奥で、赤いマジックの文字が、まだ呼吸している。昨日から一度も取り出していないのに、その紙の位置だけは、指先の皮膚が覚えていた。ノートを出すたび、プリントを入れるたび、指先が無意識にそれを避けて通る。まるで、触れたら何かが決まってしまうみたいに。書いた文字の形まで、指紋の溝に焼き付いている気がした。
「柊くん、日直の日誌、職員室まで持ってって」
隣の席の、昨日プリントを配ってくれた女子だった。朝から目を合わさないようにしていたのに、事務的な用件の声だけは、なぜか素直に届いてくる。俺は「はい」と答えた。自分の声帯が、一拍遅れて音を作った。日誌の角を掴み、ホームルームの人波を縫って廊下へ出る。表紙のざらついた紙が、親指の腹に微かな抵抗を返した。
放課後の廊下は、まだ教室のざわめきの残響で温んでいた。鞄を肩に引っ掛けた誰かが、斜め後ろから追い抜いていく。制汗剤の甘い匂い、体操服の汗の匂い、買い食いの菓子パンの匂いが、廊下の空気に縞模様を作っている。上履きのゴム底が床を擦る音が、前方から、後方から、壁の反響で方角を失って耳元に届く。窓枠の隙間から入ってくる風が、襟足のあたりだけ、ひんやりと撫でていった。
二階の西端、職員室へ曲がる角。俺はいつもの歩幅で、そこへ向かっていた。日誌の厚みが、掌のなかでわずかに湿っていく。
角の向こうから、早足の足音が一つ、近づいてきていた。
ゴム底ではなく、革底に近い、硬い音。軽くて、鋭い。一歩の間隔が、女子の制服のスカートが揺れる幅とは、少しだけずれている。
気付いたときには、遅かった。
*
角を曲がり切るその瞬間、視界の左下から、長い黒の袋が飛び込んできた。
肩から斜めがけの、竹刀袋。走っている。避ける距離が、ない。
「――っ!」
相手の息を呑む音と、俺の上履きが床を鳴らす音が、ほぼ同時に起きた。日誌を胸に抱えた俺の肩と、彼女の肩が、ぶつかる、というより、互いの慣性が噛み合うように押し合った。バランスを崩した彼女の背が、壁ではなく俺の方へ傾く。とっさに左手が伸びたが、彼女の二の腕に軽く触れた瞬間、もう立ち直っていた。運動をしている人間の重心は、そもそも置き所が違う。触れた二の腕は、薄い制服の布越しに、硬い筋肉の線が指の腹に返ってきた。シャンプーか整髪料か、柑橘の皮を薄く剥いたような匂いが、ほんの一瞬だけ鼻先をかすめて、すぐに廊下の空気に溶けていった。
その代わり、肩から滑った竹刀袋が、床に落ちた。
カタン、と硬い音。
袋の口紐が走っている最中にほどけていたらしく、中から竹刀が二本、廊下の床に転がり出た。朱塗りの柄巻、白く光る弦、切先の削げた竹の小口。そのどれもが、廊下の蛍光灯の白い光を、祖父の道場の裸電球とほとんど同じ角度で弾いていた。光の色も温度も違うはずなのに、瞳の奥の記憶が、同じだと言い切ってしまう。
俺の頭のなかで、なにかが自動で動き出した。
左足、半歩前へ。腰を落とす。右手、弦を避け、柄の鍔元から一拳空けた位置。左手、柄頭から指一本分。祖父に四歳で仕込まれた握りが、廊下の白いリノリウムの上で、十年分の精度でそのまま再現された。竹刀を拾い上げるとき、刃筋――木刀ではない竹刀にも、振る方向の表裏がある――が、まっすぐに天井を向いた。掌のなかで、竹の節が四本、指の関節のくぼみへ吸い付くように収まる。その位置決めに、俺の意識はひとつも関わっていなかった。
そして、拾った俺の身体は、その流れの惰性のまま、勝手に一歩下がり、竹刀を中段に構えていた。
切っ先、相手の喉の高さ。肘、内側へ張らず、垂らす。呼吸、吐ききった直後の静止。
残心、と、祖父が呼んだ姿勢。
ほんの、零コンマ何秒だった。我に返った俺は、慌てて構えを解き、竹刀を袋の口へ戻そうとした。胸の奥で、冷たい水が指先まで一気に流れていく感触があった。耳の裏が、じん、と痺れた。
遅かった。
廊下の真ん中で、朝比奈桜は、もう一本の竹刀袋の紐を握りしめたまま、俺を真正面から見ていた。
黒い前髪の下、切れ長の目が、まっすぐに、俺の構えの残像を追いかけていた。瞬きをしない。喉の先に突きつけていた切っ先の軌道を、彼女の視線は、空中で一寸の狂いもなく逆方向に辿っていた。
*
「……あんた」
低い声だった。女子の声というより、道場で号令を掛ける係の、響き方を訓練された声。喉の奥を、芯の通った一本の線が走っているみたいな発声。
「どこで習った」
質問ではなかった。断定の手前の、確認だった。
俺は、拾った竹刀を、両手で彼女に差し出した。言葉が、喉の奥で固まって、メロンパンの粉みたいに、前歯の裏にひっかかる。
「あ、いや」 「いや、じゃなくて」
彼女は一歩、踏み込んできた。踵から爪先へ、重心の乗せ方が、しなやかに先へ抜ける歩き方。それを見た瞬間、俺の足は、反射で半歩引こうとした。自分の足が勝手に距離を測っていることに気付いて、背筋が凍りついた。上履きの底の下、リノリウムの床が、急に薄く感じられた。
朝比奈桜の指が、差し出した竹刀を受け取った。指の腹に、豆の潰れた跡と、それが皮膚の下で白く硬くなった古い痕が、何箇所か並んでいた。俺の祖父の指にあった、あの三本の白い傷とは違う場所、違う形。けれど、同じ種類の手だった。竹を毎日握った人間の手が、握った回数だけ持っている署名のような痕。
「剣道、経験者?」 「……中学まで」
声が、掠れた。嘘ではなかったが、全部ではなかった。中学の剣道は、三年の夏で終わった。祖父の古流は、四歳から今朝まで。十年分の重さを、「経験者」という一語で畳むには、袋が小さすぎた。
「中学まで、で、いまの拾い方?」
彼女は竹刀を袋に戻しながら、視線だけを俺の顔に固定していた。爪が、柄巻の朱塗りを撫でる。撫でる角度が、祖父が木刀の弦を確かめるときと、寸分違わなかった。
「中段の残心、入ってた」 「……すみません」 「謝んないで。むかつく」
短い一言だったのに、叱られたというより、芯の近いところを指で突かれた感じがした。彼女は袋の口紐をきっちり結び直しながら、俺の顔を上から下まで、一度だけ素早く見た。制服のサイズ、姿勢、靴のすり減り方、握った日誌の角度。その全部を、値踏みされているのがわかった。
最後に彼女は、俺の右手の、竹刀を握っていた位置にだけ、目を落とした。
「あんたの手、道場の手だ」
そう言ったきり、彼女は竹刀袋を肩に戻し、俺の横をすり抜けて、職員室とは反対の方向へ歩き出した。二歩、三歩、四歩。止まる。振り返らず、廊下の先の窓の光を見たまま、言った。
「三年二組。朝比奈桜。うちの剣道部、部員足りてない」 「……はあ」 「明日の昼休み、道場の前、来て」
命令でも、勧誘でもなかった。ただ、決定の通知だった。
*
彼女が角を曲がって見えなくなってから、俺はその場に立ち尽くしていた。廊下の端から、下校していく生徒の笑い声が、遠くで聞こえた。腕の中で、日誌の表紙が湿っていた。指先が、さっきまでの自分の構えの角度を、まだ覚えているのが、背筋のあたりでじわりと重かった。
掌を開く。さっきまで竹刀を握っていた右手の、指の節のあたりに、竹の表面の、あの独特の筋の感触が、まだ残っていた。木刀の白樫とは違う、竹刀の竹の、内側に空気を含んだ軽さ。
――剣は、人と交わるための手だよ。
祖父の声が、耳の奥で、昨日より近い音量で鳴った。
俺は十年の間、一度も、誰かの竹刀を拾ったことがなかった。木刀を誰かに渡したことも、一度もなかった。
机の引き出しの奥で、赤いマジックの紙が、まだ呼吸をしている。その呼吸が、いまは、廊下の俺の呼吸と、少しだけ揃っていた。
明日の昼休み、道場の前。三年二組、朝比奈桜。
喉の奥で固まっていた音が、ほんのわずか、言葉の形に近づこうとしていた。俺のノートの隅の文字は、今夜、書き換わるかもしれない。
まだ、書き換えると、決めたわけではなかった。