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鞘の中の十年、春の教室

第1話 第1話

第1話

第1話

文庫本のカバーの折り目が、汗ばんだ親指の腹にわずかに食い込んだ。四月の教室は埃っぽい光で満ちていて、窓から差し込む陽射しが、机の木目を斜めに切っている。俺は読んでいるふりをしながら、四十三ページ目の同じ行を、もう七回なぞっていた。

「ねえ聞いた? 三組の河野、もう彼女できたらしいよ」 「はっや」

反対側で、女子の笑い声が弾ける。届くのに、届かない。ちょうど、河川敷の対岸を通り過ぎる電車の音に似ている。眺めることはできるが、乗ることはできない。

机の下で、指先がノートの角を探る。B5の、裏表紙に近いページ。今朝、家を出る前に書いた文字が、まだ乾ききらないボールペンのインクで沈んでいる。

――今日も喋らなかった。

後ろから二列目、廊下側から二番目。この席から一日で発した声は、出席を取られたときの「はい」の一音だけだった。声帯の筋肉が、朝より少し錆びついている気がする。喉の奥で、言葉になれなかった音が、小さなダマになって溜まっていくのを感じる。呑み込んでも呑み込んでも、それは溶けない。

昼休みのチャイムが鳴る。俺――柊悠真は、読みもしない文庫本を閉じ、購買で買った菓子パンの袋を机の横から取り出した。ビニールが、掌のなかで小さく鳴る。その音だけが、俺の周囲で生まれる唯一の音だ。

クラスの連中が、弁当箱を囲んで机をくっつけていく。合体の輪が、俺の席の手前でぴたりと止まる。たぶん誰も悪気はない。中学の時に一度、俺が自分で壊してしまった輪が、ここまで続いているだけだ。

菓子パンを齧る。パサついたメロンパンの粉が、前歯の裏にひっかかった。甘いのに、味がしない。咀嚼する音が、自分の頭蓋骨の内側だけで響いている。すぐ隣の席で、誰かが「ウケる」と笑った。笑い声は壁を一枚隔てた向こうから聞こえてくるようで、俺はただ、パンの袋の内側の結露を、視線の逃げ場にしていた。

放課後、河川敷の草は伸び始めたばかりで、まだ足首にしか届かない。五時半の陽が、土手の上の桜の幹を横から照らしていた。花はもう半分散っている。舗装されていない土の道に、俺は自転車を倒した。倒れたホイールが、最後にカラカラと一度だけ回って止まる。その金属音が、夕方の静けさを一層深くした。川面は浅い橙に染まって、風が吹くたびに鱗のような光の粒が一斉に身じろぎする。上流の鉄橋の方から、貨物列車の低い地響きが、骨の奥にまで染みてきて、やがて薄れていった。

ジャージの上着を脱ぎ、袋から白樫の木刀を抜く。柄を握ると、汗が引いた掌に、木の繊維のざらつきが吸いついた。握り方は、右手が鍔元から一拳、左手は柄頭から指一本分。祖父がそう仕込んだ。四歳のときだ。祖父のごつごつした指が、幼い俺の指を一本ずつほどいて、正しい位置に置き直した感触を、今でも掌が覚えている。節くれだった祖父の指には、若い頃に竹刀の革で擦り剥いたという、小さな白い傷が三本並んでいた。俺はその傷を、数字のように覚えている。

正面の素振り、五十本。 斜めの袈裟、五十本。 左右の胴、それぞれ三十本。

数字に意味があるわけじゃない。ただ、区切らずに振ると、振り続けてしまうから、決めているだけだ。止まることを忘れる自分が、少し怖いから。

木刀の切っ先が空を裂く音が、シュ、と鳴る。この音だけは、俺のためだけに鳴る。教室で消えそうになっていた輪郭が、一振りごとに濃くなっていく。十年分の重みが、肩から指先まで一本の線になって通っていく。呼吸を数える。吸って二拍、吐いて三拍。吐くときにだけ振る。胸郭の内側で、心臓が木刀の軌跡に合わせて揺れているのがわかる。額から垂れた汗の粒が、顎の先で一度とどまり、草の上に落ちて、音もなく吸い込まれていった。爪先の下では、早春のクローバーが潰れて青い匂いを放ち、その匂いが記憶のどこか古い扉を静かに開ける。

「悠真、剣ってのは、一人じゃ錆びるもんだ」

祖父の声が、五十一本目の素振りで不意に蘇った。去年の冬、病室のベッドでそう言った。骨と皮ばかりの手で、俺の手首を軽く握って。消毒液と乾いた布団の匂いが、鼻の奥にまだ残っている。痩せた指の力はもう弱くて、それでも握る形だけは、道場で竹刀を持たせてくれた頃と同じだった。窓の外では、氷雨が病棟の庇を叩いていて、その音の向こうで祖父の呼吸だけが、途切れ途切れに続いていた。

「剣は、人と交わるための手だよ」

俺はそのとき、黙って頷いただけで、言葉は返さなかった。返せなかった。喉の奥で固まった何かが、どうしても声の形にならなかった。祖父はそれから二週間後に死んだ。棺の中の祖父の手に、俺は自分の手を重ねることもできずに、ただ爪先で床のタイルの継ぎ目を数えていた。タイルは三十二枚あった。数えている間、誰かの啜り泣きが遠くで聞こえていたが、それが自分の喉から漏れた音だと気づいたのは、随分あとになってからだった。

木刀を鞘に納める所作だけを、空気のなかで再現する。本物の真剣を握ったことは一度もない。だが納刀の動作は、祖父が一番厳しく仕込んだ型だった。納めるときが、一番殺気が出る。そう言っていた。刀を収めるというのは、振るうよりも難しい。振り上げた気持ちを、自分の中へ静かに戻していく作業だから。右手首を返し、肘の内側の角度を守り、鞘口に切っ先を添わせる。見えない鞘に、見えない刃が滑り込む。その一連の動きの最後で、息を止める一瞬があって、その静けさの中にだけ、祖父が立っているような気がした。

夕暮れの風が、汗ばんだシャツの裾をめくる。上流から、ランニングしている誰かの足音が近づいて、通り過ぎていく。俺は振り向かない。相手も俺を見ない。それが河川敷の、心地よい暗黙だった。土手の上で、誰かの自転車のライトが一度だけ点滅し、すぐに遠ざかっていく。世界は俺に関心がなく、俺もまた、世界に関心を持てずにいた。それでも、木刀の切っ先だけが、まだ春の空気を覚えている。

木刀の柄に、手のひらの汗が黒い染みを残していた。拭うのが、もったいないと思った。染みの形は、祖父の指の傷に、少しだけ似ていた。

翌朝、一限前の教室。

俺が席に着いて、いつものようにノートを開こうとしたとき、机の上にぺらりと一枚の紙が置かれていた。

『文化祭実行委員、絶賛募集中! 各クラス二名!』

赤のマジックで、派手な太字。下の方に、申込書の切り取り線まである。ご丁寧にクラス名のところには、もうボールペンで「2-B」と書き込まれていた。

顔を上げると、隣の席の女子が、ぺこりと小さく頭を下げた。

「ごめん、先生が、とりあえず全員に配ってって」

俺は頷いた。「はい」と言えればよかった。ただ首を縦に動かすだけだった。彼女は気まずそうに目を逸らして、自分の席に座り直す。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。たった二文字の返事が、いつも喉の手前でつかえる。頷きでごまかした自分の首の角度が、情けなくて仕方がなかった。首の後ろがじわりと熱くなって、襟の内側に汗が滲む。今さら「ありがとう」と言い直そうかと半拍だけ考えたが、その半拍はあっという間に過ぎ去って、あとには沈黙の残骸だけが机の上に積もった。

紙を裏返す。裏には、昨年の写真が印刷されていた。バンド演奏、メイド喫茶、お化け屋敷。そして一番下、体育館の写真。『部活動対抗戦・毎年大盛況!』――鉢金を巻いた剣道部員が、竹刀を中段に構えている写真だった。粗い印刷のせいで、構えた選手の表情はぼやけていた。それでも、踵の浮き方、肘の角度、切っ先の高さ――そのどれもが、祖父の教えた中段の形そのままだった。写真の端に、観客席の誰かの拍手する手だけが、ブレて写り込んでいる。その拍手が、紙の内側から薄く聞こえてくるような錯覚があった。

その瞬間、指先が、昨日の木刀の柄の感触を思い出した。祖父の声も。

――人と交わるための手だよ。

俺は紙を、机の引き出しの一番奥に押し込んだ。奥に突っ込むときに、紙の角が、前に捨て忘れた英単語のプリントに擦れて、カサッと小さく鳴った。いつもの場所、いつもの沈黙。そのはずだった。それなのに、引き出しを閉めた指が、鍵でもかけるみたいに、最後にほんの少しだけ力んだ。閉め切ってしまわないほうがいい、と、どこかで誰かが囁いた気がした。

一限のチャイムが鳴る。担任が入ってくる。出席が始まる。

「柊」 「はい」

一音。ただし今日は、その一音が、少しだけ掠れた。引き出しの奥で、赤いマジックの文字が、まだ呼吸をしているような気がしていた。薄い紙一枚のはずなのに、膝のあたりが、熱を持った何かを抱え込んでいるように重い。

俺はまだ、知らない。

廊下の向こう、三組の教室の前を、竹刀袋を肩にかけた女子生徒が、早足で通り過ぎていくことを。

その名前が、朝比奈桜ということを。

あと七時間後、俺が彼女と、廊下の角で正面衝突することを。

床に落ちた竹刀を、十年分の動作で、反射的に拾い上げてしまうことを。

――春の、何でもない一日。

その終わりに、俺のノートの隅の文字が、初めて書き換わることになる。

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