第3話
第3話
封筒の端を押さえたまま、俺は十秒くらいそこに立っていた。
息を止めて、もう一度周りを見渡す。やっぱり誰も俺を見ていない。指先で封筒を引き抜くとき、中身がどれくらいの重さなのかを、指の腹で測ろうとしている自分がいた。軽い。折り畳まれた紙、二枚か三枚分の重さ。中学のあの紙と、同じくらいの。
鞄の中に封筒を押し込んで、家まで歩いた。ポストの前で一度止まって、階段の踊り場でもう一度止まって、自分の部屋に鍵をかけてから、ようやく机の前でそれを開けた。
入っていたのは、クラス名簿のコピーだった。
ただの、クラス名簿。出席番号順に並んだ、四月の始業式のときに配られたやつ。俺の名前のところに、蛍光ペンで丸がついていた。他には何も書いてない。誰かの字も、言葉も、なにも。ただ、丸だけ。
意味が分からなかった。意味が分からないまま、俺はその紙を折り畳んで、机の奥の引き出しに入れた。入れたあとも、しばらく指先が引き出しの取っ手に残っていた。忘れよう、と思った。忘れようと思うほど、蛍光色の丸は目の奥に残った。
それでも、四月は過ぎた。
気がつけば、カレンダーは五月になっていた。ゴールデンウィーク明けの廊下は、連休で少し日焼けしたクラスメイトの腕と、新しい薄手のブラウスと、開け放した窓から入ってくる湿り気のある風でいっぱいだった。俺のほうは、連休のあいだずっと部屋にいたから、腕は相変わらず白かった。新しい季節に置いていかれる感じには、もう慣れている。
あの封筒のあと、俺は下駄箱を開けるたびに一度息を止めるようになった。息を止めて、何もないと確認してから、吐く。何もない日が続いているのに、指先の癖だけが残っていた。
五月の、三時間目。現代文の宮原先生が、教卓の上で出席簿を閉じて言った。
「じゃあ、次の単元は班でやります。四人班、席の前後左右で組んでください」
教室のあちこちで、机を動かす音が起きる。ガタガタ、ガリガリ、キュッ。俺の前後左右は、前の席と、後ろの席と、隣の席。隣の席は、先月の席替えのあとしばらく空いていて、風邪で休んでいた女子が先週戻ってきて、今はそこにいる──はずだった。
前の席の男子が、ぐるりと机を回してきた。名前は、佐伯。クラスの中でも声の大きい男子で、俺はいつも、その声の大きさが少し怖いと思っていた。
「よろしく。ええと、あと誰──」
そのとき、隣の机が、ぐっと寄ってきた。
俺の視界の左端に、白いブラウスの袖と、細い手首と、袖口のボタンが映る。見慣れた手首だった。ピアノの鍵盤の上で迷っていた指。それから、四月の、俺の机の横で、袖口のボタンを弄っていた指。今日は席替えで移動したのだと、遅れて気づく。
「三井くん、よろしくね」
桐谷灯の声が、まっすぐに俺の名前を呼んだ。
三井くん。
その三文字の音だけで、鎖骨の下で心臓が跳ねた。跳ねて、少し遅れて、耳の奥が熱くなる。あの日、声を拾わずに逃げて以来、俺は彼女の声をこんな近くで聞いていなかった。聞いてはいけないような気がしていた。聞く権利を、自分から捨てた気がしていた。
彼女は、怒っていなかった。呆れてもいなかった。声の高さは、四月のあの日と同じ高さだった。
「よろ、しく」
俺は、やっと、それだけ言った。最後の「く」が、喉の手前でひと呼吸つっかえた。佐伯が「お、しゃべれるじゃん三井」と笑って、悪意のない手で俺の肩を軽く叩いた。肩が跳ねるのを、彼はたぶん気づいていなかった。
後ろの席は、眼鏡の女子で、俺は名前をまだ覚えきれていなかった。彼女は「瀬川です」と静かに言って、丁寧にお辞儀をした。四人で、机の島ができる。四つの机の継ぎ目で小さな段差ができて、ノートを広げると端が少しだけ浮く。その段差を、俺はなぜか三回くらい指で撫でた。段差を撫でているあいだは、顔を上げなくていい。顔を上げなくていい時間を、俺はいつも、勝手にどこかで作ってしまう。
単元は、短編小説の読解だった。宮原先生が配ったプリントには、登場人物の気持ちを班で話し合え、とある。話し合う、という三文字が、俺の胃の中で小さく転がる。話し合う。話す。合う。どれ一つとして、俺の得意な動詞じゃない。
「じゃあまず、主人公の気持ちからいく?」
灯が、プリントの角を指で押さえながら言った。彼女のノートはもう開かれていて、一行目に「主人公の気持ち」と、まあるい字で書かれていた。「まあるい」というのは変な表現かもしれないけれど、本当に、角のない字だった。端っこが優しくて、読んでいるとこっちの肩の力が少しだけ抜ける、そんな字。
佐伯が「俺、あんま分かんねえんだよな、国語」と笑い、瀬川さんが「私、主人公はたぶん、寂しかったんだと思う」と控えめに口火を切った。灯がそれを受けて、「うん、うん」と頷きながら、まあるい字で要点を書き留めていく。
俺は、何も言えないまま、ただノートを開いた。真っ白のページの左上に、今日の日付だけ、俺の字で書いた。
自分の字は、昔から硬い。筆圧が強すぎて、ボールペンの替え芯を減らす速度がクラスで一番だと思う。角が尖っていて、「井」の縦棒が定規で引いたみたいに真っ直ぐで、担任には毎回、几帳面ねと言われる。几帳面、というのは、たぶん褒め言葉のつもりなんだろう。でも俺にとってはずっと、余裕のなさの別名だった。
灯の字は、俺のと正反対だった。角がなくて、「の」の輪っかが大きくて、「は」の横棒が少し跳ねている。ノートの上で、二人の字が並ぶ、ということを、俺はまだちゃんと想像できていなかった。
「三井くんは、どう思う?」
三井くんは、どう思う。
俺の意見を聞いてくれる人が、中学以来、たぶんいなかった。いなかったから、聞かれたときの返し方を、俺はもう忘れていた。忘れていたのに、口の中で、小さく形が生まれた。
「主人公は」
かすれた声を、一度、咳払いで立て直す。
「主人公は、たぶん、誰かに声をかけてほしくて、でも、声をかけられると逃げちゃう、みたいな」
言ってから、耳まで熱くなった。これは、俺だ。俺の話だ。それを、主人公の気持ち、みたいな顔をして言ってしまった。ばれる、絶対ばれる。佐伯がにやついて、瀬川さんが目を伏せて、灯が──。
灯は、俺の顔を、ちゃんと見ていた。
「それ、分かる」
彼女は、そう言った。分かる、と。分かる、と言えるくらい、彼女もどこかでそういう主人公をやっていたのかもしれない、と一瞬だけ思った。思って、すぐに打ち消した。彼女はあの日、一人で笑いながらピアノを弾いていた。俺とは違う。違うはずだ。
「今の、ノートに書いていい?」
灯が、自分のシャープペンを握り直して、俺のほうに首を傾けた。自分のノートに、俺の言葉を書きたい、という意味だったはずだ。頷く代わりに、俺は、自分のほうのノートも、彼女のほうへそっと押しやった。押しやってしまってから、押しやったのが自分でも信じられなかった。
灯は、にこ、と笑って、自分のノートにまあるい字で俺の言葉を書き留めて、それから俺のノートにも、ちょんと指先を置いた。
「ここ、空いてるよね」
左上の、日付の下。真っ白のスペースに、彼女のまあるい字が、するすると並ぶ。
『主人公=声をかけてほしいけど逃げる(三井くん談)』
(三井くん談)、の四文字の括弧が、まあるく閉じていた。
俺のノートに、俺以外の字が残るのは、いつ以来だろう。中学のノートには、落書き以外、誰かの字が残ったことはなかった。落書きは、字じゃない。字だったと言えるのは、たぶん、今、この瞬間からだ。
「あ、あとね」
彼女は、書き終わったあと、ふっと顔を上げて言った。
「三井くんの字、きれい」
きれい。その二文字が、教室のどの音よりも綺麗に、俺の耳に落ちてきた。
宮原先生が黒板を叩いて、班の話し合いを中断させる声が、別の世界から聞こえた。俺はずっと、ノートを見ていた。自分の硬い字と、彼女のまあるい字が、一行だけ並んでいた。並ぶ、ということが、こんなに静かに胸を温めるなんて、知らなかった。
四時間目と五時間目のあいだの休み時間、俺は理科室へ向かう灯の三歩うしろを歩いていた。三歩、というのは偶然で、本当はもっと離れるつもりだったのに、彼女の足が俺のほうより少しだけ遅かった。
渡り廊下に出た瞬間、向こう側から三年生らしきジャージの一団が歩いてきた。胸元のワッペンの色が違うから、三年だと分かる。その中の一人が灯を見て、ほんの一瞬、目を細めた。横目、と呼ぶにはあからさまな角度で、別の一人が隣の肩を小突いて、唇が何かの形を作った。
灯は、気づかないふりをして、歩調も変えずに俺の前を進んだ。俺だけが、三歩うしろで、その視線の温度を拾っていた。春の終わりの風は、もう夏の匂いをうっすらと含んでいたのに、あの視線の通った場所だけ、渡り廊下の空気が一段、冷たかった。
ノートの中の、まあるい字のことを考える。守る、という動詞が、まだ俺の辞書にあるかどうか、確かめる勇気は、今日の俺には、まだなかった。