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放課後、壁際のきみへ

第2話 第2話

第2話

第2話

彼女の唇が動いた瞬間、俺は廊下を蹴っていた。

振り返る前に、と頭のどこかで誰かが叫ぶ。上履きの底がリノリウムを二度、三度と鳴らして、その音の大きさが自分で信じられないくらい背中を刺す。階段の手すりには触らない、という掟だけは守った。けれど壁に沿うことも忘れていた。ただ真っ直ぐに、昇降口のほうへ、呼吸をしないまま走った。

下駄箱の前で、ようやく足が止まる。肺が遅れて追いついてきて、胸のなかで何かが破裂したみたいに息が戻ってきた。肩で息をしながら、自分の上履きを脱ぐ指先が細かく震えているのを見る。見つからなかった。たぶん、見つからなかった。小窓越しに合った目は、俺の顔の輪郭までは拾っていないはずだ。そう言い聞かせて、ローファーに足を突っ込む。靴べらを使う余裕もなかった。

校舎を出た瞬間、夕方の風が頬に当たって、やっと自分の体温を思い出す。四月の風は、まだ芯のところが冷たい。鞄の持ち手を握り直すと、さっき握りしめすぎた掌に、ぶつぶつと爪の跡が残っていた。赤い三日月が四つ。これが今日、俺が一番たくさん残した証拠だった。

帰り道、信号の手前で俺はもう一度だけ振り返った。校舎の三階、窓のどれかがまだオレンジに染まっていて、その中でたぶんまだ、あの不器用なピアノが鳴っている。耳を澄ませても届くはずはないのに、俺はしばらくそこに立ち止まって、届かない音を探した。風が制服のブレザーの裾を揺らす。糊の匂いに、ほんの少しだけ、さっきの木のニスの匂いが混ざった気がした。

家に帰っても、夕飯の味があまりしなかった。母さんが「どう、高校は」と聞いてくる声に、うん、と答えた自分の声が、今日の俺の全てだった。うん、だけ。それ以上の言葉は、喉の奥で凍ったまま、落ちていかない。

翌日の体育は、二時間目だった。

四月のグラウンドは、まだ土の匂いに湿り気がある。更衣室に入る前から、俺の指はもうシャープペンを握りたがっていた。ない。今はジャージに着替える時間で、机の上のペンは教室に置いてきた。代わりに、鞄の内ポケットに差してきた替えのシャープペンを、制服のスラックスのポケットに移した。感触だけでいい。硬くて、細くて、ここに在る、と分かるものが、ポケットの中にあればいい。

更衣室は、男子の声で溢れていた。

「昨日の部活の見学さあ、サッカー部すごくねえ?」 「行く行く、俺バスケだけど見に行く」 「おい誰だよ俺の靴下蹴ったの」 「知らね」

笑い声。ロッカーの扉を閉める音。シャツを脱ぐ衣擦れ。どれも、悪意のない音だった。悪意のない音のはずだった。それなのに、俺の指はうまくボタンを外せない。二つ目のボタンのところで、指先が滑る。滑った指の爪が、シャツの生地を引っ掻いた。

そのとき、視界の端で、誰かの上履きが床を転がった。

ただ、落ちただけだった。誰かがロッカーから取り出そうとして、雑に扱って、それが足元に落ちただけ。白いゴムの縁が、リノリウムに当たって、ぱたん、と鳴った。

ぱたん。

その音だけで、俺の背中に、中学の下駄箱の匂いが戻ってくる。

二年の、梅雨の終わりだった。下駄箱を開けたら、上履きが片方しかなかった。もう片方を捜して、ゴミ箱の底から見つけたときの、生ぬるい水の感触。濡れた布の重み。「気持ち悪」と誰かが言った。誰だったかは覚えていない。覚えていないのに、その声だけが、俺の中で何度も何度も再生される。その日の帰り道、片方だけ上履きのまま、もう片方は裸足でアスファルトを踏んだ。六月のアスファルトは、ぬるくて、ざらざらで、足の裏の皮膚を一枚ずつ剥がしていくみたいだった。

「三井、大丈夫?」

肩に、誰かの手が触れた。

びくっ、と肩が跳ねる。振り返ると、前の席の男子だった。名前はまだ覚えていない。彼は俺の顔を見て、ほんの少し眉を寄せ、「顔、真っ白だけど」と言った。俺は慌てて首を振った。「大丈夫」と言ったつもりの声が、うまく形にならなかった。掠れて、最後の方が消えた。

ポケットの中のシャープペンを、握り直す。

硬い。細い。ここに在る。

三つ数えて、吐く。四つ数えて、吸う。保健室の先生の声が、耳の内側でだけ小さく鳴る。いまは、いまだ。中学じゃない。ここには、濡れた上履きはない。床に落ちたのは、知らない誰かの、ただの乾いた上履きだ。

それでも、ボタンを最後まで留め終えるのに、俺は人の三倍の時間をかけた。

体育の時間、何をやったのかほとんど覚えていない。ただ、最後の整列のとき、自分の足元の土の色だけがやけに鮮明に見えた。俺の爪先の影だけが、他の誰よりも少しだけ濃かった。気がした。

三時間目の始まりのチャイムが鳴って、教室に戻る。

席に着いた瞬間、机の横に人の気配がした。顔を上げる前に、声のほうが先に降ってきた。

「ねえ、三井くん」

桐谷灯だった。

心臓が、鎖骨の下で一度、強く跳ねた。ジャージから制服に着替え直したばかりの彼女は、袖口のボタンをまだ留めきれていなくて、右手の指先がそれを器用じゃない手つきで弄っている。昨日の、鍵盤の上で迷っていた指と、同じ指だ、と思った。

「昨日さあ」

来る、と思った。

昨日、廊下にいたでしょ。覗いてたでしょ。気持ち悪い。そう言われる準備を、俺の胃は全部済ませていた。胃液が喉元まで上がってきて、舌の奥が酸っぱくなる。机の下で、ポケットの上からシャープペンを握る。硬い。細い。ここに在る。ここに在るから、たぶん大丈夫。大丈夫じゃなくても、息はできる。

「昨日、空き教室でさ、私、ピアノ弾いてたんだけど」

彼女は、少しだけ首を傾けた。

「三井くん、もしかして、聴いてた?」

聴いてた、だった。見てた、じゃなくて。

俺はうまく答えられなかった。口の中が乾いていて、舌が上顎に張り付いていた。目も、合わせられなかった。彼女の顔の、どこを見ればいいのか分からなかった。顎のあたり、鎖骨のあたり、ブラウスの二つ目のボタン。どこに目を置いても、そこから罪みたいに視線が滑り落ちる。

「別に、怒ってるとかじゃ、なくて」と彼女は続けた。声の高さが、昨日笑ったときと同じ高さだった。「下手だったでしょ、あれ。恥ずかしいから、もし聴いてたなら、忘れてほしいなって」

忘れてほしい、と彼女は言った。

忘れてほしい、と言える人がいる。

俺はいつも、覚えていてほしかった。覚えていてほしい人なんて、一人もいないくせに、それでも誰かに自分を覚えていてほしかった。忘れてほしいと軽やかに言える人間と、覚えていてほしいと黙っている人間の差を、俺は鎖骨の下で痛いくらい感じた。

何か、返さなきゃ。聴いてました、下手じゃなかったです、また弾いてください。頭の中には、いくつもの正解らしき言葉が並んでいた。並んでいたのに、舌の上に乗せる前に、全部が形を失った。

俺は立ち上がっていた。

鞄も、教科書も、そのまま。椅子を引く音が、自分の鼓動より大きかった。彼女の「あ、」という、ほんの小さな声が、背中に当たった。当たったまま、俺はそれを拾わずに廊下へ出た。廊下の壁に、また肩を寄せた。壁は昨日と同じ温度で、俺を責めも褒めもしなかった。

トイレの個室に入って、鍵を閉めて、便座の蓋の上に座ったとき、ようやく息を吐いた。

吐いた息の中に、ごめん、という音が混じっていた気がした。誰に言ったのか、自分でも分からないまま、俺はそれを膝の上に落とした。膝は、さっきの体育の土でまだ少しだけ汚れていて、白い汚れが、ごめん、の形に似ていた。

昼休みも、五時間目も、六時間目も、彼女と目を合わせなかった。合わせる勇気がなかった。彼女のほうも、もう話しかけてこなかった。それは優しさだったのか、呆れだったのか、俺には判別がつかなかった。判別がつかないまま、放課後のチャイムが鳴った。

昇降口に着いたとき、俺は、自分の下駄箱の扉をいつもより慎重に開けた。

白い封筒が、差してあった。

名前も、宛名も、何も書かれていない、真っ白な長方形。ローファーの甲の上に、それは妙にきちんと立てかけられていた。誰かが、わざわざ、ローファーの傾きに合わせて、倒れないように、差し込んでいた。

指先が、昨日より冷たくなった。

中学のときの手紙を、俺は覚えている。折り紙みたいに小さく折り畳まれて、机の中に突っ込まれていた紙。開いたら、汚い字で「死ね」と書いてあった紙。あれと、この封筒は、見た目が全然違う。違うのに、俺の指はまったく同じ速度で震えている。封筒の表面は、夕方の蛍光灯の下で、白すぎた。白すぎて、こちらの顔色まで照らしてしまいそうだった。

取るべきか、触らないべきか。

誰かに見られているんじゃないかと、無意識に周囲を見渡した。昇降口には、下校する生徒がまばらにいて、誰も俺のほうを見ていなかった。見ていないはずだった。見ていないのに、背中のどこかが、じっと見られている感じだけが残った。

俺は、封筒の端を、指の腹でそっと押さえた。

押さえただけで、まだ、取っていない。

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