第1話
第1話
始業式の拍手が止んでも、俺の指だけがまだ震えていた。
新しい教室、知らない顔、窓の外を走る四月の風。全部が遠いのに、全部が近すぎる。机の上のシャープペンの先で、ノートの端を小さく削る。ガリ、ガリ、と小さな音。その音が聞こえるくらい、俺はまだ息を止めていた。
教室の壁には、まだ色の褪せていない学級目標のプリントが斜めに貼られている。前の学年の誰かが消し忘れた黒板の端の落書き、真新しい座席表、そのどれもが、俺の居場所ではないという事実だけを丁寧に確認させてくる。隣の席の女子が友達と身を寄せ合って、携帯の画面を覗き込みながらくすくす笑う。その笑い声は悪意のないただの空気なのに、俺の肩はひとりでに一センチ下がった。悪意がなくても、俺はそこに混ざれない。混ざれないことを知っているから、最初から手を伸ばさない。
クラスメイトの誰かが笑う。誰かが席を立って廊下へ出ていく。「次、空き教室で──」という声が遠くで尾を引く。俺には関係ない。関係なくていい。視線を上げないこと、相手より先に笑わないこと、窓際の一番後ろの席を選ぶこと。中学の三年間で体に刻んだ三つの掟を、この高校でもそっとなぞる。
黒板の上の時計が、午後の斜めの光を受けて白く光っていた。昇降口まで、あと何歩。脳内で道順をなぞる。廊下を右。突き当たりをもう一度右。階段の手すりには触らない。壁に沿って歩けば、たぶん誰にも見つからずに外へ出られる。
ポケットの中で、制服のブレザーがまだ硬い。袖口には糊の匂い。どこから見ても、ここに馴染んでいない俺の輪郭だけが、春の教室でひどく浮いていた。
「三井くん、今日の日直──ごめん、明日に回していい?」
担任の声が、遠くのスピーカーから聞こえたみたいに響いた。俺は頷いた。声は出なかった。出し方が、まだよくわからない。喉の奥で言葉が凍って、唾を飲むたびにそれが胸に落ちていく感じがする。担任はそれ以上何も気にせず、別の生徒の名前を呼びに離れていった。助かった、と思う自分と、もう一言くらい声をかけてほしかった自分が、同じ胸の中で小さく喧嘩をする。
担任がいなくなってしばらく、俺は鞄に教科書を詰める振りをしながら、教室が空になるのを待った。廊下から響く笑い声が少しずつ薄れて、ようやく立ち上がる。椅子を引く音も、鞄のファスナーを閉める音も、自分の心臓の音みたいに大きい気がして、すぐに肩をすくめた。
廊下に出た瞬間、左の壁にぴたりと肩を寄せる。これが癖だ。中学のとき、廊下の真ん中を歩くと後ろから足を引っかけられた。上履きを隠されて裸足で帰った日の、冷たいアスファルトの感触がまだ足の裏に残っている。だから、壁。壁は裏切らない。
一階の渡り廊下に近づくと、夕陽が西側の窓から斜めに差し込んでいた。床に長い光の帯ができて、俺の影だけが妙に濃く伸びる。廊下の真ん中に立つ自分を、想像だけでもしてみる。できない。できないまま、俺はまた壁に寄った。
壁の冷たさが、ブレザー越しに肩甲骨に伝わってくる。コンクリートの匂いと、古い木のニスの匂いと、誰かの上靴のゴムの匂い。鼻の奥で、それらが混ざって、中学の下駄箱の記憶を一瞬だけ連れてきた。反射的に息を止めて、肺の中で時間を殺す。三つ数えて、吐く。四つ数えて、吸う。保健室の先生に教わった呼吸の数え方だけが、俺の中でいまも現役だ。
そのときだった。閉まっているはずの空き教室から、音が漏れてきた。
ピアノの音。
一音目で、ああ、下手だ、と思った。二音目で、でもなんでこんなに、と思った。鍵盤の叩き方が不器用で、テンポはよれている。知っている曲なのに、途中で変な和音が入って、弾いた本人がくすっと笑う声まで聞こえた。その笑い声に、俺の足がうっかり止まってしまう。
戸の小さなガラス窓から、中を覗く。覗くつもりなんて、本当はなかった。ただ、足の裏が勝手に根を張って、首の角度が勝手に傾いた。ガラスの表面には、誰かが指で書いたハートの跡が薄く残っていて、その輪郭越しに教室の中が歪んで見える。息を詰めて、その歪みのすき間に目を凝らす。
グランドではない、古いアップライトピアノ。その前に、同じクラスの桐谷灯が座っていた。始業式のあと、担任に紹介されたときだけ顔を見た。ショートの髪の毛先が、夕陽でほんの少し飴色に透けている。背中をぐっと丸めて、鍵盤を睨んでいる。そしてまた、片手で「ド」を叩く。違う、と小さく呟いて、「レ」を叩き直す。
下手だった。本当に下手だった。でも、彼女は笑っていた。
鍵盤の上で止まった指先を見つめて、肩を揺らして、ひとりで笑っていた。間違えたことが、そんなに面白いのか。間違えても、こんなふうに笑っていいのか。俺の知っている放課後と、まるで違う放課後が、その教室の中で鳴っていた。夕陽は彼女のブラウスの襟にだけ濃く当たって、白い生地をオレンジ色に染めている。机の上には開きっぱなしの楽譜らしき紙と、キャップが外れたままのボールペンが転がっていた。几帳面じゃない、と思った。几帳面じゃなくても、こんなに穏やかな顔ができるのか、とも思った。
彼女はもう一度、最初から弾き直し始める。指の運びはやっぱりぎこちなくて、小指が鍵盤の隙間にひっかかるたびに、小さく「あ」と声を漏らす。その「あ」の一つひとつが、不思議と痛くない音だった。失敗することを、怖がっていない人間の声。俺はその声を、喉のあたりで何度も反芻した。失敗しても笑える人がいる。失敗しても笑っていい場所がある。そんなこと、誰も教えてくれなかった。
息が、少しだけ戻ってきた。
肩の奥でずっと固まっていた何かが、鍵盤の音に合わせて、ほんの一ミリだけほどける。首の後ろの筋がゆるんで、俺はようやく、廊下の空気に味があることを思い出した。西日で温まった木の匂い、遠くの吹奏楽部のチューニング、グラウンドから届くかけ声。さっきまで俺を押しつぶしていた音の粒が、ピアノの音に押されて、少しずつ後ろに下がっていく。
廊下の壁に背中を預けたまま、俺はしばらくそこから動けなかった。昇降口まで最短距離で逃げる計画も、鞄を持ち直す動作も、全部がどうでもよくなるくらい、彼女の横顔は、この学校で唯一、ちゃんと呼吸ができる景色だった。なんだろう、この感じ。羨ましいとか、眩しいとか、そんな言葉じゃ足りない。俺は、たぶん、助けてほしいと思っている。自分が知らない種類の放課後に。
また一音、鍵盤が鳴った。
今度は止まらなかった。たどたどしい旋律が少しずつ形になって、彼女が小さく「お」と嬉しそうな声を上げる。その一瞬の声を、俺は胸の奥で拾ってしまった。拾ったことに、自分で驚いた。人の嬉しそうな声を、嫌な気持ちにならずに聞けたのは、いつ以来だろう。思い出そうとして、思い出せなくて、そのこと自体に小さく胸が軋んだ。軋んだ場所が、痛いのか、あたたかいのか、自分でも判別がつかない。ただ、そこに何かがある、とだけ分かった。何か月も空っぽだった棚の奥に、誰かがそっと小さな箱を置いていったみたいに。
帰らなきゃ、と思った。見つかる前に。こういうときに見つかると、ろくなことにならない。中学のときもそうだった。盗み見ていたと笑われて、気持ち悪いと書かれて、それで声が出なくなった。俺は鞄の持ち手を握り直して、一歩、後ろに下がる。指の関節が白くなるくらい、鞄の布地を握りしめていた。爪の先が掌に食い込む痛みだけが、いまの俺を現実に繋ぎ止めている。
下がった瞬間、上履きの底がリノリウムを鳴らした。
キュッ、という、ほんの小さな音。
教室の中で、旋律がぴたりと止まった。
鍵盤を押さえたままの背中が、息を呑むみたいに動かなくなる。ほんの一秒が、やけに長く感じる。その一秒のあいだに、俺の頭の中では、いくつもの最悪が順番に並んで通り過ぎていった。舌打ち、悲鳴、誰かを呼ぶ声、明日の教室での耳打ち。全部経験した。全部覚えている。それから彼女は、ゆっくりと振り返った。廊下側の小窓に、まっすぐに。目を細めて、誰かの気配を探るみたいに。
光の粒が、彼女のまつ毛の先で揺れていた。
逃げなきゃ、と頭では思っているのに、足がまだ壁に貼りついたまま動かない。見つかる。見つかって、また何かが始まる。怖い。怖いのに、不思議と、目を逸らすことだけはできなかった。彼女の瞳の奥にあるのは、俺が想像していたような警戒でも、嘲笑でもなかった。ただ、まっすぐに、こちらを確かめようとしている色。
彼女の唇が、何か言いたげに、小さく動いた。