第2話
第2話
母の背中が、掌の下でゆっくりと上下していた。
咳はおさまっていた。ただ、肩のあたりが、呼吸のたびにかすかに震えている。俺は母の湯呑みに白湯を注ぎ、写真帳を静かに閉じた。黄ばんだ表紙の端が、少しだけ反っている。母はそれを取り返そうともせず、ぼんやりと自分の膝を見ていた。膝の上で組まれた両手が、まだ誰かの背中をさすっているような、そんな位置で止まっている。誰の背中をさすっているつもりなのかは、俺には分からない。父だったのかもしれないし、幼い俺か、妹だったのかもしれない。指の節は、若い頃よりもずっと太く見えた。働いてきた指だった。いまはその指が、何もない膝の上で、ゆっくりと、ひとつのかたちを探すように動いている。 「少し、横になろうか」 そう声をかけると、母は素直に頷いた。茶の間の隣の六畳に布団を敷き、手を貸して寝かせる。薄い肩甲骨が、浴衣越しに浮き上がる。布団の端を直してやると、母は目を閉じる前に、また「ごめんね」と言った。今度はもう、誰にも向けられていない言葉のように聞こえた。襖を半分だけ閉じて、俺は茶の間に戻った。蛍光灯の紐が、自分の影の中で、かすかに揺れていた。紐の先についた赤い珠が、振り子のように、俺の視界のすみで小さく往復する。それを見つめているうちに、自分の呼吸が、母のそれと同じ速さに揃っていることに気づいた。 台所に戻っても、指先がまだ、母の背中の感触を覚えていた。あの、鳥の骨のような軽さ。味噌汁の鍋は、もう湯気を立てていなかった。椀のふちで、薄い膜が、朝と同じように静かに広がっていく。俺は自分の分をよそい、食卓に座り、しばらく箸を持てずにいた。椀の底から立ちのぼる匂いが、鼻の奥で一度だけ揺れて、すぐに消えた。味噌が、ほんの少しだけ、鍋底に焦げついた匂いを残している。母なら絶対に許さなかっただろう焦げだった。俺はそれを、きょうはわざわざ指摘する相手もいないまま、ひとりで噛みしめた。 玄関の方が、やけに暗く感じられた。
時計を見ると、九時を過ぎていた。 食器を洗い、布巾で拭き、いつもの場所に戻す。手順の間に、考えることはほとんどない。それでも、指は時々、水切りかごの同じ皿を二度拭いていた。蛇口のパッキンが、きゅ、と小さく鳴る。その音を、きょうは妙にはっきりと聞き取ってしまう。俺は布巾を置き、エプロンの紐をほどいた。紐の結び目が、昼よりも固くなっていて、ほどくのに少し手間取った。指の腹に、結び目の跡が、白く残る。その跡を見ていると、自分がきょう一日、誰のために何をしてきたのかが、一瞬、遠くなった。 玄関まで、わずか七歩ほどだった。 一歩ごとに、廊下の床板がかすかに軋む。母が眠っている部屋の方を、俺はちらりと振り返った。襖の向こうから、細い寝息が漏れている。その寝息が、今夜はまだ続いていてくれることを、俺はたぶん祈っていた。祈るという言葉を、自分に許すのは、ずいぶん久しぶりだった。祈ってどうにかなる年齢を、俺はもう過ぎていた。それでも、廊下の途中で一度だけ足を止め、襖の向こうに向かって、短く息を吐いた。吐いた息の白さは、もう見えないはずなのに、見えた気がした。 三和土に降りると、スリッパの底から、夜の冷たさが足の裏へ這い上がってきた。郵便受けは、外壁にはめ込まれた古い鋳物で、母が嫁いできた頃からあるらしい。扉は内側からも開けられる。俺は取っ手に指をかけ、一度、そのまま止まった。鋳物の冷たさが、指の関節まで染みてくる。取っ手の縁には、長い年月で薄く錆が浮いていて、その粒が、指紋の谷にかすかに引っかかった。 開けたら、何かが始まってしまう。 さっき台所で思ったことが、指先の中でもう一度、同じ形で鳴った。それでも、開けなければ眠れない気がした。眠れないまま朝を迎えれば、母の味噌汁が、また冷めてしまう。それだけのことを言い訳にして、俺は扉を引いた。 かたん、と、昼間と同じ音がした。 白い封筒が一通、斜めに落ちてきて、俺の掌に収まった。軽い。けれど、紙一枚のはずの軽さではなかった。掌の中心に、封筒の角がちょうど当たっていて、その一点だけが、やけにはっきりと重みを持っていた。 表書きは、鉛筆だった。 「おじさんへ」 震える、とも、不揃いとも言える文字だった。一画一画が、書き直した跡で少し濃くなっている。子供の筆圧だ、と思った。おじさん、という呼び名に、俺は一瞬、自分が呼ばれていることを理解しそこねた。差出人の名前はない。裏返しても、住所もない。切手も貼られていない。直接、誰かがこの郵便受けに入れていった封筒だった。封筒の角は、ポケットの中に入れて持ち歩いたような、わずかな丸みを帯びていた。 玄関の上がり框に腰を下ろし、膝の上で封筒を見つめた。蛍光灯が、白い紙の表面をひどく平らに照らしている。子供のいたずらだ、と、もうひとりの自分が言った。近所の子が、適当に選んだ家の郵便受けに入れていっただけだ。あるいは、母の徘徊を心配した誰かが、何かを知らせようとしたのかもしれない。けれど、そのどちらであっても、今、俺の指はうまく動かなかった。膝の布地の上で、封筒だけが異様に明るく、まるでそこだけ別の時間が流れているように見えた。 指の腹が、封の折り目をなぞる。糊は使われていない。差し込み口にそっと触れただけで、便箋の白い縁が、ほんの少しだけ覗いた。紙の端は、鋏ではなく、おそらく定規を当てて手で折ったのだろう、わずかに繊維が毛羽立っている。その毛羽立ちに、指先が微かに引っかかる。
破ってしまえばいい。 俺は封筒の上の端を、両手の親指と人差し指でつまんだ。一息で引き裂けば、それで終わる話だった。誰かのいたずらを、この家に入れる筋合いはない。金の無心なら、もう十分だった。母の介護にも、妹の影にも、これ以上、知らないところから何かを足されたくなかった。指先に力を入れかけて、それでも、引き裂けなかった。爪の先が、封筒の紙を、ほんのわずかに白く押しただけで止まった。その白い跡が、どういうわけか、さっき母の背中に残した掌の形を思い出させた。 鉛筆の「おじさんへ」が、どうしても視界から外れない。 その「じ」の、最後の跳ねが、途中で折れている。鉛筆の芯が弱かったのか、書いている途中で手が震えたのか。跳ねの先に、薄く消しゴムの跡が残っていた。何度も書き直したらしい。書き直した子供の小さな手を、俺はなぜか、はっきりと想像してしまった。机に肘をついて、舌先を唇の端から出して、息を止めて書く、あの姿勢。消しゴムをかけるたびに、紙の表面が少しずつ薄くなっていく、あの感触。俺自身が、かつてそうやって何かを書いた夜が、喉の奥のほうで、短く疼いた。 親指の力を、ゆっくり抜いた。 便箋を、封筒から引き出した。三つ折りにされた、白い紙だった。罫線は水色で、端が少しよれている。開く前に、俺は一度、裏返した。なぜ、先に裏を見たのかは、自分でも説明できない。ただ、表から読みはじめるには、まだ息が足りない気がしていた。 便箋の裏、下のほうに、ひとことだけ、鉛筆で書いてあった。 「みそしるは、ゆげで ごはんを おいしくするのよ」 指先から、何かが抜けていくのが分かった。 その言葉を、俺は知っていた。母が、まだ味噌汁を自分で作っていた頃、俺と妹に何度も言っていた口癖だった。味噌汁は、湯気でごはんをおいしくするのよ。椀に盛った白米の上に、温かい椀をわざと近づけて、「ほらね」と母は笑っていた。台所の蛍光灯の下で、湯気がひとすじ、米粒の上に落ちる。その湯気の向こうで、母の前歯がほんの少しだけ欠けていたのを、俺はいま、急に思い出した。笑うと、右の前歯の先が、ちいさく透けて見える。そんな細部を、俺はもう何十年も、誰にも話したことがなかった。 その光景を、俺以外に覚えている人間が、この世にどれだけいるだろう。 父はもういない。妹は、たぶん覚えていても、口にしたことはなかったはずだ。母自身は、もう味噌汁という言葉を、毎朝思い出せなくなっている。それなのに、小学校低学年くらいの文字で、その口癖が、目の前の便箋の裏に書かれている。文字は、「ゆ」と「げ」のあいだで一度、鉛筆が浮いたような不自然な間があった。そこで書き手が、誰かに耳打ちされるのを待ったみたいに。あるいは、自分の記憶の中で、その言葉の続きを探したみたいに。 便箋を持ち直そうとした手が、うまく動かなかった。指が、封筒の端を強く握り直しただけで、紙の角が、掌の中で小さく潰れた。玄関の土間に、鉛筆の芯のような匂いが、一瞬だけ立った気がした。気のせいかもしれない。けれど、その匂いの中に、ずっと昔の台所が、うっすらと立ちのぼっていた。味噌と、だしと、炊きたての米の、重なった湯気。そして、その湯気の向こうで、「ほらね」と笑う誰かの声。俺は便箋を膝の上に置いたまま、しばらく、顔を上げられなかった。 襖の向こうで、母のうわ言が、細く漏れはじめていた。