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湯気のこちら側

第1話 第1話

第1話

第1話

母が、また俺の名前を忘れていた。

朝の味噌汁が、三十分もそのまま冷えていた。白い湯気はとうに消えて、椀のふちに薄い油の膜が浮いている。母はそれを、初めて見るもののように覗き込み、それから箸を握ったまま、どこか遠くを見つめていた。 「ねえ、あなた」 呼びかけが俺に向いているのか、別の誰かに向いているのかは分からない。たぶん、母にも分かっていない。窓の外で雀が鳴き、路地を新聞配達のバイクが通り過ぎていく。ごく普通の、四月の朝だった。 「温め直そうか」 俺が言うと、母はゆっくり顔を上げた。皺に埋もれた目が、一瞬だけ焦点を結ぶ。けれどすぐに、また逸れていく。 「あなた、お名前なんていうの」 胸の底で、声のようなものがひとつ鳴って、どこにも届かずに消えた。その声は、俺自身の名前だったのかもしれない。けれど口に出せば、母を困らせるだけだと分かっていた。 「俺だよ」 答えになっていないのは、自分でも分かっていた。母は小さく頷き、冷めた椀を両手で包み込んだ。その指は、乾いた木の皮のように白く、爪の根元がうっすらと青い。椀の縁をなぞる動きは、もう味噌汁を食べるための動きではなく、ただ何かを確かめるための動きだった。それが、今朝の食卓だった。

会社を辞めて、三年になる。 介護離職という言葉が世間で使われはじめた頃、俺はちょうどその言葉の中に自分がいると気づいた。同期はもう課長になっていると、正月に届いた年賀状に書いてあった。返信はしていない。スーツはクローゼットの奥で、まだ静かに形を保ち続けている。ときどき扉を開けると、防虫剤の匂いに混じって、かつての会議室の空気が、うっすらと立ちのぼる気がした。 台所に立ちっぱなしの四十二歳の男、というのが、近ごろの自分の姿だった。誰かに見られて困るわけでもないのに、カーテンはいつのまにか昼でも閉めるようになっていた。

冷蔵庫に、写真が一枚貼ってある。 父と母と、俺と、妹。四人で撮ったのは、もう十五年前のことだ。妹はまだ二十代で、髪を短く切っていた。父はその三年後に倒れ、そのまま逝った。母はその頃から、自分がどこにいるのか、少しずつ分からなくなっていった。 写真の右下は、湿気でうっすらめくれかけている。何度も剥がして貼り直した跡が、マグネットの下に残っていた。それでも俺は、まっすぐそれを見ない。見ないふりで、冷蔵庫を開け、また閉める。 今日の献立は、昨日と同じだった。白米、だし巻き、ほうれん草のおひたし、豆腐の味噌汁。母が若かった頃のレシピばかりを、この三年、何度も繰り返している。新しい料理は、母を混乱させる。

「兄ちゃん、ちょっと貸してよ」 妹からの連絡は、三か月に一度ほど、いつもそれで始まった。振り込み先だけを送ってきて、礼の一言もない。最後にまとまった金を送ったのは、去年の冬だった。母のオムツ代と、自分の電気代を秤にかけて、それでも結局は送ってしまった。 父の法事以来、妹の顔を見ていない。電話では、いつも背後で誰かの声がしていた。男の声のこともあれば、小さな子供の声のこともあった。俺はそれを確かめることもできず、「分かった」とだけ言って切った。 母は、妹の名前を、まだ覚えている。 ──美奈、今日も学校行ったの。 ときどき、そうつぶやく。まだ昭和の明るかった頃の、小学生の妹に、母は話しかけている。そのあいだだけ、母の声は、少しだけ若い。

日が傾きはじめたのは、午後四時を過ぎた頃だった。 四月の光は、畳の上を斜めに滑っていく。母は茶の間で、テレビの音も消したまま、古い写真帳をめくっていた。黄ばんだページの端を、指先で何度も撫でている。どのページでも、同じ動作だった。まるで、指の腹で時間を確かめようとしているようにも見えた。けれど、時間は指先からこぼれ落ちていくばかりで、母の手のひらに残るものは、もう何もない。 俺は台所で、夕飯の米を研いでいた。 水の冷たさが、指の腹から腕のあたりまで、ゆっくり這い上がってくる。米粒が指の間を滑っていく感触は、母が元気だった頃から変わらない。けれど、研いでいるのが俺である、という事実だけが、昔とは違っていた。蛇口を止めるとき、根元の古いゴムパッキンが、きゅ、と小さくきしむ。その音は、母が嫁いできた頃から、この家にずっと住みついている音らしかった。母が覚えているものを、蛇口が代わりに覚えている気がした。ざる、と言いかけて止めた。母はもう、何も聞いていない。 そのとき、玄関の方で、かたん、と小さな音がした。 郵便受けが、今日は少しだけ重たい音を立てた気がした。 朝、開けたときは、いつもの明細とチラシが何枚か入っているだけだった。配達の時間はもう過ぎている。俺は指を止め、耳を澄ませた。蛇口からしたたる水滴が、ステンレスの流しを叩く音だけが、いやに大きく響いた。音はそれきり、しなかった。 気のせい、だと思った。 米をざるにあげ、炊飯器にセットし、味噌を冷蔵庫から取り出す。手順は、体が覚えている。考えなくても手が動くから、俺の頭はいつも少しだけ空いていて、そこを、いろんなものが通り過ぎていく。同期の顔。妹の声。父の葬式の日の、まだ背筋の伸びていた母の背中。あの日、母は喪服のまま、一度も泣かなかった。泣かなかった代わりに、父の名前を、その夜から少しずつ呼ばなくなった。 味噌汁が温まってくる頃には、外はもう暗くなりかけていた。鍋の中で、豆腐がゆっくりと揺れている。湯気が立ちのぼり、蛍光灯の光に白く滲んでいく。その白さだけが、今日の台所で、唯一の温度らしい温度だった。 「あなた」 母の声がした。振り向くと、母は写真帳を膝に広げたまま、じっと俺を見ている。その目は、澄んでいるようにも、濁っているようにも見えた。どちらでもあり、どちらでもない目だった。 「あなた、どこから来たの」 俺は少しだけ笑って、「ちょっと、遠くから」と答えた。それ以外に、何と答えればよかったのか、いまだに分からない。息子だ、と言えば、母はまた混乱するかもしれない。知らない人だ、と答える勇気もなかった。 母は安心したように、また写真帳に目を落とした。

味噌汁を椀によそうとき、もう一度、玄関の方に目をやった。 郵便受けの内側に、昼のうちには無かったはずの影が、あるような気がした。朝、取り出したときは空だったはずだ。夕方、配達の音には覚えがない。それでも、さっきの、かたん、という音だけが、耳の奥にまだ残っていた。その音は、思い出すたびに少しずつ重みを増して、俺の胸の内側で、小さな石のように沈んでいった。 俺は、玄関に行くことができなかった。 行けば、何かが始まってしまう気がした。誰からの、何が届いているのかは分からない。ただ、昨日までの、冷めた味噌汁だけがある食卓が、もう戻ってこないような、そんな予感があった。足の裏に、台所のタイルの冷たさが、妙にはっきりと伝わってくる。その冷たさの中に、俺は自分を縫い止めるようにして、立っていた。

母がむせる声がした。 茶の間の方から、こほ、こほ、と小さく。俺は味噌汁の椀を置いて、駆け寄った。背中をさする。薄い、骨の浮いた背中だった。掌の下で、母の骨は驚くほど軽く、まるで小さな鳥を抱えているようだった。いつから、こんなに痩せてしまったのだろう。さすっている俺の手のほうが、母の背中よりも重く感じられた。母の肩越しに、開かれたままの写真帳が見えた。白黒のページの真ん中で、まだ誰の介護もしていない顔の母が、こちらに向かって笑っていた。その笑顔は、今、掌の下にいる母よりも、ずっと生々しく呼吸をしている気がした。 「ごめんね」 母が言った。 何に対する謝罪なのかは、分からない。たぶん、母にも分かっていない。けれど、その「ごめんね」は、今朝の「あなた、お名前なんていうの」よりも、ずっと、俺の知っている母の声に近かった。ほんの一瞬だけ、母がこちらに戻ってきたような、そんな錯覚があった。窓の外で、誰かの自転車のベルが、ちりん、と鳴った。 俺は、母の背中に手を当てたまま、玄関の方を見た。 郵便受けが、ほんの少しだけ、朝よりも重い。その気配だけが、静かに、暗くなりはじめた家の中に、ぽつんと残っていた。

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