第2話
第2話
藁の屑が喉に入り、玄蕃は掌で口を押さえて咳を殺した。
夜半の厩は、馬の体温と糞の匂いに満ちている。松明を消し、持ち込んだ菜種油の小皿一つに灯を絞った。橙色の光が梁の陰に揺れ、床板の節穴から、馬の寝息が湿った風となって頬を撫でてゆく。玄蕃は膝を折り、床下の藁を掻き分け、指で土を掻き始めた。爪の間に黒土がみっしりと食い込み、冷えた土の下から、饐えた藁と尿の、刺すような匂いが立ち昇った。
――よし。この湿り、この温もり。
玄蕃は息を詰め、掌で土を撫でた。硝石丘法に要るのは、糞尿と草木灰と土を混ぜた層を、湿度と温度を保ったまま半年寝かせることだ。日の当たらぬ床下、馬の体温が下りてくるこの暗がりは、天が誂えたような培養の揺籃である。頭では何度も反芻してきた工程が、若い十指の感触に乗って、ようやく現の仕事になりかけていた。
畚に盛ってきた草木灰を、掘った穴に薄く敷く。囲炉裏の灰を少しずつ盗んだものだ。その上に、馬の寝床から掻き出した糞混じりの藁を重ね、さらに外の畑の黒土を被せる。三層。指で押し固め、水を数滴、ぽつりぽつりと落とす。濡らしすぎれば腐り、乾きすぎれば結晶は浮かない。加減は、前世の老いた記憶がよく覚えている。
「……半年、か」
呟きは、己の耳にしか届かぬほど低かった。
半年後の霜月、層の表に白い粉を吹くはずだ。それを掬い、煮詰め、漉し、再び煮詰めれば、硝石の結晶が水底に沈む。硫黄は熱田の湊で唐船から買える。木炭は山で焼ける。三つが揃えば、黒色火薬ができる。できる、筈だ。若い指が土を固める速さに、頭の中の算段が追いつかぬほどで、玄蕃は一度、息を整えた。
――焦るな。百姓の倅が、一夜にして銃薬を得るはずもない。
厩の梁の上で、燕の寝床の藁が、ぱさりと崩れた。玄蕃は肩を竦め、灯を袖で隠し、しばし息を殺した。馬が身じろぎ、蹄が床板を軽く叩く。それきり、夜は元の静けさに戻った。
そうして、丑三つ時までかかって、玄蕃は一畳分ほどの面積に、三層の培養床を作り終えた。藁を元通りに被せ、土を均し、足跡を消す。明日からは、毎夜、人目を盗んでは水を差し、糞を補い、温度を計っていかねばならぬ。
床下から這い出て、厩の戸を静かに閉じた。夏の夜気は、藁の匂いの染みついた玄蕃の肌に、妙に冷たい。東の空が、うっすらと白みかけていた。
翌朝、玄蕃は井戸端で泥を落としていた。
爪の奥に食い込んだ黒土は、しつこく残り、何度絞っても掌の皮に灰色の筋が浮いた。指の関節にこびりついた藁の屑を歯で噛み切って吐き捨てたところへ、父・源左衛門の影が差した。
「昨夜、厩で何をしておった」
声は、問いではなかった。詰問でもない。ただ、事実を確かめる低い響き。玄蕃は手拭いを絞る手を止めず、目を上げずに答えた。
「馬の寝床が、饐えておりましたゆえ」
「饐えておったか」
「さよう」
短い沈黙。源左衛門は土間から出て、井戸端の石に腰を下ろした。麻の単衣から覗く首筋は、陽に焼けて黒ずみ、喉仏の下に汗の粒が光っている。父の眼が、玄蕃の爪先から髷まで、ひと撫でに舐めた。
「昨夜のお前は、畚を二つ持ち出しておったな」
――見られていたか。
玄蕃の心の臓が、軽く跳ねた。表情は動かさず、手拭いの端を絞り切り、桶の縁に掛ける。掌を開き、閉じ、もう一度開く。若い指の節に、夜露と土の記憶が、まだ湿って残っていた。
「父上」
玄蕃は、ゆるりと顔を上げた。
「肥料の、試しにござる」
源左衛門の眉が、わずかに寄った。
「肥料の、試しと申したか」
「はい。尾張の田は、三年前より米の実りが細っておる由、畦を回る折に、土の色が淡いのが気になっておりました。馬の糞と藁、それに囲炉裏の灰を混ぜ、床下の暗がりに寝かせれば、尋常の堆肥より滋味の濃いものができると、美濃の行商から耳に挟みましてござる」
美濃の行商、というのは口から出任せだった。だが、この時代、行商人の口伝えほど、百姓にとって確かなものはない。源左衛門は腕を組み、顎の下の無精髭を指の腹で擦った。
「美濃の、な」
「半年寝かせば、白い粉が浮くと申しておりました。その粉ごと畑に梳き込めば、稲の根が太るとか。眉唾かとも思いましたが、厩の床下ならば、畑の畝を潰すでもなし、試すに如くはあるまいと」
半年、という数字は、嘘ではなかった。浮くのが「白い粉」であるのも、嘘ではない。ただ、その粉の正体が、堆肥の類ではなく、火薬の種であるというだけのことだ。玄蕃は眉一つ動かさず、若い声のまま、淡々と続けた。
「父上のお手を、煩わせるつもりはござりませぬ。昼は畦に出て、夜の僅かな間を惜しんで、己ひとりで世話いたしまする」
「……馬の寝床が、饐えぬようにな」
「心得ましてござる」
源左衛門は、それ以上は問わなかった。立ち上がり、井戸の釣瓶に手をかけ、水を一杯、自分の頭から被った。雫が赭ら顔の皺を伝い、顎の先から地面に落ちる。父は濡れた前髪を掻き上げ、玄蕃の方を見ずに呟いた。
「……お前、近頃、眼つきが変わったな」
玄蕃は答えなかった。答えれば、声が揺れる気がした。父の背中が土間に吸い込まれてゆくのを、若い睫毛の陰からじっと見送り、それから、もう一度、己の掌を見下ろした。
爪の奥の黒土は、まだ落ちきっていなかった。
日が中天に昇る頃、玄蕃は畦に出て鍬を振るっていた。
腕には疲れがあった。夜通し床下に潜った十六の肉体が、腰の奥で小さく軋む。それでも、前世の七十の身に比べれば、綿のように柔らかな疲れだ。鍬の刃が土を噛み、稲株の間に風が通る。頭の中では、次の算段が整然と並び始めていた。
――銃身、だ。
硝石は、育つ。半年待てば、粉は浮く。硫黄と木炭は、銭さえあれば手に入る。だが、銃身だけは、己の指では鍛えられぬ。鋼を巻き、継ぎ、穴を穿ち、底を塞ぎ、火皿を付ける。南蛮渡りの前装式銃の寸法は、玄蕃の頭の中にある。内径は六分五厘、全長二尺二寸、尾栓は捻じ込み式、銃身の肉厚は元厚二分五厘、先細りで先厚一分八厘――諸元は一切、揺らがぬ。
揺らがぬが、それを鍛える腕が、要る。
隣村に、仁左衛門という鍛冶がいた。前世の玄蕃が名を聞いたのは、もうだいぶ後、永禄の末のことである。鋤鎌よりも刀槍を得手とし、一時は駿府の今川に召されかけたとも噂された男。前世の記憶では、永禄七年、流行り病で娘を喪い、以降は鋤鎌ばかり打つようになった。その娘が、まだ生きている。ということは、仁左衛門の腕も、まだ野心とともに熱を持っている頃合いだ。
鍬を振り下ろす玄蕃の眉間に、深い皺が寄った。
問題は、銀だ。
鍛冶に常識外の寸法図を見せれば、渋る。渋る鍛冶を動かすには、先払いの銀が要る。銀は、今の玄蕃の手にはない。父の銭箱にも、おそらく、銀一両ほどしか眠っていまい。だが、無ければ、作るしかない。堺の商人が南蛮渡りの硝石を買い漁り始めるのは、永禄二年の冬。その前に、わずかでも硝石の走りを握っていれば、向こうから足許の値を晒してくる。
――半年、いや、三月で、走り分の一掬いは浮かせられる。
玄蕃は鍬の柄に、そっと指を添えた。
畦の向こうで、村の童が二人、杉の枝で刀ごっこをしていた。甲高い声が、夏の白い空に吸われていく。この童らの何人が、五年後の飢饉で骨となり、十年後の戦火で土に還るか、玄蕃の頭の片隅には、すでに勘定が立っている。だが今、この畦の光景を、眼に焼き付けておくのも悪くはなかった。守るべきものが、何であるかを忘れぬためにも。
日が西に傾き、畦道が金色に染まる頃、玄蕃は鍬を担ぎ、村の入口の辻まで歩み出た。辻の地蔵の脇に、旅装束の行商が荷を解いていた。菅笠の下から覗く眼は、鋭い商人のそれだ。玄蕃は足を止めず、行商の脇を通り過ぎながら、低く声をかけた。
「隣村の仁左衛門が鍛冶場、今も繁盛しておるか」
行商は荷を結ぶ手を止めず、視線も上げず、短く答えた。
「娘御が、まだ健やかでの。鋤鎌より槍穂の注文を取りたがっておりますわい」
玄蕃は、唇の端を、ほんの少しだけ、吊り上げた。
畦の向こう、西日を背負った杉山が、今しも黒く翳りかけている。その影の中へ、十六の若武者はひとり、鍬を肩に、ゆるゆると歩み入っていった。
――明日、銀の算段を立てる。
厩の床下では、まだ白く粉の浮かぬ土が、音もなく、静かに熱を蓄え始めていた。