第1話
第1話
夏の陽が、畦道の土を白く灼いていた。青田の色が眼に沁みるほど濃く、蝉の声はまだ遠い。
榊原玄蕃は、己の手を凝視していた。節くれ立ち、火傷と古傷に覆われていたはずの、老いた指。それが今、泥にまみれたまま、若く張りのある肌を取り戻している。掌の皺は浅く、関節は柔らかく、軽く握れば、拳は軽々と固まった。
――これは、夢か。
天正十年、六月二日未明。本能寺が焔に巻かれたという報せを受け、玄蕃は褥の上で息を詰まらせた。齢七十有余、老いた肺が最後の喘ぎを漏らし、視界は白く霞み、意識は確かに一度、途絶えた。それが、瞼を開けば、稲穂の青い匂いが鼻をつき、脛には草の露が滴っている。遠くで鍬を打つ乾いた音。近くで水鶏の鳴く声。
玄蕃は、恐る恐る膝を折り曲げてみた。軋みもなく、痛みもなく、鍛え直すまでもない若い関節が、当然のように言うことを聞く。次に腕を回し、腰を捻り、顎を引いた。どの動きにも、老いの名残はなかった。
ゆっくりと顔を上げれば、尾張の、見覚えのある山並みが、若き日の記憶そのままの輪郭で、そこに横たわっていた。
「……永禄か」
呟いた己の声は、老軍のそれではなかった。枯れた低声ではなく、張りのある若衆の声音。喉の奥で、乾いた笑みが漏れる。笑みは痙攣のように肩を揺らし、玄蕃は膝を泥の中に突いたまま、しばし天を仰いだ。
永禄元年、戊午。織田弾正忠信長がまだ「うつけ」と囃され、桶狭間の今川義元が二万五千の上洛軍を編むより、二年も早い、その初夏である。
己は、そこに戻されたのだ。
「玄蕃ッ。何を突っ立っておる、日が落ちるぞ」
畦の向こうから、野太い声が飛んだ。玄蕃は慌てて面を下げ、鍬を拾い直す。声の主は、同村の善次という若者で、前世の記憶の中では、永禄五年の飢饉に呑まれて病没した男だった。日焼けし、無精髭を剃り残したその顔が、妙に眩しい。
「すまぬ、腰が」
「腰だと。十六の若造が何を吐かしやがる」
善次は豪快に笑い、鍬を肩に担いで畦を戻っていった。十六――そう、己は十六なのだ。玄蕃は足元の泥を見下ろし、もう一度、己の若い脛を掌で撫でた。指先に、前世で馴染んだ火縄銃の重みの感覚が、まだ残っている。火薬の匂い、撃発の衝撃、銃身の熱。それらが、この十六の肉体の記憶と奇妙に溶け合い、二つの生が一つの頭蓋の中で、静かに息を合わせ始めていた。
――二度目、か。
老いて眠れぬ夜に何度も読み返した書物が、脳裏で頁を繰る。戦国の戦史、西欧の兵法、硝石の製法、前装式銃の諸元、三段構えの斉射。徳川の世が三百年、鎖国の鎖の下で軍制が凍りつき、黒船の砲火に尾張の血が騒いだ時には、すべてが遅きに失していた。あの悔恨が、若き頭蓋の奥で鈍く脈を打つ。
それが、今、手の中にある。
玄蕃は鍬を肩に担ぎ、畦を歩み出した。足は軽く、息は浅い。若さという武具は、これほどまでに無敵であったか。すれ違う村娘が怪訝な目で振り返り、赤子を背負った老婆が手を止めて見送る。畦道の土は乾き、遠くの杉山は風に軋み、水田の向こうでは土豪の屋敷の炊煙が細く立ち昇る。
視界に入るすべてが、記憶の通りであり、記憶より遥かに鮮やかだった。老眼で霞んでいた世界が、今は細部まで突き刺さる。鷺の羽ばたき一つ、風の走る向き一つ、土の湿り気の匂い一つまでが、若き五感に容赦なく流れ込んでくる。稲の葉の縁で光が砕け、畦の雑草の根元に蟻が列をなし、遠い山裾に鳶が二羽、ゆるやかな円を描いていた。老眼の濁りも、耳鳴りの翳りもない。世界が、かくも鋭い刃であったかと、玄蕃は内心で舌を巻いた。
――この感覚を、使わぬ手はない。
玄蕃は歩みを止め、掌を開いた。そこには何もない。火縄銃も、地図も、軍配も、なにひとつ。あるのは、老将軍の記憶を宿した、百姓の小倅の肉体ただ一つ。
だが、と玄蕃は唇を引き結ぶ。
硝石丘法は頭にある。銃身の寸法も、紙薬莢の巻き方も、斉射の間合いも。信長の召し抱えまで、二年。桶狭間まで、二年。二年あれば、十二の足軽で三十騎を討つこともできよう。二年あれば、義元の首を、霧の谷で刎ねることもできよう。そして、その先に――。
本能寺を、燃やさずに済む。
己が見送った信長の横死、関ヶ原の血霧、大坂の陥落、家光の鎖国、そして黒船、維新、敗戦。三百年を跨いだすべての悔いが、十六の胸の奥で重く脈を打った。
「……もう、同じ轍は踏まぬ」
誰に告げるでもなく、玄蕃は呟いた。夏の蝉が、遠くで一斉に鳴き始めた。
村に戻ると、父・源左衛門が土間で鍬の柄を挿げ替えていた。日焼けした赭ら顔の、寡黙な百姓。前世の記憶では、永禄五年に流行り病で没した男である。その顔が、まだ四十半ばの若さで、眉間に深い皺を寄せていた。
「遅かったな」
「畦の水を、見ておりました」
「ふん」
源左衛門は鼻を鳴らすと、再び柄に目を戻した。玄蕃は土間の隅に鍬を置き、しばし父の背を眺めた。肩甲骨の下に刻まれた古い鍬傷、汗に濡れて縒れた麻の単衣、節榑立った指が柄に食い込む様。どれもが、記憶の底に沈んでいた光景そのままでありながら、若い眼には初めて見る父のように新しかった。喉の奥が、妙に熱い。かつて、この背を最後に見たのは、己が数え二十の時であった。出奔し、諸国を流れ、弓馬の腕で仕官を得るまでの長い年月、父に一度も顔を見せずに過ぎた。臨終の報せを聞いたのは、遠く紀州の陣中である。駆けつけた時には、もう四十九日も過ぎていた。
――此度は、違える。
玄蕃は静かに腰を下ろし、囲炉裏の灰を小枝で掻いた。頭の中では、既に算段が回り始めている。厩の床下に空洞を穿ち、そこに土と草木灰と糞尿を混ぜた層を積む。湿気と温度を保ち、半年寝かせれば、結晶の浮かぶ層ができる。それを煮詰めれば、硝石となる。硝石さえあれば、木炭と硫黄を混ぜて黒色火薬が作れる。火薬があれば、銃が活きる。銃が活きれば、三十騎の野盗など、畦の向こうで粉微塵だ。
問題は、銃身だった。
村には鍛冶がいない。隣村の仁左衛門は腕は確かだが、常識外の寸法図を渋るだろう。銀が要る。銀はない。なければ、稼ぐしかない。稼ぐ手段は、頭の中に幾つもある。たとえば、堺の商人が買い漁っている南蛮渡りの硝石の値を、今なら先読みできる。たとえば、美濃の斎藤道三が肩入れする楽市の相場を、今なら先回りできる。
十六の身で、いかに動くか。
玄蕃は小枝を折り、灰に埋めた。急いではならぬ、と己に言い聞かせる。焦れば、怪しまれる。怪しまれれば、潰される。この時代の百姓に、西欧の兵法などという概念が伝わる余地は皆無である。一つ、また一つ、静かに積み上げていくしかない。
――だが、必ず辿り着く。
硝石を育て、銃身を鍛え、薬莢を巻き、足軽を調練する。そうして、義元の首を霧の谷で奉じたその日、己は改めて信長の前に膝を折る。前世で見届けた天下統一の夢ではなく、西欧の砲煙に耐えうる国の礎を、この手で据える。鎖国ではなく、開国。停滞ではなく、躍進。
そのためにこそ、己は若返ったのだ。
「玄蕃」
不意に、父が振り返った。鍬の柄を手にしたまま、源左衛門は息子の面を訝しげに覗き込んだ。
「顔つきが、変わったな」
玄蕃は小さく笑み、首を傾げた。
「気のせいに、ござりましょう」
源左衛門は眉を寄せ、何事か言いかけて、結局何も言わず、鍬の柄に視線を戻した。囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。その小さな火花の向こうに、玄蕃は、三百年先の黒船の砲火を見た気がした。
夜半、玄蕃は厩の床下に潜り込んでいた。
松明の灯は最小限に絞り、藁を除けた土を指で掘る。掌に伝わる感触は湿り気を帯び、糞尿の匂いが鼻を刺す。硝石を育てるには、これがよい。人の嫌う場所ほど、戦を勝たせる財が眠っている。爪の間に黒い土が食い込み、肘の内側に藁の屑が張りついた。馬が一頭、寝息とも呻きともつかぬ音を漏らし、床板越しに体温が伝わってくる。この温もりこそが、半年後に白く結晶を浮かせる揺籃となる――玄蕃の口の端が、静かに吊り上がった。
玄蕃は掘り進めながら、口中で呟いた。
「半年――待たれよ」
厩の藁越しに、夏の星が微かに瞬いていた。この星の下、尾張の百姓がまだ戦国の行方を知らぬこの夜、若返った老将軍は、ただ一人、音もなく歴史の床下を掘り始めていた。
ふと、手を止める。遠く、北の空の向こう――清洲の方角に、織田家の篝火が、ちらちらと滲んで見える気がした。あの篝火の下に、まだ「うつけ」と罵られる男が一人、夜更けに剣術の稽古でもしているのだろうか。
二度目の戦国の、最初の夜が、静かに、深く、更けていった。