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透明だった俺が木刀を握るまで

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の京都は、東京よりも空気が冷たかった。

十月の陽射しが石畳を白く照らしていて、旅館を出た瞬間、知らない街の匂いが全身を包んだ。古い木と水と、どこか甘い香り。昨夜感じたものと同じだけれど、朝の光の中ではもう少し鮮やかだった。肺の奥まで吸い込むと、東京にはない湿り気が気管を撫でていった。

班別行動は九時スタート。六班の五人は旅館の玄関先でガイドブックを見せ合いながら、今日のルートを最終確認していた。清水寺、二年坂、八坂神社。昨夜決まったコースを班長が読み上げる声を、俺は二メートルほど離れたところで聞いていた。

「じゃあ行こっか」

班長の声で全員が歩き出す。俺も三歩後ろについた。いつも通りの距離感。近すぎず、遠すぎず、振り返らなければ視界に入らない位置。

清水寺への参道は修学旅行生と外国人観光客でごった返していた。土産物屋の軒先から八つ橋の甘い匂いが流れてきて、抹茶ソフトクリームの看板が道の両側からせり出している。人波に揉まれながら坂を上るだけで汗ばんだ。

班の五人は楽しそうだった。写真を撮り合って、試食をつまんで、笑い合って。俺は三歩後ろから、その背中を眺めていた。眺めていて、何も感じないようにしていた。

清水の舞台で、班長が集合写真を撮ろうと言い出した。別の班の生徒にスマホを渡して、五人が欄干の前に並ぶ。

「柊くん——」

誰かが振り返りかけた。でも俺はもう二歩下がっていた。人混みの隙間に滑り込むように。反射だった。存在しない人間が写真に写ったら、それは心霊写真だ。呼ばれたことへの驚きより、反射のほうがずっと速かった。身体が先に判断を下す。この一年半で染みついた、自分を消す手順。

シャッター音が鳴って、五人の笑顔が記録された。

その後の移動で、少しずつ距離を広げた。二年坂を下る人の流れの中で、五人の背中が角の向こうに消える瞬間があった。意図的だったのか、偶然だったのか。ただ足が止まっただけだ。止まって、人波に押されて、気づいたら一つ角を曲がっていた。

五人はたぶん、気づいていない。

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観光客の波を外れると、京都は急に静かになった。

一本裏に入っただけで、人の気配がすうっと消えた。古い木造の家が軒を連ねて、格子戸の奥に苔むした前庭が覗いている。路地は車一台分の幅もなくて、頭上で電線が細く交差していた。アスファルトのひび割れから雑草が伸びて、その先にまた角があった。角の向こうにまた路地。

昨夜、地図で指が触れたのはこの辺りだったはずだ。「歴史的建造物群」。でも案内板はどこにもなくて、ただ古い家と、もっと古い塀と、苔の生えた石垣が続いているだけだった。

スマホの時刻は十時過ぎ。旅館集合まで二時間以上ある。別にどこに行きたいわけでもない。人のいない場所を歩ければそれでよかった。

京都の裏路地は、不思議と息がしやすかった。東京の路地には生活音が詰まっていて、それが他人の存在を押しつけてくる。でもここは違った。何百年もこのままだったのだろうと思わせる、時間の厚みがあった。俺みたいな人間が一人歩いたところで、この風景はびくともしない。石畳が吸い込んでくれる。

角を曲がった。何回目かわからない。

——足が止まった。

空気が裂けた。

正確には、声だった。短く、鋭く、腹の底から絞り出されたような気合。建物の中から漏れてきたその音は、俺の足を地面に縫いつけた。鳥肌が腕を駆け上がった。音というより衝撃に近かった。静寂に慣れた耳に、それは暴力的なほど鮮烈に刺さった。

路地の突き当たりに、古い建物があった。木造の二階建て。瓦屋根の端が少し欠けていて、壁の漆喰にはひびが走っている。でも、朽ちているのとは違う。手入れされ続けた古さだった。引き戸の上に、墨で書かれた木の看板。文字は読めなかった。達筆すぎて。

また声が飛んだ。

「——せいっ」

引き戸は薄く開いていた。十センチほどの隙間から、板張りの床と、白い道着の裾が見えた。空気の質が変わった。汗と、古い木と、もっと何か——言葉にならない、張り詰めたものの匂い。

足が動いていた。

近づいてはいけないと頭のどこかが言っていた。知らない場所で知らない建物を覗き込むのはまずい。でも身体が聞かなかった。引き戸の隙間に吸い寄せられるように、一歩、また一歩。

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隙間から中を覗いた瞬間、息を忘れた。

広い板張りの稽古場だった。天井が高く、梁が剥き出しになっている。壁に木刀や薙刀が整然と架けられ、正面の神棚に榊が供えてあった。窓から落ちる光が、磨き込まれた床に白い四角を描いている。

その中央に、少女がいた。

白い道着。濃紺の袴。後ろで一つに束ねた黒髪が、動くたびに揺れる。歳は俺と同じくらいだろうか。百六十センチあるかないかの、小柄な身体。

木刀を構えた門下生が三人、少女を囲んでいた。全員が彼女より背が高い。全員が大人に見えた。なのに少女が半歩踏み出した瞬間、一人が弾かれたように後退した。

打ってすらいなかった。ただ半歩、間合いを詰めただけだ。たったそれだけで相手の構えが崩れた。目の前の空間を、少女が支配している。武術の知識なんかない俺にも、それだけはわかった。

「もう一本」

少女の声は低かった。冷たいのではなく、無駄がない。音の一つ一つが木刀の軌道みたいに最短距離で飛んでくる。

二人目が打ち込んだ。上段からの振り下ろし。速い。でも少女は体の軸をわずかにずらしただけで、木刀が空を斬った。流れのまま、少女の木刀が相手の胴に触れる。触れただけ。音もなく。

三人目が横から仕掛けた。少女は振り向きもしなかった。背中に目があるみたいに半身をさばいて、相手の木刀を流し、手首を返して面を取った。

三人が崩れた。

稽古場が静まる。門下生たちが荒い息をついている中、少女だけが呼吸を乱していなかった。道着に汗が光っているのに、立ち姿にはほとんど乱れがない。木刀の切っ先が床を向いたまま微動だにしない。その静止が、さっきまでの動きよりもなお凄みを帯びていた。

俺は引き戸の隙間から目が離せなかった。

何に惹かれているのか、自分でもわからなかった。型がどうとか流派がどうとか、そんな知識は何もない。

でも——綺麗だった。

怖いくらいに。人間の身体が、あんなふうに動けるものなのか。力任せじゃない。筋肉で押し切っているのでもない。水が流れるように、風が吹くように、少女の身体は動いていた。

胸の奥で何かが震えた。昨日バスの中で感じた、あの名前のつけられない軋み。それが今、別の形に変わろうとしていた。

俺は透明になる技術を一年半かけて身につけた。存在を消すこと。気配を殺すこと。誰の目にも映らないこと。それが俺の全部だった。

目の前の少女は真逆だった。存在が溢れていた。稽古場の空気を一人で塗り替えて、三人を圧倒して、それでもまだ余っている。あの小さな身体の中に、途方もない密度の何かが詰まっている。

同い年くらいの人間が、こんなふうに在れるのか。

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呼吸が浅くなっていた。引き戸に手をかけていたことにも気づかなかった。指先が木の冷たさを感じて、ようやく自分の手の位置を知った。

古い木が、微かに軋んだ。

少女の動きが止まった。

木刀を下ろしたまま、ゆっくりとこちらを向く。長い前髪の奥から覗く目が、引き戸の隙間越しに——まっすぐ、俺を射抜いた。

透明だったはずだ。気配は消していたはずだった。一年半かけて完成させた技術が、十センチの隙間越しに見破られた。

少女の目は黒くて深かった。静かなのに、温度がある。品定めでも警戒でもなかった。ただ純粋に——見えている、という目。

俺の存在を、見つけている。

門下生たちの声が遠のいて、京都の裏路地の湿った空気が背中にまとわりついて、十月の陽が首筋に落ちていて——その全部が遠景に退いた。少女の目だけが残った。

逃げるべきだった。知らない道場を覗いていた不審者だ。謝って、頭を下げて、この路地から走り去ればいい。

足が動かなかった。

少女が木刀を左手に持ち替えて、一歩、こちらに踏み出した。

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