第1話
第1話
修学旅行の班分け表が黒板に貼り出されたとき、俺は自分の名前を探すふりすらしなかった。
十月の教室。五限目が終わったばかりで、西日が窓から差し込んでいる。銀杏の匂いが混じった風がカーテンを揺らして、黒板の前に群がるクラスメイトたちの髪を撫でていった。
「やった、同じ班じゃん!」「マジかよ、俺もそっちがよかった」——あちこちで声が弾けて、教室の空気がざわざわと熱を帯びていく。椅子が引かれ、机が寄せられ、島ができる。修学旅行は高校生にとって一大イベントらしい。当然のことらしい。
俺は窓際の最後列で、シャーペンの芯をカチカチと押し出していた。ノートの端に意味のない線を引きながら、あの表に自分の名前がどう扱われるかを、もう知っていた。
「えーっと——柊蓮は、まだどこにも入ってないな。六班、一人足りないから入ってくれ」
担任の声は事務連絡のトーンだった。六班の方から誰かが小さく息をついた。拒絶ではない。ただ、想定外の荷物が増えたときの——そんな間だった。
俺は黙って頷いた。ノートの上のシャーペンが、カチ、と最後に一回鳴った。
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中学二年の冬に、俺は学校に行けなくなった。
最初は上履きが片方なくなっていた。下駄箱を何度も覗き込んで、冷たいリノリウムの床を靴下のまま歩いて探した。見つからなかった。次の日にはロッカーの中身が全部廊下に出されていた。教科書、体操着、筆箱。それが廊下の真ん中に几帳面に並べられていて、通りがかる生徒たちが目を伏せて素通りしていくのが見えた。その次は机の上に「死ね」と書かれた紙。黒いマジックの、妙に丁寧な筆跡だった。その次は——覚えていない。覚えていないんじゃなくて、ある時点から順番がわからなくなったのだ。毎日何かがあって、でもどれが最初でどれが最後だったのか、時系列がぐちゃぐちゃに潰れてしまっていた。
三ヶ月、部屋から出られなかった。遮光カーテンを閉め切った六畳間で、天井の木目を数えた。百二十三本。何回数えても百二十三本だった。母さんが廊下に置いてくれるおにぎりの海苔が湿気でぺたりと張りつく音を、布団の中で聞いていた。米粒が喉を通らない日は、麦茶だけ飲んで目を閉じた。
高校は隣の市を選んだ。中学の人間が誰もいない場所。そこで俺は「透明」になることを決めた。
透明でいるのは技術だ。朝は始業ぎりぎりに教室へ滑り込む。目は伏せる。足音は消す。休み時間は机に突っ伏して寝たふりをする。昼飯は購買でパンを買って、屋上に続く非常階段の踊り場で食べる。春はコンクリートの冷たさが尻に染みて、夏は鉄の手すりが触れないほど焼けた。秋は風が心地よくて、冬は指先の感覚がなくなるまで粘った。四季を通して、あの踊り場だけが俺の居場所だった。放課後は誰よりも先に鞄を持って教室を出る。声をかけない。視線を合わせない。存在の輪郭を限りなく薄くして、誰の記憶にも引っかからないようにする。
一年半かけて、俺はその技術を完成させた。
「柊くんって、いつもどこにいるの?」
班分けの紙が片付けられる頃、隣の席の女子がふと訊いてきた。前の席の友達に話しかけるついでに、視線がたまたまこっちに流れた——そんな軽さだった。
「普通にいるけど」
「え、そうなんだ。ごめんね、あんまり印象なくて」
悪意はなかった。本当に知らなかったのだ。一年半、同じ教室にいて、俺の存在をまともに認識していなかった。
彼女は小さく笑って、すぐに前を向いた。
それでいい。それが正しい。透明であることは、傷つかないこと。見えないことは、安全であること。俺はそうやって、一年半を生き延びてきた。
シャーペンの芯を、また一つ押し出した。窓の外の銀杏が、風に揺れていた。黄色くなりかけた葉が一枚、ひらりと落ちて、校庭のどこかに消えた。
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修学旅行当日の朝、バスは八時に校門前を出発した。
座席は班ごとに固まる暗黙のルールがあって、六班の五人は前方の左側に陣取っていた。俺は一人、最後列の窓際に座った。誰も何も言わなかった。俺がそこにいることを、たぶん誰も気づいていなかった。
イヤホンを耳にねじ込む。エンジンの低い振動が座席から背骨に伝わってきて、窓ガラスに額をつけると、十月の朝の冷たさが肌に染みた。
前方では歓声が止まらない。誰かがBluetoothスピーカーで音楽を流し始めて、通路を挟んだ反対側ではトランプが回っている。笑い声。ときどき悲鳴みたいな歓声。サービスエリアの看板が見えるたびに「トイレ休憩ある?」と誰かが叫ぶ。
灰色のガードレールが延々と流れていった。時々、山の稜線に雲がかかっているのが見えた。柿の実が色づいた民家の庭先が一瞬だけ映って、すぐに消えた。京都まで五時間。三日間のスケジュールは事前に配られたプリントに全部書いてある。
一日目、班別行動で寺社巡り。二日目、学年合同の体験学習。三日目、午前中が自由行動で、午後に帰路。
俺の計画は決まっていた。班行動では三歩後ろをついて歩く。集合写真では端に立つ。自由行動は一人でどこかに座って時間を潰す。三日間、空気みたいに息を殺して、何事もなく家に帰る。
完璧な計画だった。中学のときに学んだことが一つあるとすれば、それは目立たないことが最大の防御だということ。修学旅行だろうが何だろうが、俺のやることは変わらない。
——なのに。
バスが山間のトンネルに入った。窓の外が一瞬で真っ暗になって、ガラスに自分の顔が映った。イヤホンのコードが垂れた、血色の悪い顔。目が合った。
すぐに視線を逸らした。
トンネルを抜けると、空が広かった。十月の、どこまでも高い秋の空。まぶしさに目を細めながら、俺はイヤホンの音量を上げた。
胸の奥で何かが軋んでいた。いつからあるのか分からない、鈍い重さ。透明でいることを選んだはずなのに——消えていたいはずなのに——それとは別の、もっと深いところで何かが引っかかっている。
名前がある。呼ばれることがない名前。教室の出席番号、テストの答案用紙、担任の名簿。どこかには確かに刻まれているのに、声になって届いたことがない。「柊蓮」という五画と十三画の文字列は、記号として存在しているだけで、誰かの口から温度を持って発されたことが——少なくともこの高校に入ってからは——一度もなかった。
考えるな。考えたら、今の均衡が崩れる。
俺は腕を組んで、座席に深く沈み込んだ。
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京都の旅館に着いたのは午後三時過ぎだった。
バスのドアが開いた瞬間、湿った空気が頬に触れた。東京とは違う、もっと重くて甘い空気。古い木と土と、どこかで焚かれている線香の匂いが混じっていた。旅館の玄関先には打ち水がしてあって、濡れた石畳が夕陽を反射してぬらぬらと光っていた。
畳の大部屋に荷物を放り込むと、すぐに班のミーティングが始まった。明日の班別行動のルート決め。班長の女子がガイドブックを広げて、「清水寺は絶対でしょ」「伏見稲荷も入れたくない?」と声が飛び交う。
俺は部屋の隅で、旅館に置いてあった京都の観光マップを広げていた。五人の話し合いは完結していて、六人目の意見を求める気配はなかった。畳のい草の匂いが鼻をくすぐる。襖の向こうから隣の班の笑い声が漏れてきて、廊下をスリッパがぱたぱたと走り抜けていく。旅館全体が浮き足立っていた。修学旅行の初夜というのは、どうやら眠れないものらしい。俺には関係のない話だった。
表通りから一本入った路地。観光客で賑わうエリアの、その裏側。地図の端のほうに、小さな文字で「歴史的建造物群」とだけ記された一角があった。
なんとなく、指先がそこに触れた。
人が少なそうだ。——それだけの理由だった。
窓の外では、京都の夕空が赤く滲んでいた。古い瓦屋根の連なりの向こうに、知らない街の輪郭がゆっくりと沈んでいく。東京の夕焼けとは色が違う気がした。もっと深くて、もっと遠い赤。何百年も前の人間が見たのと同じ空なのだろうかと、柄にもないことが頭をよぎった。
明日、俺はまた一人になる。いつもと同じだ。
——同じ、はずだった。