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はるかの厨房

第2話 第2話

第2話

第2話

「上がらせてもらうわね」

老女は返事を待たずに玄関の段差を越えた。小柄な体が誠一の横をすり抜けるとき、かすかに味噌の匂いがした。自分で作った味噌を常備しているような、古い台所の匂いだった。誠一は何も言えないまま、老女の後ろ姿を見ていた。紺色のカーディガンの背中が、廊下の奥に進んでいく。迷いのない足取りだった。この部屋の間取りを知っているかのように、まっすぐ台所に入った。

「散らかっていて——」

「いいの。座って」

老女はテーブルの椅子を引き、紙袋を置いた。袋の中から保温容器を取り出し、蓋を開ける。湯気が立った。煮物の匂いが台所に広がった。里芋と鶏肉、それから何かの根菜。匂いだけで中身が分かる自分に、誠一は少し驚いた。十年も料理から離れていたのに、鼻だけは覚えていた。

「片桐節子。はるかちゃんとは四十年の付き合い」

節子は誠一の向かいに座り、背筋を伸ばしたまま言った。四十年。母がまだ二十代の頃からということになる。誠一の知らない時間の長さに、言葉が出なかった。

「食べなさい。話はそれから」

箸が紙袋から出てきた。割り箸ではなく、塗りの箸だった。わざわざ持ってきたのだ。使い込まれた漆の艶が、蛍光灯の下で鈍く光っている。誠一は煮物の容器を引き寄せ、箸を手に取った。里芋を一つ、口に運ぶ。柔らかかった。出汁がしっかり染みていて、甘すぎない。母が好んだ味付けに近かった。喉の奥が熱くなる。空腹のせいだと思うことにした。

節子は誠一が食べるのを黙って見ていた。両手を膝の上に揃え、時折小さく頷くような仕草をしたが、急かす様子はなかった。容器が半分ほど空になったところで、口を開いた。

「はるかちゃんが働いてた食堂、知ってるでしょう」

誠一の手が止まった。食堂。母がかつて働いていた店の名前は知っていた。「はるか」という、母の名をそのまま冠した小さな食堂。ただ、行ったことはない。母が誠一を連れて関東に越してきたのは、誠一が五つのときだった。食堂の記憶は何一つ残っていない。

「閉めることになるの。来月で」

節子の声は平坦だった。感情を抑えているのではなく、何度も考えた末に辿り着いた言葉のようだった。

「はるかちゃんが辞めてから、私ともう一人で何とか続けてきたけど。もう一人のほうが去年倒れて。私一人じゃ厨房は回せない」

誠一は箸を置いた。煮物の汁が容器の底で揺れている。

「それで——」

「はるかちゃんが言ってたの。誠一が継いでくれたらって」

窓の外で、鳥が鳴いた。短い声が二度、それきり静かになった。

「いつですか」

「五年前。まだしっかりしてた頃。電話で話したのが最後だった」

五年前。母の認知症が診断される少し前だ。あの頃の母は、時折言葉が出にくくなることはあったが、電話で旧友と話すくらいの力は残っていた。その電話の内容を、誠一は知らなかった。母が誰かと電話していたことすら、覚えていない。日々の介護に追われて、母が何を話し、何を考えていたのか、気にする余裕がなかった。あの頃はまだ、母の症状が緩やかに進んでいた時期で、誠一は「まだ大丈夫だ」と自分に言い聞かせていた。大丈夫だと思っている間に、母は静かに別れの電話をかけていたのだ。

「無理です」

声が思ったより硬く出た。

「十年、何も作ってません。包丁も握ってない」

節子は瞬きもせず誠一を見ていた。その目が、玄関先で誠一の顔を確かめたときと同じだった。皺の奥の、静かな光。

「知ってるわ。はるかちゃんから聞いてた。誠一が店を閉めて、介護に入ったこと。全部」

全部。その言葉が重かった。母は節子に何を話したのだろう。息子が店を畳んだこと。包丁を置いたこと。それを「全部」と呼べるほどの量を、母は誰かに語っていたのだ。誠一の知らないところで。

「だからこそなの」

「何がですか」

「はるかちゃんは分かってたのよ。あなたが戻ってくる場所がなくなるって」

誠一は立ち上がった。椅子が床を擦る音がした。

「勝手なことを言わないでください」

声が震えていた。怒りなのか、別の何かなのか、自分でも分からなかった。母が生前に、自分の知らないところで自分の将来を誰かに託していた。その事実が、胸の内側を引っ掻いた。こめかみの奥で血が脈打つのが分かった。拳を握ると、爪が掌に食い込んだ。

「十年ですよ。十年、あの人の世話をした。仕事も関係も全部捨てて。それで——最後に残ったのがこれですか。会ったこともない人が来て、食堂を継げって」

節子は黙っていた。誠一の言葉を受け止めるでもなく、反論するでもなく、ただそこに座っていた。テーブルの上の煮物の容器から、もう湯気は立っていなかった。冷めた煮汁の表面に、天井の蛍光灯が小さく映っていた。

しばらく沈黙が続いた。台所の時計が秒針を刻む音だけが、やけに大きく聞こえた。

節子が立ち上がったのは、五分ほど経ってからだった。紙袋を畳み、保温容器の蓋を閉める。その手つきは落ち着いていた。誠一に何を言われても帰るつもりだったのだろう。最初から、長居するつもりはなかったのだ。

「これ、置いていくわね」

節子がカーディガンのポケットから取り出したのは、鍵だった。真鍮の、古い鍵。鍵に結ばれた紐が色褪せていて、元は赤だったのだろうが、今はくすんだ茶色に近い。節子はそれをテーブルの上に置いた。煮物の容器の横に、小さな金属音を立てて。

「食堂の鍵。返すなら、いつでもいい」

「持って帰ってください」

「返す場所は、あなたが決めなさい」

節子は玄関で靴を履いた。腰を曲げて、丁寧に踵を入れる姿を、誠一は台所の入り口から見ていた。何か言うべき言葉があるはずだったが、見つからなかった。

「煮物、美味しかったでしょう」

振り返らずに節子が言った。ドアが閉まり、足音が遠ざかっていく。階段を降りる音が、一段ずつ小さくなった。

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夕方になっても、鍵はテーブルの上にあった。

誠一は触れなかった。煮物の容器は片づけたが、鍵だけがテーブルの木目の上で光を受けている。真鍮の表面に小さな傷があった。何千回と鍵穴に差し込まれた痕だろう。色褪せた紐は、誰かが何度も結び直したらしく、端がほつれていた。

コンビニ弁当を温めて食べた。昨日と同じ手順で、同じ場所に立って、同じ電子音を聞いた。弁当の蓋を開けたとき、昼間の煮物の味が舌の奥に残っていることに気づいた。里芋の滑らかさと、出汁の深さ。プラスチックの容器に入った白飯が、妙に味気なかった。あの味付けを、母はどこで覚えたのだろう。関東に来てからか。それとも、あの食堂で。

テレビをつけた。ニュースが流れている。画面の中で誰かが何かを説明していたが、内容が頭に入らなかった。母が五年前に電話をしていた。自分が包丁を置いたことを、「全部」知っている人間がいた。母はその人に何を頼んだのか。息子を頼む、と言ったのか。それとも、食堂を頼む、と言ったのか。あるいはその二つは、母の中では同じことだったのかもしれない。

ソファに横になると、天井の染みがいつもと同じ場所にあった。三ヶ月前からずっと同じ染みを見ている。リモコンを握ったまま、目を閉じた。眠りは来なかった。隣の部屋の静けさが、壁を通して滲んでくる。

母は料理人だった。

その事実を、誠一は忘れていた。十年の間に、母は「患者」になった。食事の量を記録し、服薬の時間を管理し、排泄の介助をする対象。かつてこの人が出汁を引き、魚をおろし、客に料理を出していたことを、誠一は思い出さなくなっていた。思い出す余裕がなかったのか、思い出したくなかったのか。

目を開けた。台所の灯りを消し忘れていた。蛍光灯の光がリビングまで届いている。立ち上がって台所に入ると、テーブルの上の鍵が目に入った。

手が伸びていた。

気づいたとき、指先が鍵に触れていた。真鍮の冷たさが、爪の先から伝わってくる。誠一はそのまま鍵を持ち上げた。掌に収まる小さな重さだった。色褪せた紐が、指の間からぶら下がっている。握り締めると、鍵の歯が掌に食い込んだ。痛みに似た感触だった。台所の隅で、茶色い革のレシピノートが沈黙していた。鍵を握ったまま、誠一はしばらく動かなかった。蛍光灯が微かに唸っている。その音だけが、夜の台所に満ちていた。

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