第3話
第3話
翌朝、誠一は駅前のバス停にいた。
鍵はズボンのポケットの中にある。布越しに真鍮の硬さが太腿に当たっていた。返しに行くのだ。昨夜、鍵を握ったまま台所に立ち尽くしていた自分が、どうにも気持ち悪かった。何かに引き寄せられるように手が伸びた、あの感覚を振り払いたかった。鍵を返して、それで終わりにする。節子の連絡先は知らないが、食堂に行けば誰かがいるだろう。いなければドアの隙間から差し入れて帰ればいい。
バスに乗るのは久しぶりだった。交通系ICカードの残高が足りず、運転手の前で小銭を数えた。百円玉が一枚足りない。財布の底を探り、ようやく十円玉の束をかき集めて運賃箱に落とした。硬貨が金属に当たる乾いた音が、車内に響いた。後ろに並んでいた高校生が、イヤホンをしたまま退屈そうに窓の外を見ていた。誠一は一番後ろの席に座った。窓ガラスに映る自分の顔が、今朝剃ったはずの髭の剃り残しを見せていた。座席のモケットは日に焼けて色が抜けていた。膝の上に置いた両手が、行き場を失ったように重かった。
節子が置いていった紙片に、食堂の住所が書いてあった。テーブルの上に鍵と一緒に、いつの間にか置かれていたのだ。バスは二十五分ほど走り、聞いたことのない停留所の名前を告げた。降りると、片側一車線の通りに古い商店が並んでいた。シャッターが下りた店が多い。花屋だけが店先にバケツを出していて、百合の匂いがした。白い花弁が朝の光を受けて、通りの薄暗さの中でそこだけ浮き上がって見えた。
三分ほど歩くと、角に小さな建物が見えた。二階建ての木造で、一階部分に庇がせり出している。庇の下に、色の褪せた看板が掛かっていた。「はるか」とだけ書いてある。丸みのある筆文字で、角が欠けていた。看板の右下に小さな染みがある。雨だれの痕だろう。何年分もの雨が、同じ場所を伝い続けた跡だった。
誰もいなかった。引き戸の前に立ち、ポケットから鍵を出す。差し入れて帰るつもりだった。だが引き戸には鍵穴がなかった。横にずらすと、そのまま開いた。施錠されていない。節子が開けておいたのか、あるいは最初から閉まっていなかったのか。
中に入ると、埃の匂いがした。甘くて乾いた、長い時間が凝縮されたような匂い。誠一は三歩ほど進んで立ち止まった。
カウンターが五席。奥に四人がけのテーブルが一つ。壁に木の棚があり、湯呑みが並んでいた。どれも同じ形で、白地に藍の線が一本だけ入っている。天井の蛍光灯は消えていて、引き戸から入る外光だけが店内を照らしていた。椅子の座面に埃が積もっている。カウンターの上にも、薄い灰色の層が均一に乗っていた。
厨房はカウンターの向こう側にあった。仕切りはなく、客席から手元が見える作りだ。誠一の店もそうだった。客の顔を見ながら料理を出す。それが母の——いや、自分が選んだ店の形だと思っていたが、元はここだったのかもしれない。
靴を脱ぎ、カウンターの端から厨房に入った。足裏にタイルの冷たさが伝わる。業務用のガスコンロが二台。換気扇は止まっている。コンロの五徳を見たとき、誠一の足が止まった。
焦げ跡があった。右側のコンロの、手前の五徳に。黒く焼き付いた、丸い跡。吹きこぼれを何百回も繰り返した痕だ。味噌汁か、煮物か。火を強くしすぎる癖のある人間が使い続けた跡だった。
母がそうだった。出汁を取るとき、沸騰の直前で火を落とすのが正しいのに、母はいつもわずかに遅れた。「分かってるのよ、手が追いつかないの」と笑っていた。そのたびに鍋が噴いて、五徳に汁が焼きついた。誠一の店では、それを毎晩こすって落としていた。ここでは誰も落とさなかったのだろう。何年分もの焦げが層になって、五徳の一部のようになっていた。
指で触れた。ざらついた表面の下に、鉄の硬さがある。爪でこすると、黒い破片がぱらぱらと落ちた。母の手が、ここで動いていた。この五徳の上で鍋を振り、火加減を誤り、焦げを作った。その時間の堆積が、指先に触れている。誠一は指を止められなかった。こすればこするほど鉄の地肌が覗き、その下からまた別の焦げの層が現れた。何年目のものだろう。母が何歳のときの焦げだろう。分かるはずもないのに、指が問い続けていた。
棚を開けた。調味料の瓶が並んでいた。どれも空か、ほとんど空だった。醤油の瓶の底に、飴色の液体がわずかに残っている。隣に味噌の容器があったが、蓋が固まって開かなかった。乾物を入れていたらしい瓶には、何かの粉が底に沈殿している。
奥の棚に手を入れたとき、指先に紙が触れた。引き出すと、小さなメモ用紙だった。四角い、黄ばんだ紙。端がカールしている。鉛筆で何か書いてあった。
「味噌汁 わかめは最後 煮すぎない」
誠一の手が止まった。
この字を知っていた。丸みがあって、少し右に傾いている。「い」の二画目が長く、「す」の丸が大きい。母の字だった。台所の隅にあるレシピノートの持ち主と同じ手が、このメモを書いた。棚の奥に、もう一枚あった。
「金曜は焼き魚 鯖があれば鯖」
さらに奥を探ると、三枚目が出てきた。こちらはメモ用紙ではなく、伝票の裏だった。
「節ちゃんは塩辛いのが好き 少し濃いめに」
節ちゃん。節子のことだろう。母はここで、常連の味の好みを伝票の裏に書き留めていた。誰がどんな味を好むか。その一枚一枚が、母がこの厨房に立っていた時間の断片だった。
三枚のメモを手に持ったまま、誠一は厨房の真ん中に立っていた。足元のタイルの目地が黒ずんでいる。油と水が何年も流れた痕だ。天井の換気扇が、動かないのに風を通しているような気がした。引き戸から入る外の空気が、厨房を静かに巡っていた。
母はここで料理を作っていた。「はるかちゃん」と呼ばれ、味噌汁を作り、焼き魚を出し、常連の好みを覚えていた。誠一の知っている母——認知症が進み、名前を忘れ、食事を拒み、最後は胃瘻になった母——の手前に、この場所で生きていた母がいた。
鍵を返しに来たはずだった。ポケットの中で、真鍮の鍵が太腿に当たっている。返す相手はここにはいない。店は空で、埃が積もり、コンロは冷えている。返す場所がない鍵を、誠一は握ったまま立っていた。
メモを棚に戻した。元あった場所に、向きを揃えて。それから厨房を出て、引き戸を閉めた。通りに出ると、花屋の百合の匂いがまだ漂っていた。
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アパートに戻ったのは昼過ぎだった。
靴を脱ぎ、廊下を歩き、台所に入る。蛇口をひねって手を洗った。指先に、まだ五徳のざらつきが残っている気がした。水を止めて、手を拭かないまま台所の隅を見た。
茶色い革のレシピノートが、同じ場所にあった。朝の光はもう移動していて、ノートは影の中にあった。革の表紙の傷が、暗がりの中でかろうじて見える。
誠一はノートの前に座った。椅子ではなく、床に直接座った。膝を折り、ノートと目線の高さを合わせた。革の表面に、指紋の跡が残っていた。誰かが——母が何度も触れた跡だ。食堂の五徳に残っていた焦げと同じだった。時間の重なりが、物の表面に刻まれている。
左手でノートの端を持ち、右手で表紙を開いた。革が少し硬くなっていて、途中で抵抗があった。背表紙が軋む音がした。最初のページが現れた。
白いページの上部に、母の字があった。
「はるかの台所」
それだけだった。日付も、説明もない。ただ四文字と助詞が一つ。丸い字の「は」が、少しだけ大きかった。ページの余白が広く、母がそこに何も付け足さなかったことが、かえって重く感じられた。
次のページをめくろうとして、指が止まった。台所の窓から、午後の光が斜めに差している。その光の中で、ノートの最初の一ページだけが開かれている。埃の匂いと、かすかな革の匂いがした。食堂の厨房で嗅いだ、あの乾いた時間の匂いと、どこか似ていた。
誠一はノートを閉じなかった。開いたまま、膝の上に置いていた。次のページに何が書いてあるのか、まだ見ていない。見る準備が、まだできていないのかもしれなかった。それでも閉じなかった。台所の時計が秒針を刻んでいる。その音を聞きながら、誠一は母の字を見ていた。