第2話
第2話
翌日も、僕は保健室にいた。
朝のルーティンは変わらない。教室の前まで行って、立ち止まって、引き返す。廊下の蛍光灯は相変わらず一本だけチカチカしていて、掲示板の色画用紙はもう端が丸まり始めていた。四月の二週目。クラスの中ではもうグループができあがっている頃だろう。僕の席だけが、毎日空っぽのまま朝を迎えて、誰にも気づかれないまま放課後を迎える。席はある。でも座る人間がいない。それは存在しないのとほとんど同じことだ。
保健室のパイプ椅子に座って、文庫本を膝に置く。昨日と同じページ。一行も進んでいない。活字の上を目が滑るだけで、意味が頭に入ってこない。片桐先生は奥の机でパソコンに何か打ち込んでいて、キーボードの音だけが保健室に規則正しく響いている。
時計を見た。十一時四十分。
昨日、あの人が中庭に現れたのは何時だっただろう。午後の——たぶん、昼休みが始まってすぐくらいだった気がする。
僕は自分が時計を見たことに気づいて、少し驚いた。待っている。誰かが現れるのを、僕は待っている。半年間、保健室の天井の染みを数えることしかしなかった人間が、窓の外を気にしている。
十二時十五分。チャイムが鳴った。
校舎の中がざわめき始める。弁当箱を開ける音、購買に走る足音、笑い声。壁一枚向こうの日常。僕は文庫本を閉じて、窓のほうを向いた。さりげなく——のつもりだったけれど、たぶん全然さりげなくなかった。椅子ごと体を回して、窓枠に肘を乗せて、中庭を見下ろした。
いた。
同じ場所だった。去年の文化祭の残骸、ペンキの剥げたベニヤ板の舞台セット。その上に、昨日と同じように桐島さんが立っていた。今日は両腕を広げていない。片手に何か——紙を持っている。台本だろうか。それを見ながら、何かを呟いている。遠くて声は聞こえない。でも唇が動いているのはわかった。
しばらく小さな声で読んでいたかと思うと、急に紙を下ろして、顔を上げた。そして叫んだ。昨日と同じ、全身を使った声。保健室の窓ガラスがびりびり震える——のは気のせいかもしれないけれど、そう感じるくらい、まっすぐな声だった。
何を言っているのか知りたい、とふと思った。
身を乗り出した。窓を少しだけ開けてみようか。そう思って窓の取っ手に手を伸ばしたとき——桐島さんが、こっちを見た。
目が合った。
三階の保健室から中庭まで、距離にして二十メートルくらい。顔の表情までは読めない。でも、こっちを見ている。確実に見ている。僕の心臓が一回、大きく跳ねた。
桐島さんが、手を振った。
大きく。頭の上まで腕を上げて、ぶんぶんと。まるで遠くにいる友達を見つけたみたいに、迷いなく。僕はあの人の友達じゃない。名前すら知らなかった——昨日片桐先生に聞くまで。それなのに、あの手の振り方には「あ、いたいた」という気安さがあった。
咄嗟にカーテンを引いた。
白いカーテンが窓を覆って、中庭が見えなくなる。心臓がうるさい。手が震えている。なんで隠れたんだろう。別に悪いことをしていたわけじゃない。窓の外を見ていただけだ。でも、見ていることを知られた——それがたまらなく恥ずかしかった。覗いていたわけじゃない。ただ見ていただけだ。でもカーテンを閉めた時点で、「見ていました」と白状したようなものだった。
片桐先生がこちらを見た。眼鏡の奥の目が、少しだけ面白そうに細まった気がした。
「……何でもないです」
「何も聞いてないわよ」
先生はそう言って、パソコンに視線を戻した。僕はカーテンの隙間から中庭を覗く勇気もなく、文庫本を拾い上げて、同じページをまた開いた。活字が揺れて見えたのは、たぶん手が震えていたからだ。
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翌日。
僕はまた時計を見ていた。自分でも呆れるくらい、何度も。十一時五十分。まだ早い。十二時。チャイムが鳴る。十二時五分。まだだ。十二時十分——。
窓を、今日は最初から少しだけ開けておいた。四月の風が入ってきて、カーテンの裾を揺らす。どこかで部活の声がする。グラウンドの砂の匂い。
十二時十五分。
桐島さんが、校舎の角から現れた。
今日は紙を持っていなかった。鞄だけ持って、まっすぐ舞台セットに向かう。歩き方に迷いがない。毎日同じ道を通っているのだろう。踏み固められた自分だけの道。舞台セットの横に鞄を置いて、ひょいと飛び乗る。高さは一メートルくらいしかないけれど、その動作が妙に軽やかだった。
そして、何もしないまま——こっちを見上げた。
最初からだ。台詞の練習もしない。叫びもしない。舞台の上に立って、三階の保健室の窓を、まっすぐ見上げている。
僕は窓から半歩引いた。でもカーテンは閉めなかった。昨日の二の舞はごめんだった。カーテンを閉めて逃げたら、また「見ていました」と認めることになる。だから動かなかった——というのは嘘で、本当は、もう少し見ていたかった。
桐島さんが口を開いた。何か言っている。距離があって聞こえない。でも口の動きで、短い言葉だとわかった。二音節くらいの——。
「おーい」
聞こえた。風が止んだ一瞬、はっきりと。
「おーい、保健室のきみー」
僕は固まった。僕のことだ。どう考えても僕のことだ。保健室にいて窓から中庭を見ているのは僕しかいない。
桐島さんが笑った。遠くからでもわかるくらい、大きく口を開けて。それから舞台の上でくるりと一回転して、正面を向き直した。観客は僕ひとり。たった一人のために、彼女はおもむろに芝居を始めた。
台詞を叫ぶ。何の芝居かわからない。でも、怒っているような台詞、泣いているような台詞、笑い飛ばすような台詞が次々と飛んでくる。その合間にちらちらとこっちを見て、僕がまだ窓辺にいるのを確認して、満足そうにまた正面を向く。
見ている。僕がいることを知っていて、それを——楽しんでいる。
十五分くらいだったと思う。桐島さんは大きく一礼して、舞台から飛び降りた。鞄を拾い上げて、校舎に向かう。そして二十メートル歩いたところで振り返って、もう一度手を振った。今度は小さく、ひらひらと。
僕は手を振り返せなかった。ただ窓枠を握ったまま、彼女が校舎の中に消えるのを見ていた。
「あの子、面白いでしょう」
片桐先生がいつの間にか後ろに立っていた。
「べつに——」
「毎日あれやってるの。入学した頃からよ。最初は周りも驚いてたけど、今はもう誰も気にしない。変人で通ってるから」
先生はコーヒーカップを持ったまま、僕の隣に来て窓の外を見た。桐島さんはもういない。中庭には崩れかけの舞台セットだけが残っている。
「演劇部、今何人なんですか」
自分でも予想していなかった質問が口をついて出た。片桐先生が少しだけ眉を上げた。
「三人って聞いたわ。部員が足りなくて、このままだと廃部になるって」
三人。あの人が部長で、あと二人。たった三人で、毎日あの中庭で叫んでいる。いや——叫んでいるのは桐島さんだけかもしれない。残りの二人はどうしているんだろう。
「……なんでそんなこと聞くの?」
先生がコーヒーを一口飲んで、穏やかに聞いた。
「なんでもないです」
「そう」
先生はそれ以上追及しなかった。いつもそうだ。この人は僕の「なんでもない」を、そのまま受け取ってくれる。本当はなんでもなくなんかないことを、たぶん知っていて。
帰り道、商店街を歩きながら考えた。桐島さんは、僕が見ていることを知っている。知っていて、逃げなかった。むしろ手を振って、芝居まで始めた。まるで観客を見つけた役者みたいに。
僕は観客ですらない。ただの——保健室から出られない、廊下の三十歩が歩けない人間だ。
でも、明日もあの窓の前にいるだろう。桐島さんが来る時間に、文庫本を閉じて、窓を少しだけ開けて。会いたいとか話したいとか、そういうのじゃない。ただ——あの声を聞いていると、保健室の空気が少しだけ動く気がした。止まったままの僕の周りの空気が、ほんの少しだけ。
明日、桐島さんはまた手を振るだろうか。
振ったら今度は——いや、やめよう。まだ早い。まだ何も始まっていない。