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保健室の窓から舞台は見えた

第3話 第3話

第3話

第3話

金曜日の保健室は、いつもより静かだった。

片桐先生が午後から出張で、僕は一人きりだった。窓は少しだけ開けてある。もう何日目だろう、この窓を開けておくのが習慣になったのは。四月の風はまだ冷たさを残していて、カーテンの裾がときどき思い出したようにふわりと膨らんだ。

十二時十五分。チャイムが鳴る。

中庭に目をやった。舞台セットはいつも通りそこにある。ペンキの剥げたベニヤ板、雨染みの茶色い模様。でも今日は——十五分経っても、二十分経っても、桐島さんは来なかった。

おかしい、と思った。おかしいと思っている自分がおかしかった。毎日来る約束なんてしていない。そもそも僕たちは一言も話したことがない。窓越しに手を振られて、カーテンを閉めて逃げて、翌日は逃げずに見ていた。それだけの関係だ。関係とすら呼べない。

十二時四十分。来ない。

文庫本を開いた。同じページ。もう三日間、同じページを開いている。さすがにこのまま一文字も読まないのはどうかと思って、最初の一行に目を落とした。「彼は長い廊下を歩いていた」。なんの小説だったか忘れたけれど、廊下という単語が目に入っただけで教室の前の三十歩を思い出して、すぐに閉じた。

一時のチャイムが鳴って、五限目が始まる気配がした。今日も桐島さんは来なかった。それだけのことだ。僕は荷物をまとめて、保健室を出た。先生がいないから、早退届は机の上に置いておく。何度も繰り返した手順。

廊下に出ると、五限目の授業が始まったあとの静けさが広がっていた。上履きが床を踏むたびにきゅっと音がして、それが壁に反射して返ってくる。階段を降りる。三階から二階へ、二階から一階へ。下駄箱に向かう角を曲がったところで——。

「つかまえた」

声がした。目の前に、人が立っていた。

壁に背中を預けて、腕を組んで、僕が来るのを待っていた——としか思えない姿勢で、桐島さんがそこにいた。

「えっ」

「いやー、待った待った。保健室って五限前に出るんだね。先週からパターン読んでたんだけど、今日やっと合った」

早口だった。声が大きい。中庭で叫んでいるときの声量そのまま、廊下に反響して、どこかの教室まで届きそうだった。僕は一歩後ずさった。

「あ、ごめん怖かった? 待ち伏せって言うとやばい人っぽいよね。でも保健室に押しかけるのも違うし、中庭から叫んでも会話にならないし、消去法でここかなって」

「あの——」

「桐島凛。三年。演劇部の部長やってる。知ってるかもだけど一応」

知っている。片桐先生に聞いた。でもそれを言ったら「やっぱり気にしてたんだ」と言われそうで、僕は曖昧に頷いただけだった。

「きみ、蒼井くんでしょ。二年三組の」

名前を知られていた。なんで、と思ったけれど、保健室登校の生徒なんて学年に一人しかいない。調べるまでもない。

「声、いいね」

「……は?」

「保健室で独り言言ってるの、聞こえてたよ。中庭からだと三階の窓って結構音が抜けるんだよね。文庫本読んでるとき、ときどき台詞のとこ声に出してない?」

血の気が引いた。

読んでいた。声に出していた。文庫本の台詞の部分だけ、無意識に小さな声で読み上げる癖があった。保健室に一人でいるとき——片桐先生が席を外しているとき——誰にも聞こえないと思って。

「聞こえてたの、いつから……」

「先週の水曜くらいかな。最初は空耳かと思ったんだけど、次の日もその次の日も聞こえるから。いい声だなって。低くて、ちょっと掠れてて、遠くまで通る感じの」

桐島さんは壁から背中を離して、一歩こっちに近づいた。僕はまた一歩下がった。距離は変わらない。

「ねえ、演劇部って知ってる?」

「……名前だけ」

「今、部員三人。私と、一年の男子と、もう一人。三人じゃ文化祭の公演枠もらえないの。最低四人必要なんだけど、誰も入ってくれなくて。このまま秋まで四人集まらなかったら廃部」

桐島さんの声のトーンが、少しだけ変わった。さっきまでの軽さの中に、硬いものが混じった。

「廃部になったら、舞台がなくなる。私の最後の文化祭が、なくなる」

三年生。そうだ、桐島さんは三年生だ。今年が最後の文化祭。

「裏方でいいから。照明とか、音響とか、なんでもいい。名前だけでもいいから、入ってくれない?」

まっすぐ目を見られた。距離は二メートルくらい。近くで見ると、桐島さんは思ったより小柄だった。中庭の舞台の上では大きく見えたのに。でも目の力は変わらなかった。中庭で叫んでいるときと同じ、何かを——誰かを捕まえようとする目。

「無理です」

自分でも驚くくらい、はっきり出た。

「僕は——教室にも行けないんです。人前に出るとか、部活とか、そういうの全部無理です」

「教室に行けないのと、部活は別じゃない?」

「同じです。人がいる場所が、全部……」

声が小さくなった。最後のほうはほとんど聞こえなかっただろう。でも桐島さんは聞き取ったらしく、少しだけ首を傾げた。

「そっか」

意外なくらい、あっさりだった。食い下がると思っていた。あの中庭で毎日叫んでいる人が、一回断られたくらいで引き下がるとは思えなかった。

桐島さんは鞄の持ち手をくるくると手首に巻きつけながら、窓の外を見た。廊下の窓から中庭が見える。例の舞台セットが、午後の日差しの中で白っぽく光っていた。

「あのさ、舞台の上って不思議なんだよ」

独り言みたいな声だった。僕に向けているのか、自分に言い聞かせているのか、わからない声。

「普段の自分とか、教室での立ち位置とか、そういうの全部関係なくなるの。台本があって、役があって、照明がついたら——もう自分じゃないんだよね。別の誰かになれる。別の誰かとして、声を出せる。蒼井くんが蒼井くんのまま声を出せなくても、舞台の上なら別の人間として声を出せるかもしれない」

桐島さんがこっちを向いた。笑っていた。中庭で芝居を終えたあとの、あの大きな笑い方じゃなくて、もっと小さな——でも嘘のない笑い方だった。

「まあ、今日は帰りな。無理に引っ張っても意味ないし」

鞄を肩にかけ直して、桐島さんは僕の横を通り過ぎた。すれ違いざまに、シャンプーとも制汗剤ともつかない匂いがした。三歩くらい歩いたところで、振り返った。

「部室、第二校舎の三階の一番奥ね。毎日放課後いるから。気が向いたら覗くだけでもいいよ」

それだけ言って、桐島さんは廊下の角を曲がっていった。上履きがきゅっきゅっと鳴って、その音がだんだん小さくなって、消えた。

僕は廊下に一人で立っていた。

下駄箱で靴を履き替える手が、まだ少し震えていた。震えの理由がわからなかった。怖かったのか。緊張していたのか。それとも——。

校門を出て、いつもの道を歩く。商店街のパン屋の前。信号が青になって、渡る。ここで佐々木とすれ違ったのは何日前だったっけ。もう覚えていない。覚えていないことに、少しだけ驚いた。

桐島さんの言葉が、頭の中でぐるぐる回っていた。

——舞台の上じゃ誰でも別人になれる。

嘘だと思う。そんな簡単な話じゃない。照明がついたら別人になれるなんて、そんなの物語の中だけだ。教室の三十歩が歩けない人間が、舞台の上に立てるわけがない。

でも。

桐島さんは嘘をつく顔をしていなかった。あの笑い方は——少なくとも彼女にとっては本当のことなんだろう。舞台の上で別人になれるということが、あの人の人生の中で一度は本当に起きたのだろう。だからあんなふうに、誰もいない中庭で叫べるのだ。

自分の部屋に戻って、制服のまま椅子に座った。机の上には教科書とノートが積んであるけれど、ここ半年、一度も開いていない。その横に文庫本。まだ同じページが開いている。

「別の人間として、声を出せるかもしれない」

口に出してみた。自分の声が、静かな部屋に落ちた。低くて、少し掠れていて——桐島さんが「いい声」と言った、この声。僕はこの声が嫌いだった。教室で誰にも届かなかった声。名前を呼んでも振り向いてもらえなかった声。でも桐島さんは、この声が中庭まで届いていたと言った。

第二校舎、三階、一番奥。

行かない。行けるわけがない。部活なんて論外だ。人がいる。知らない人がいる。桐島さんと、一年生の男子と、もう一人。三人の中に入っていくなんて、教室の三十歩より難しい。

——気が向いたら覗くだけでもいいよ。

覗くだけ。覗くだけなら、もしかしたら。いや、やめよう。何も始めないほうがいい。始めなければ失敗しない。傷つかない。今のままでいい。保健室と自分の部屋と、その往復でいい。

窓の外が暗くなり始めていた。四月の日は長いけれど、部屋の中はもう薄暗い。電気をつける気にもなれず、椅子に座ったまま天井を見上げた。

第二校舎、三階、一番奥。

その場所が、頭の中から消えなかった。

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