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星図の少女と廃部三週間

第1話 第1話

第1話

第1話

知らない街の朝は、においが違う。

 四月の風に混じる潮の気配。前の学校は山間部だったから、空気はいつも土と木の香りがした。その前は排気ガス。その前は——もう覚えていない。三度目の転校ともなると、記憶は上書きされるものだと知っている。

 始業式のあいだ、僕は体育館の隅で自分の靴先を見ていた。校長の話は耳に入らない。周りの生徒たちは春休みの思い出を交換しあっていて、その笑い声がやけに遠い。制服だけが真新しくて、それが逆に目立つ。着慣れた制服の集団の中で、折り目のついたシャツは「よそ者」の看板みたいだった。

 ホームルームで担任に促されて、黒板の前に立った。

「藤原陽太です。県外から来ました。よろしくお願いします」

 三度目だから、もう慣れたものだ。笑顔の作り方も、声の大きさも。ちょうどいい自己紹介——印象に残らない程度の。

 拍手はまばらで、視線はすぐに逸れた。席に着くと、隣の男子が一瞬こちらを見て、それからスマホに目を戻した。それでいい。どうせまた転校するかもしれないのだから、深く入り込まないほうがお互いのためだ。

 授業が始まっても、僕はずっと窓の外を見ていた。校庭の桜が風に揺れている。花びらが数枚、開いた窓から教室に入ってきて、前の席の女子のノートに落ちた。彼女がそれを指で弾くのを、ぼんやり眺めていた。

 昼休み、誰も話しかけてこなかった。別に期待していたわけじゃない。コンビニで買ったパンを屋上で食べようとしたけれど、屋上は施錠されていた。仕方なく階段の踊り場で食べた。パンの味がしない。味がしないことにも、もう慣れた。

 六限目が終わったとき、教室にはもう僕の居場所がなかった。部活の勧誘ビラが廊下に並んでいたけれど、どれも「仲間と一緒に」「最高の青春を」と書いてある。仲間。青春。どちらも僕には縁のない言葉だった。

 鞄を持って校舎を出た。正門に向かうつもりだった。でも足は逆方向に動いていて、気づいたら本校舎の裏手にある旧館の前に立っていた。

 古い煉瓦造りの建物で、窓ガラスの半分は曇っている。正面玄関には「関係者以外立入禁止」の看板があったけれど、横の通用口は開いていた。

 入るつもりはなかった。ただ、帰りたくなかっただけだ。新しい家に帰っても、段ボールだらけの部屋が待っているだけで、母さんは遅くまで仕事だ。

 旧館の廊下はひんやりしていた。埃の匂い。使われていない教室が並んでいて、どの扉にも「使用禁止」の紙が貼ってある。僕の足音だけが反響する。天井の蛍光灯は半分以上切れていて、窓から差す西日だけが廊下を照らしている。壁のペンキが所々剥がれて、下地のコンクリートが覗いていた。二階に上がると、廊下の突き当たりに古びたプレートが見えた。

「天文部」

 白い文字がかすれて、「天」の字の右端が剥がれかけている。

 なんとなく、ドアノブに手をかけた。金属の冷たさが掌に伝わる。重い扉が軋みながら開いた。

 薄暗い部屋の中に、夕陽が一筋、差し込んでいた。

 窓際の長机に、一人の少女が座っていた。大きな紙——星図だ——を広げて、細い指でなにかをなぞっている。制服の袖が少し長くて、指先だけが覗いている。黒い髪が肩のあたりで切り揃えられていて、夕陽に縁だけが赤く光っていた。

 僕が入ってきた気配に気づいたのか、彼女が顔を上げた。

「部員?」

 低い声。感情の読めない目。

「あ、いや——」

「違うなら帰って」

 視線はすぐに星図に戻った。僕はそこに立ったまま、言葉を探した。帰ればいい。それだけのことだ。ドアノブから手を離して、踵を返せばいい。

 でも、目が壁に吸い寄せられた。

 壁一面に、手書きの星座スケッチが貼られていた。オリオン座、北斗七星、カシオペヤ——見覚えのあるものから、名前も知らないものまで。何十枚も。画用紙やレポート用紙、ルーズリーフ。筆跡はひとつではなかった。何人もの手で、何年もかけて描かれたものだと分かった。いちばん古いスケッチは紙が黄ばんでいて、端がめくれている。鉛筆の線は薄くなっていたけれど、星の一つひとつが丁寧に点を打って描かれていて、描いた人の真剣さが伝わってきた。

 その中の一枚に、目が止まった。夏の大三角。デネブ、アルタイル、ベガ。三つの星を結ぶ線の横に、小さな字で「ここから見る星が、いちばん好きだ」と書いてあった。丸みのある筆跡。インクの色が褪せて、茶色がかっている。書いた人はもう、この学校にはいないだろう。

「——きれいだな」

 口に出してから、しまったと思った。彼女は顔を上げなかった。ただ、星図をなぞる指が一瞬止まった。

「ここ、天文部なんだよね」

「見ればわかるでしょ」

「一人で?」

 彼女の指が、今度ははっきり止まった。長机の上にはノートが開いたまま置かれていて、細かい数字が整然と並んでいるのが見えた。赤ペンと黒ペンが使い分けられている。一人でやる作業量ではなかった。

「……そうだけど」

 窓の外で、夕焼けが校庭を橙色に染めていた。グラウンドでサッカー部が練習している声が、かすかに聞こえる。ボールを蹴る乾いた音、誰かの名前を呼ぶ声。活気に満ちたその音が、逆にこの部室の静けさを際立たせていた。この部室だけが、時間から取り残されたみたいに静かだった。

「他の部員は」

「いない。私だけ」

「それって——」

「廃部になるの。来月末で」

 彼女は星図から目を上げないまま、事実だけを述べた。声に悲しみはなかった。怒りもなかった。ただ、諦めた人間の声だった。それが僕には、妙に馴染みのある響きだった。

 新しい場所に期待しないこと。どうせ変わらないと知っていること。

「それでも、ここにいるんだ」

「観測記録は途切れさせたくないから。それだけ」

 彼女——白石凛、と部室のホワイトボードに書いてあった——は、ようやく僕の方を見た。まっすぐな視線だった。値踏みするでもなく、媚びるでもなく、ただこちらの輪郭を確かめるように見ている。

「あんた、転校生でしょ」

「なんでわかるの」

「制服の折り目。あと、こんなところに来るのは、行く場所がない人だけ」

 否定できなかった。

 沈黙が落ちた。夕陽が少しずつ傾いて、壁のスケッチの影が伸びていく。埃が光の筋の中をゆっくり舞っている。彼女はまた星図に視線を落とした。僕は壁のスケッチを一枚ずつ見て回った。どれも丁寧に描かれている。星の位置だけでなく、日付と時刻、気温、湿度まで記録されていた。ある年の記録は几帳面な字で、別の年は癖の強い丸文字で。それぞれの筆跡に、それぞれの人がいた。最後の一枚の日付は、三年前だった。それ以降の記録は——ノートに移したのか、それとも、もう誰も描かなくなったのか。

「三年前から、ずっと一人?」

 凛は答えなかった。代わりに、星図の上に定規を置いて、立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。

「帰るなら鍵を閉めて。合鍵は——まあいいか。明日から来ないだろうし」

 鞄を持って出て行く背中を、僕はぼんやり見送った。ローファーの足音が廊下に遠ざかっていく。階段を下りる音。それも消えて、旧館はまた沈黙に戻った。

 一人になった部室で、もう一度壁を見渡した。何十枚ものスケッチ。何人もの筆跡。ここにはかつて、星を見上げる人たちがいた。笑い合って、記録をつけて、同じ空を見ていた人たちが。

 窓の外に目をやった。夕焼けの端に、一番星がひとつ、瞬き始めていた。

 部室を出ると、廊下の掲示板が目に入った。画鋲で留められた一枚の紙。事務的なフォント。

「天文部——活動実績不足により、五月末をもって廃部とする」

 僕は、その紙をしばらく見つめていた。活動実績不足。たった一人で記録を続けている人間がいるのに、それは実績にならないのか。

 帰り道、潮の匂いがした。新しい街の、知らない風。靴の中に砂が入っていて、歩くたびにじゃりじゃりと音がする。坂道を下ると港が見えた。夕陽の残りが水面に散っていて、漁船のシルエットが黒く浮かんでいる。前の街にはなかった景色だ。

 ——明日、あの部室に行ったら、彼女はまた一人で星図を広げているだろうか。

 ポケットに手を突っ込んで歩きながら、僕はまだ、あの壁一面の星座のことを考えていた。

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