第2話
第2話
翌日も、放課後の足は旧館に向かっていた。
自分でも不思議だった。昨日あれだけ素っ気なくされたのに、教室で六限目のチャイムが鳴った瞬間、鞄を掴んでいた。隣の席の男子がまたスマホに目を落としているのを横目に、僕は廊下に出た。部活勧誘のビラが風にめくれている。吹奏楽部の練習音が遠くから聞こえて、その音がやむあたりに旧館がある。
通用口は昨日と同じように開いていた。階段を上がる。自分の足音が廊下に反響する。二段目の踏み板がきしむ音まで昨日と同じで、身体がもうこの道を覚えかけていることに気づいた。天井の蛍光灯は相変わらず半分以上切れていて、四月の午後の光だけが窓から斜めに差し込んでいた。埃が光の中をゆっくり泳いでいる。古い木材と、かすかなカビの匂い。旧館特有の、時間が止まったような空気が肌に触れた。
ドアノブに手をかけると、中から声がした。
「……来ると思った」
凛は昨日と同じ席に座っていた。でも星図ではなく、古いアルバムのようなものを開いている。表紙が革張りで、角がすり減って白くなっていた。
「なんで」
「行く場所がない人は、一度見つけた場所に戻ってくるから」
否定できなかった。二度目だ。この人に図星を突かれるのは。喉の奥に苦い味が広がる。転校を三回繰り返した人間の行動パターンを、会って二日目の相手に読まれている。それが悔しいのか、安心なのか、自分でもわからなかった。
「座れば」
昨日の「帰って」とは違う。僕は凛の向かい側の椅子を引いた。パイプ椅子の脚が床を擦る音がして、また静寂が戻る。窓の外ではグラウンドで野球部が声を出している。掛け声が規則的に響いて、まるで別の世界の音みたいだった。
「これ、見て」
凛がアルバムを僕の方に向けた。革の表紙から古い紙の匂いが立つ。ページの中央に、一枚の集合写真が貼られている。色褪せた写真。十人ほどの高校生が、トロフィーを囲んで笑っている。横断幕には「全国高校天文コンテスト 優勝」の文字。日付は十年前。
「十年前の天文部」
「うちの学校が全国で勝ったの。この一回だけ」
凛の声には、昨日とは違う温度があった。諦めではなく、もっと複雑な——憧れと、悔しさを混ぜたような。指先がアルバムの縁をなぞっている。無意識の仕草だろう。このページを何度も開いたことがある手つきだった。
「すごいね。十年前か」
「写真、よく見て。背景」
言われて目を凝らした。集合写真の背後に、夜空が広がっている。撮影場所は屋外。建物の輪郭がシルエットになっていて、その上に星が散っている。白い点の集まり。
「星が写ってる」
「どの星か、わかる?」
僕は写真に顔を近づけた。画質は粗いけれど、明るい星のいくつかは配置で判別できる。左上の明るい三つ——夏の大三角。それはわかる。でもその右下に、見慣れない並びがあった。
「これ……さそり座?」
「アンタレスの位置、合ってる。さそり座の尾まで全部写ってる」
「全部?」
さそり座は南の低い空に見える星座だ。尾の先は地平線に近くて、光害のある市街地ではまず見えない。ましてや——
「この学校の屋上からじゃ、無理だよ。南側は港の照明がもろにかぶる。さそり座の尾なんて、光に潰されて絶対に写らない」
凛が僕を見た。さっきとは違う目。試すような、確かめるような。瞳の奥に小さな炎が灯ったように見えた。
「そう。屋上からでは見えない」
「じゃあこの写真、どこで撮ったの」
「それを十年間、誰も調べなかった。私も——去年までは」
凛が立ち上がって、壁のスケッチの一枚を外した。その裏に、学校の敷地図が鉛筆で描かれていた。旧館、本校舎、体育館、グラウンド。そして敷地の北東の隅に、小さな丸印がある。線は何度も描き直された跡があって、丸印だけが太く、迷いなく引かれていた。
「旧天文台。校舎が建て替えられる前に使われてた、観測用のドーム」
「この学校に天文台があるの」
「あった。今は立入禁止。老朽化で危険だからって、五年前に封鎖された」
僕は椅子から立ち上がって、敷地図を覗き込んだ。旧天文台の位置は校舎の北東。つまり南側に遮るものが少ない。しかもドームの上なら高さがある。
「ちょっと待って」
鞄からスマホを出した。光害マップのアプリを開く。この街の座標を入れて、十年前の日付で星空をシミュレーションする。撮影角度は写真の建物のシルエットから逆算できる。仰角はおよそ十五度。方位は南南西。指先が画面の上を走る。数字を入れるたびに、パズルのピースが嵌まっていく感覚があった。
「……合う」
「なにが」
「旧天文台のドームの上からなら、さそり座の尾まで見える。南側は港だけど、ドームの高さがあれば光害の影響層の上に出られる。地上十二メートルくらいあれば、仰角十五度のアンタレスから尾の先まで、建物に遮られずに撮影できる」
凛が敷地図を指で叩いた。
「ドームの高さ。旧校舎の図面で確認した。十三・五メートル」
「十分だ」
二人で顔を見合わせた。凛の目が、初めて光を帯びた気がした。昨日の無表情とは違う。まっすぐに何かを見据えている目。壁に貼られた「ここから見る星が、いちばん好きだ」の走り書きが、視界の端にちらついた。ここから、というのは——屋上のことじゃなかったのかもしれない。
「行きたい」
口に出したのは、僕の方が先だった。自分でも驚くくらい、自然に。胸の内側で何かが弾けるように動いた。転校してから初めて、自分の意志で何かを望んだ気がした。
「旧天文台。行ってみたい」
凛は黙って僕を見ていた。長い間。窓の外の夕陽が傾いて、部室の光が橙色から赤に変わっていく。壁のスケッチの影が伸びて、床に星座の形を落としていた。
「——立入禁止だけど」
「知ってる」
「見つかったら怒られるじゃ済まない。停学もあり得る」
「転校三回目の人間に、停学は大した脅しにならないよ」
軽口のつもりだった。でも凛は笑わなかった。代わりに、少しだけ目を細めた。それが彼女なりの——たぶん——微笑みだった。
「明日の放課後。旧天文台の裏手に、管理用の外階段がある」
「知ってるの?」
「去年、一度だけ近くまで行った。でも一人じゃ——」
言いかけて、凛は口を閉じた。その先を言う代わりに、机の上のアルバムを閉じた。革の表紙がぱたんと音を立てる。その音が部室の空気を区切った。ここまでが共有で、ここからは各自の領域。そういう線引きを、この人は音ひとつで作る。
「光害の計算、ちゃんとできるんだ」
「前の学校で物理だけは好きだった。それだけだけど」
「それだけで十分」
凛がアルバムを棚にしまう。その背中を見ながら、僕は気づいていた。この人が僕に写真を見せたのは、たぶん偶然じゃない。計算できる人間が必要だった。一人では開けられない扉があった。
使われているのかもしれない。でも——不思議と嫌じゃなかった。誰かに必要とされること自体が、三つ目の学校で初めてのことだった。
「明日、何時」
「四時半。旧館の裏。遅れないで」
凛は鞄を持って部室を出た。昨日と同じだ。でも今日は、ドアを閉める前に一度だけ振り返った。
「——藤原」
「ん」
「計算、間違ってなかったら、すごいものが見つかるかもしれない」
それだけ言って、足音が廊下に消えていった。
一人残された部室で、僕はもう一度写真を棚から引っ張り出した。十年前の天文部員たちの笑顔。トロフィーの輝き。そしてその背後に広がる、この街からは見えないはずの星空。
さそり座の尾が、粗い画像の中でかすかに光っている。この写真を撮った人は、あのドームの上から何を見たのだろう。十年前の夏、あの場所に立って、どんな空を見上げたのだろう。
窓の外はもう暗くなり始めていた。街灯がひとつ、またひとつと点いていく。港の方角から、船の汽笛が短く鳴った。星はまだ見えない。光が多すぎて。
でも明日、あのドームに登れば——光の届かない高さから見る空には、僕がまだ知らない星が広がっているのかもしれない。
鞄を掴んで部室を出た。廊下の掲示板の「廃部」の告示が目に入る。昨日と同じ紙。同じ文字。でも今日は、少しだけ違って見えた。
この部活にはまだ、見つけていないものがある。