第3話
第3話
四時半の五分前に旧館の裏に着いたら、凛はもう立っていた。
制服の上にカーキ色のウインドブレーカーを羽織って、運動靴に履き替えている。準備がいい。僕はローファーのままだった。
「それで来たの」
凛が僕の足元を見て、呆れたように息を吐いた。
「靴、考えてなかった」
「階段、錆びてるから。滑っても知らない」
それだけ言って歩き出す。旧館の北側を回り込むと、生垣の向こうに敷地の端が見えた。本校舎からは死角になる場所で、雑草が膝の高さまで伸びている。四月の草は柔らかくて、踏むとじゅくりと水気を含んだ音がした。潮風が生垣を揺らしている。この街に来てまだ三日目なのに、この風の匂いには少し慣れてきた。
生垣を抜けると、旧天文台が見えた。
思っていたより小さかった。白い外壁は汚れて灰色になっていて、ところどころ蔦が這い上がっている。丸いドームの屋根が乗っていて、それだけが天文台だと示していた。観測用のスリットは閉じたまま錆びついている。建物の周囲にはフェンスが巡らされ、「立入禁止 老朽化のため危険」の看板が二枚。
「裏に回って」
凛がフェンスの端を指差した。コンクリートの土台との隙間が、人一人が横向きに通れるくらい空いている。凛が先にしゃがんで身体を滑り込ませた。僕も続く。制服の背中に土がついた気がしたけれど、構わなかった。
フェンスの内側に入ると、管理用の外階段があった。鉄製の螺旋階段で、赤茶色に錆びている。手すりが一部欠けていた。凛が手すりに触れて、強度を確かめるように力を込めた。きしむ音。でも折れはしない。
「いける。でもゆっくり」
凛が先に登り始めた。一段ずつ、足元を確認しながら。僕はその後を追った。ローファーの底が金属の上で滑りそうになるたび、手すりを握り直す。四月の風が高度とともに強くなって、制服のシャツが身体に張りつく。振り返ると、校舎の屋根が見えた。グラウンドでは陸上部がトラックを走っている。ここからだと人が小さい。あの中の誰も、まさか天文台に人がいるとは思っていないだろう。
螺旋階段の終点に、鉄の扉があった。
「鍵……」
凛がドアノブを回した。回らない。予想通りだ。でも凛は動じなかった。ウインドブレーカーのポケットから、小さな缶を出した。
「潤滑油。去年、ここまでは来てた」
「一人で?」
「鍵は開かなかったけど」
凛が鍵穴に潤滑油を吹きかけた。それから、もうひとつポケットから出したもの——古い鍵束。三本の鍵がついている。
「どこで」
「部室の棚の奥。アルバムのさらに下。顧問の先生が置き忘れたのか、わざと残したのか」
一本目。合わない。二本目。差し込めるけれど回らない。凛の指先に力がこもる。眉間の皺が深くなった。
三本目を差し込んだとき、がちり、と金属が噛み合う音がした。
凛がドアノブを回す。錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てて、扉が内側に開いた。
埃の匂いが一気に押し寄せてきた。五年分の、閉じ込められた時間の匂い。僕は思わず袖で口を覆った。凛はそのまま一歩踏み入れて、壁のスイッチを探した。かちかちと何度か切り替えたけれど、電気は点かない。
「ブレーカー落ちてる。でも——」
ドームのスリットの隙間から、細い西日が何本も差し込んでいた。薄明かりの中に、天文台の内部が浮かび上がる。
円形の部屋だった。中央に、大きな望遠鏡が据えられている。白い鏡筒が天井を向いて、その表面にうっすらと埃が積もっている。架台は金属製で、重厚な造りだった。教室に置かれているような教材用のものとはまるで違う。口径は——二十センチはある。
「これ……」
「反射式。たぶんニュートン式。十年前の優勝チームが使ってたやつだと思う」
凛が望遠鏡に近づいて、鏡筒に触れた。指先が埃の上に線を引く。その下から、白い塗装が現れた。丁寧に手入れされていた痕跡。レンズキャップはきちんと嵌められていて、アイピースにも保護カバーがかけてある。最後に使った人が、いつか誰かが戻ってくることを信じて、そうしたのだと思った。
望遠鏡の脇に、作業机があった。天板の上に分厚いノートが一冊、開いたまま置かれていた。
僕が先にそれを手に取った。表紙は黒い革張りで、背表紙に金字で「観測記録」と刻まれている。ページをめくると、日付と天体名、座標、スケッチが几帳面に記されていた。最初のページの日付は十五年前。筆跡は途中で何度も変わっている。ある年は角ばった字で、翌年は流れるような字で。部長が代替わりするたびに、書き手が変わったのだろう。
「歴代の観測ノートだ」
「見せて」
凛が僕の横に来た。肩が触れそうな距離で、二人してノートを覗き込む。ページをめくるたびに埃が舞い上がって、西日の光の筋の中を漂った。十四年前、十三年前、十二年前。天体の記録が淡々と続いている。中には詩のような走り書きもあった。「今夜の木星は怒っているようだった」。別のページには「流星群、二十三個。寒くて指が動かない」。観測者たちの息遣いが、古い紙の上に残っていた。
十年前のページに差しかかったとき、記録の密度が跳ね上がった。毎日のように観測が記されている。天体の座標だけでなく、光害の度合い、大気の透明度、独自の計算式。紙面が数字で埋め尽くされていて、余白にまで赤ペンで注釈が走っている。全国優勝した年のチームの記録だ。
「すごい量だ。毎晩やってたのか」
「コンテスト前は特に。この年の部長が——」
凛の声が途切れた。
最終ページだった。
観測記録ではなかった。見開き全体に、手書きの星図が描かれていた。でも僕の知っている星座とは配置が違う。星の位置を示す点は実際の天球座標に対応していないように見えた。いくつかの星が直線で結ばれ、矢印が添えられている。余白に数字と記号の列。暗号——というより、何かの手順を圧縮して図にしたような印象だった。
右下の隅に、小さな文字が一行。
「『光の底にも、星はある』」
僕が読み上げた瞬間、凛の指がノートの上で止まった。
横を見た。凛の表情が変わっていた。唇が薄く開いて、目が星図の一点に釘付けになっている。瞳の奥で何かが激しく動いているのが見えた。昨日、写真の星座配列を指摘したときの光とは違う。もっと深い、もっと個人的な何か。
「凛」
「……」
「この星図、何かわかるの」
凛はノートから手を離した。一歩下がって、顔を伏せた。前髪が表情を隠す。西日が傾いて、ドームの中の明るさが一段落ちた。望遠鏡の白い鏡筒が薄闇に溶け始めている。
「わからない」
嘘だ。声が震えている。でも僕にはそれ以上踏み込む権利がなかった。出会って三日の相手に明かせないものがあるのは、当然のことだ。僕だって——転校の理由を訊かれたら、きっとごまかす。
「持って帰ろう。このノート」
「だめ。ここに置いていく」
「でも——」
「ここにあるべきものだから」
凛がノートを閉じて、作業机の元の位置に戻した。その手つきには迷いがなかった。背表紙を指先でなぞって、何かを確かめるように少し押さえた。
ドームの隙間から差す光が、赤から紫に変わり始めていた。日が沈みかけている。
「帰ろう。暗くなると階段が危ない」
凛が先に扉に向かった。僕は最後にもう一度、望遠鏡を見た。埃の下に眠る精密な機械。歴代の部員たちの記録。そして最終ページの、読み解けない星図。
この場所には、まだ閉じたままの秘密がある。
螺旋階段を下りながら、凛の背中を見ていた。足取りは来たときよりも硬い。何かを抱え込んでいる背中だった。あの星図の一行——「光の底にも、星はある」。あの言葉が凛の何に触れたのか、僕にはまだわからない。
フェンスの隙間をくぐり抜けて、旧館の裏に戻った。校庭の照明が点いていて、まだ部活をしている生徒たちの影が長く伸びていた。日常の風景が、さっきまでいた場所とあまりにも離れていて、夢から覚めたような気分だった。
「明日も来る」
僕が言うと、凛は足を止めた。振り返らなかった。
「あの星図、解読したい。光害計算ができるなら、座標のずれから何か読み取れるかもしれない」
長い沈黙。潮風が凛の髪を揺らした。遠くで船の汽笛が鳴っている。
「——勝手にすれば」
その声は、拒絶ではなかった。震えの残った喉で絞り出した、精一杯の許可だった。
凛が去ったあと、僕は旧館の壁にもたれて空を見上げた。街灯が明るくて、星はほとんど見えない。光の底。この街の空は光に沈んでいる。それでも、あのドームの上まで登れば——十三・五メートルの高さから見る空には、まだ名前を知らない星があるはずだ。
ポケットの中でスマホが震えた。母さんからのメッセージ。「夕飯は冷蔵庫」。いつもの一行。返事を打とうとして、指が止まった。画面の光が暗がりに浮かんでいる。
あの星図の最後の一行が、頭から離れない。光の底にも、星はある。あの言葉を書いた人は、この街の光害の中で、それでも星を見つける方法を知っていたのだろうか。そして凛は——あの筆跡に、誰の手を見たのだろう。