第1話
第1話
三ヶ月ぶりに、缶ビールの銘柄を選ぶ余裕があった。
深夜一時のコンビニは蛍光灯が白すぎて、網膜の奥がじんわり痛む。冷蔵庫の扉に指をかけたまま、俺はしばらく動けなかった。ガラス越しに並ぶ缶の列が、どれも同じに見える。別にどれでもいい。どうせ味なんてわからない。ただ、何かを「選ぶ」という行為自体が久しぶりで、脳がうまく処理できていなかった。冷気が指先から腕を伝って、スーツの袖の中まで忍び込んでくる。それでもなぜか、手を離す気になれなかった。
結局いつもと同じ発泡酒を取って、レジに並ぶ。店員の「お箸おつけしますか」に首を振る。温める弁当もない。袋に入れられた350ml缶ひとつが、今日の俺の夕飯だった。
宮野蒼太、28歳。広告代理店の中堅社員。肩書きだけ聞けばそれなりに聞こえるかもしれない。でも実態は、終電に間に合うかどうかを毎晩ギリギリで計算しながら、デスクの上の企画書を一行も進められずにいる男だ。三ヶ月連続の終電帰り。冷蔵庫には調味料だけが並び、ベッドのシーツを最後に替えたのがいつだったか思い出せない。
自動ドアを出ると、四月なのに夜風が冷たかった。ネクタイを少し緩めて、駅に向かう。改札を通り抜け、いつもの階段を降りる。この時間のホームには人がまばらで、自分の革靴の音だけが妙に響く。向かいのホームの時刻表示板が、無機質な青い光で次の電車までの分数を刻んでいた。
小学生のころ、親父に「どんな大人になりたい」と聞かれて、「面白い大人」と答えた記憶がある。何が面白いのかも分かっていなかったくせに、妙に自信だけはあった。あの頃の俺が今の俺を見たら、何と言うだろう。たぶん何も言わない。興味すら持たないかもしれない。
改札を出て、駅前のロータリーに足を向けた。タクシー乗り場の横にあるベンチ。いつもは誰も座っていないそこに、人影があった。
大きめのボストンバッグをひとつだけ足元に置いて、背筋を伸ばして座っている女。スプリングコートの襟を立てて、どこを見るでもなく正面を向いている。行くあてのない人間特有の、時間の流れから切り離されたような佇まいだった。
通り過ぎようとして、足が止まった。
横顔に既視感がある。いや、既視感なんて生易しいものじゃない。もっと深いところに刻まれた輪郭だ。こめかみから顎にかけてのライン、少しだけ上を向いた鼻先。街灯のオレンジ色の光が、その輪郭を柔らかくなぞっている。見間違いだと思いたかった。でも心臓が先に答えを出していた。鳩尾の奥で、忘れていたはずの何かがざわりと動いた。
女がこちらを向いた。
「——蒼太?」
十年前と同じ声だった。少しだけ低くなって、少しだけ掠れていたけれど、間違えようがなかった。
「葉月」
名前を口にした瞬間、舌の上に懐かしい感触が広がった。何千回と呼んだはずの二文字が、十年の空白を経て、妙に重たかった。
桐島葉月。幼馴染。家が三軒隣で、小学校から高校まで同じ学校に通った。高二の夏、何も言わずに消えた。転校届が出されていたと担任から聞いたのは、彼女がいなくなって一週間後のことだ。
「なんで、ここに」
「蒼太こそ。こんな時間にスーツで」
「仕事帰り」
「相変わらずだね」
相変わらず、という言葉が引っかかった。十年会っていないのに、何が相変わらずなのか。でもそれを問い返す前に、葉月は足元のボストンバッグに目を落とした。
「ねえ、蒼太。ひとつだけお願いがあるんだけど」
嫌な予感がした。こういうときの葉月の声は昔から変わらない。何かとんでもないことを言い出す前の、妙に落ち着いた声。
「一晩だけ、泊めてくれない?」
「は?」
「一晩だけ。明日にはどうにかするから」
「いや、待て。十年ぶりに会って開口一番がそれか」
「十年ぶりだからだよ。他に頼れる人がいないの」
葉月は笑った。昔と同じ、困ったときに出る笑い方だった。目尻が少し下がって、口の端だけが上がる。あの笑顔を見ると、俺はいつも断れなくなる。十年経っても、その反射は抜けていなかった。
「事情は」
「聞かないでくれると助かる」
「……聞かないで泊めろって?」
「うん」
あっさりとした返事だった。まるで傘を貸してくれと頼むみたいに。俺は発泡酒の入ったビニール袋を握り直した。缶の冷たさが、ビニール越しに掌を刺している。
断る理由はいくらでもあった。十年間音信不通だった相手を、深夜に自宅に上げる道理がない。常識で考えればそうだ。でも目の前のボストンバッグは一つだけで、葉月の足元のパンプスは少し汚れていて、爪先がすり減っている。どれくらい歩き回ったんだろう。コートの裾にも微かな皺が寄っていて、今日一日ずっと外にいたことが伝わってきた。
「一晩だけだからな」
言ってしまってから、自分の声が思ったより穏やかだったことに気づいた。
「ありがとう」
葉月がベンチから立ち上がる。ボストンバッグを肩にかける仕草がやけに手慣れていて、それがまた引っかかった。何度も荷物をまとめて移動してきた人間の動きだ。
駅から自宅までの十分間、俺たちはほとんど話さなかった。半歩後ろを歩く葉月の靴音だけが、静かな住宅街に響いている。何を話せばいいのかわからなかった。「元気だったか」は嘘くさいし、「どこにいたんだ」は重すぎる。沈黙が気まずいというより、十年分の空白がそのまま二人の間に横たわっていて、どの言葉もその空白を飛び越えられない気がした。
ふと振り返ると、葉月は夜空を見上げていた。街灯に照らされた横顔が、十六歳の記憶と重なって、ほんの一瞬だけ胸の奥が詰まった。
「ここ」
マンションのエントランスで立ち止まると、葉月が建物を見上げた。
「蒼太、こういうとこ住んでるんだ」
「どういう意味だ」
「ちゃんとしてるなって」
「普通だよ」
オートロックを開けて、エレベーターに乗る。狭い箱の中に、葉月の匂いがした。知らない柔軟剤の香り。昔は石鹸みたいな匂いだったのに、と思って、すぐにその記憶を押し戻した。十年前の匂いを覚えていることが、少し怖かった。
五階で降り、部屋のドアを開ける。1LDK。必要最低限の家具しかない空間。脱ぎ散らかした靴もなく、シンクに溜まった洗い物もない。あるのは無印の棚と、ニトリのソファと、仕事用のノートPCだけ。
葉月は玄関で靴を脱ぎながら、部屋の中をぐるりと見回した。
「……蒼太。ここ、本当に住んでるの?」
「住んでる」
「モデルルームかと思った」
「うるさい」
「昔から片付けすぎるところあったよね」
葉月は笑っていたけれど、その目はどこか寂しそうだった。見られている、と思った。この部屋に染みついた生活感のなさを、葉月は正確に読み取っている。ここにはただ眠りに帰るだけの男が住んでいる——それが一目で伝わってしまう部屋だ。
「布団、出すから待ってろ」
クローゼットから客用の布団を引っ張り出しながら、頭の中で状況を整理しようとした。深夜一時半。十年ぶりの幼馴染が、荷物ひとつで、泊まりに来ている。事情は教えてくれない。明日には出ると言っている。
どう考えてもまともな状況じゃない。でも、発泡酒ひとつ選ぶのに時間がかかるような夜に、この部屋に俺以外の人間がいるという事実は、認めたくないけれど、少しだけ息がしやすかった。
「蒼太」
布団を敷き終えて振り返ると、葉月はリビングの窓際に立っていた。カーテンの隙間から外を見ている。
「この部屋、夜景見えるんだね」
「夜景ってほどじゃない。ただの住宅街の灯りだ」
「うん。でも——」
葉月はカーテンから手を離して、こちらを向いた。何か言いかけて、唇を一度閉じた。その一瞬の逡巡に、言葉にできない何かが滲んでいた。
「なんでもない。おやすみ、蒼太。ありがとう」
「……おやすみ」
自分の寝室に戻って、ドアを閉めた。ベッドに横になっても、すぐには眠れなかった。薄い壁の向こうに、十年間どこにいたのかわからない人間がいる。天井の闇を見つめていると、時折リビングの方から微かな衣擦れの音が聞こえた。葉月もまだ眠れていないのだろう。
高二の夏。部活帰りに葉月の家の前を通ったら、表札が外されていた。あの日の感覚が、今も指先に残っている。冷たいアルミの門扉に手をかけて、呼び鈴を押そうとして、表札があるべき場所の白い跡を見つけた。指で触れた壁の、日焼けしていない四角い痕。あれが最後だった。
理由は聞かなかった。聞けなかった。
明日の朝、この部屋に葉月がいるのかどうか。それすら確信が持てないまま、俺は目を閉じた。