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隣の部屋の幼馴染

第2話 第2話

第2話

第2話

朝、目覚ましのアラームより先に、匂いで目が覚めた。

味噌の匂い。それから、米の炊ける、少しだけ甘い匂い。

寝ぼけた頭で枕元の時計を見ると、六時四十分だった。普段なら七時のアラームで起きて、歯を磨きながら前夜のメールを確認して、シャワーも浴びずに家を出る時間。それが、自分の部屋にあるはずのない匂いで起こされている。

天井を眺めたまま、しばらく動けなかった。脳が現実に追いついてくるまで、たぶん十秒くらいかかった。昨夜のことが、後ろから順に巻き戻される。発泡酒、駅のベンチ、十年ぶりの名前、布団を敷いた音。

葉月だ。

リビングからかすかに、まな板を叩く音が聞こえる。とんとんとん、と一定のリズム。包丁の重みだけで切っているような、軽い音だった。音の間隔が、ひどく規則的で、そのくせときどき、ほんの半拍だけ遅れる。人の手が立てている音だと、寝起きのぼんやりした頭でもわかった。ここ何年か、自分の部屋のキッチンでまな板の音を聞いたことなんて、一度もなかった。

ベッドから起き上がって、スウェットの裾を直す。寝癖を片手で押さえて、それからやめた。今さら整えてリビングに出ていくのも、それはそれで違う気がした。考えるほど面倒臭くなって、結局そのままドアを開けた。ドアノブを回す指先が、なぜか少しだけ湿っていた。

リビングの空気が、昨日までのこの部屋とは別物になっていた。

床のフローリングに朝の日が斜めに差し込んでいて、湯気がその光の筋の中をゆっくりと上っていく。テーブルの上に置きっぱなしだった昨夜の缶は、もう片付けられていた。代わりに、拭いたばかりらしい跡が、ほんの少し濡れた光沢を残している。

キッチンに葉月が立っている。借り物のエプロン——たぶん俺がいつだったかコンビニの景品でもらった、開封もしていなかったやつ——を腰に巻いて、レンジの前で鍋をかき混ぜていた。サイドテーブルには小皿に切ったねぎと、もう一つの皿の上に、なにか黄色いもの。

「おはよう」

振り返らずに、葉月が言った。

「……おはよう」

返した自分の声が、寝起きで掠れていた。

「もうすぐできるから、座ってて」

「いや、座ってて、って」

「冷蔵庫、ほんとに何も入ってなかったから、コンビニ行ってきた。蒼太の財布から二千円借りた。あとで返すね」

俺は黙って、ダイニングのテーブルに腰を下ろした。椅子の背もたれが、いつもよりずいぶん冷たく感じた。テーブルの上には、すでに茶碗と箸が二人分並んでいる。茶碗なんて自分の分しか持っていなかったはずだ。視線で問うと、葉月は鍋をかき混ぜたまま、こちらを見ずに答えた。

「マグカップ、お茶碗代わりにしてもいいかな」

「……ああ」

そういえば、俺の茶碗の隣に置かれているのは、会社のノベルティのマグカップだった。受け皿の代わりに小さく折ったキッチンペーパーが敷かれている。端がきっちり揃えられていて、指の爪でなぞったような折り目までついていた。なんとも言えない丁寧さだった。その丁寧さが、この部屋にいつからなかったものなのか、思い出そうとして途中でやめた。

葉月は鍋を火から下ろし、二つの器に味噌汁をよそった。湯気が立ち上る。具はわかめと豆腐。もう一皿は卵焼きだった。少しだけ焦げ目のついた、家庭的な切り方。

「卵、ひとつしかなかったから、半分ずつ」

「それ、卵焼きって言わないだろ」

「卵焼きだよ。気持ちの問題」

葉月が向かいに座った。湯気越しに、目が合う。昨夜よりずっと顔色が良かった。目の下の隈は薄れていたが、消えてはいない。眠れたのかは、わからなかった。

「いただきます」

「……いただきます」

味噌汁を一口含んで、思わず手が止まった。出汁の取り方が、実家のものに似ていた。中学生の頃に毎朝飲んでいた、母親の味噌汁の味。味噌の溶き加減も、豆腐の切り方の厚みも、どこか記憶のどこかを撫でてくる。葉月はそれを夏休みに何度か食べたことがある。厚い湯気を鼻先で受けるたび、台所に立つ母親の背中と、食卓の端っこに正座していた高校生の葉月の姿が、勝手に重なって頭の中をよぎった。

何か言いたかったけれど、言葉にすると壊れそうな気がして、二口目を飲んだ。喉の奥で、熱が一度きゅっと縮んでから、胸のあたりに落ちていった。葉月もそれ以上は何も言わなかった。卵焼きを箸の先で割る音と、味噌汁の表面が揺れる音だけが、テーブルの上に残っていた。

時計を見ると、七時十五分だった。普段なら、もう家を出ているか、出る直前の時刻だ。

「蒼太、何時に出るの」

「七時半」

「じゃあちょうどよかった」

「……ちょうどいいって」

葉月は卵焼きを箸で半分に割って、自分の皿に取った。残り半分を、俺の皿の方に押し出してくる。箸先で器用に、白い皿の中央まで滑らせるようにして。

「葉月」

「ん」

「明日には出るんだろ」

声が、思っていたよりも硬くなった。自分の口から出た音なのに、他人のもののように耳に残った。葉月は卵焼きを口に運ぶ手を一瞬止めて、それからゆっくり噛んだ。飲み込むまでに、たぶん五秒くらいあった。その五秒のあいだ、キッチンの方から換気扇のかすかな唸りだけがずっと続いていた。

「……うん」

短い返事だった。けれど、その「うん」の語尾が少しだけ伸びていた。昔からこの語尾の伸ばし方をするときの葉月は、何かを誤魔化している。高校のときも、補習をさぼった日も、財布を落とした日も、同じ音で「うん」と言った。

「決まってるのか、どこに行くか」

「いま、考えてるところ」

「考えてるって」

「あてはあるの。ただ、ちょっとだけ時間がかかるかも」

「ちょっとって、どれくらい」

葉月は、マグカップを両手で包んで、立ちのぼる湯気を見ていた。視線が手元に固定されたまま動かない。指先が、マグカップの取手を何度もなぞるように動いていた。同じ場所を、同じ角度で。爪の先がほんの少し白くなるほど、強く。その動きを見ていると、こちらの胸の奥まで、一緒になぞられているような気分になった。

「わかんない」

「わかんない、って」

「ごめん」

葉月が顔を上げた。笑っていた。困ったときにいつも出る、目尻が下がって口の端だけが上がる笑い方。十年経っても、俺はこの笑顔の前で言葉を失う。何か言い返そうと口の中で言葉を組み立てても、組み立てる端から崩れていく。

出社しなければいけない時刻が、刻一刻と近づいていた。テーブルの下で、靴下に包まれた足の指を、無意識に握り込んでいた。親指の付け根が、床のざらつきを拾っている。

「……わかった」

口から出た言葉に、自分でも驚いた。

「わかったって、何が」

「いや、明日のことは、明日また話す」

葉月が目を瞬かせた。一瞬、何か言いかけて、また唇を閉じた。喉のあたりがほんの少し動いて、飲み込まれた言葉の形が、そこにあったことだけが伝わってきた。

「ごめんね」

「謝るな。飯、ごちそうさま」

茶碗の中身を急いでかき込んで、立ち上がった。寝室に戻って、ハンガーから昨日と同じスーツを取る。袖を通しながら、心臓が少し速いことに気づいた。シャツのボタンを留める指が、いつもより一段階ぎこちなかった。怒っているのか、戸惑っているのか、自分でもよくわからなかった。たぶん、両方だ。両方とも、ずいぶん長く感じていなかった種類の感情だった。

ネクタイを締めて、玄関に向かう。葉月はキッチンで洗い物を始めていた。背中を向けて、蛇口の音と食器のぶつかる音が小さく重なる。湯気の向こうで、エプロンの紐の結び目が、歩くたびに小さく揺れていた。

「行ってくる」

口に出してから、その言葉の重さに気づいた。誰かに向かって「行ってくる」と言うのは、たぶん十年ぶりだった。靴を履き替えるあいだ、その四文字が耳の中で、もう一度だけ反響した。

「行ってらっしゃい」

葉月は振り返らなかった。けれど、声だけは、ちゃんとこちらに返ってきた。蛇口の水音のあいだをくぐって、まっすぐに、玄関まで届いた。

ドアを閉めて、エレベーターのボタンを押す。階数表示の数字が一つずつ減っていく間、俺はぼんやりと、夕方のことを考えていた。今日の俺は、たぶん終電を待たない。終電を待つ理由が、今日に限ってない気がした。

帰ったら、葉月はいるんだろうか。

いてほしい、と思っている自分を、まだ認める準備ができていなかった。

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