第3話
第3話
三日目の夜、定時で会社を出た。そんなことをしたのが何ヶ月ぶりか、もう思い出せなかった。
オフィスビルのロビーを出ると、十九時過ぎの空気が頬に当たって、普段より生ぬるかった。地下鉄の階段を降りながら、ネクタイの結び目をわずかに緩める。車両の吊り革を握ると、隣のサラリーマンが開いたスポーツ新聞の文字が、揺れに合わせて視界の端を通り過ぎていった。
駅から家までの十分間、歩幅がいつもより小さかった。コンビニの前で一度足が止まりそうになって、そのまま通り過ぎた。発泡酒を買う理由が、今日はなかった。
エントランスのオートロックを抜けて、五階まで上がる。廊下の非常灯が、壁に自分の影を細長く引き伸ばしている。ポケットで鍵を握り直すと、掌に金属の冷たさが張り付いた。ドアの前で一度息を整えてから、鍵を差した。
玄関灯が室内から漏れている。葉月の靴が、踵を揃えて下駄箱の前に並んでいた。昨日よりほんの少しだけ、壁寄りに位置がずれている。
「ただいま」
言ってから、自分の声の角度がいつもと違うことに気づいた。
「おかえり」
リビングから返事が来る。葉月はソファの隅に膝を抱えて座って、ノートPCの画面を見ていた。俺の姿を認めると、ノートをぱたんと閉じる。その閉じ方が少しだけ急で、閉じきる瞬間、葉月の指先が画面の上を一度だけ滑った。
「早いね」
「会議が流れた」
「嘘」
「嘘だよ」
葉月は笑った。こちらは笑い返せなくて、ネクタイを引き抜いた。結び目を解く手が、普段よりも一拍遅い。リビングに足を踏み入れると、ほのかにコーヒーの匂いがした。テーブルの上にマグカップが二つ並んでいる。片方からまだ湯気が立っていた。
「蒼太の分、さっき淹れたばっかり」
「なんで俺の分まで」
「勘」
三日目にして、この部屋の何かが、もう俺のものではなくなり始めている。その事実を、葉月はマグカップの並べ方ひとつで、しれっと可視化していた。
ソファに並んで座った。葉月は両手でマグカップを包んだまま、自分の膝頭を見ている。窓の外で、どこかの家のインターフォンがかすかに鳴って、すぐに止んだ。
「葉月」
「うん」
「いつまでいるんだ」
思っていたよりも、低い声が出た。言ってから、自分がずっとこの台詞を口の中で転がしていたことに気づいた。通勤電車の揺れの中で、エレベーターの階数表示が一つずつ減っていくあいだに、何度も組み立てては崩した言葉だった。
葉月はマグカップの取手を指でなぞっていた。同じ場所を、同じ角度で。昨日の朝、卵焼きを食べる前にも、俺はこの仕草を見た。
「ちょっと待って」
葉月はカップを置いて、足元に寄せていたボストンバッグを引き寄せた。ファスナーを開けて、内ポケットから何かを取り出す。金属がぶつかる、乾いた音。
テーブルの上に、鍵が置かれた。
古いアパートの鍵だった。樹脂製のキーホルダーが黄ばんでいて、中に挟まれた紙には、手書きで「二〇三」と書いてある。インクが少し掠れて、「三」の右下がわずかに滲んでいた。俺が見ている間に、葉月は二本目の鍵——こちらは銀色が新しく、今日切ったばかりらしい光り方をしている——も、その横に並べた。
「隣」
「……は?」
「隣のアパート。昼間に借りてきた。ちょうど空いてたから」
「借りたって、契約したのか」
「した。保証会社とかいろいろ、面倒だったけど、今日全部済ませた」
「……どうやって」
「貯金は多少あるよ。そんなに心配しないで」
葉月の声は落ち着いていた。金の話をしているのに、朝食のメニューを選ぶときと同じ音量で話している。マグカップのコーヒーの表面が、ほんの少しだけ揺れた。俺が動かしたのか、葉月が動かしたのか、もう分からなかった。
「葉月」
「うん」
「早くないか、いろいろ」
「早くないよ。蒼太の部屋、明日までって話だったし」
「……そうだけど」
言葉が続かなかった。自分が言いたかったのは、そういうことじゃない。明日までと言ったのは、確かに俺だ。でも、三日目の夜に、葉月が隣の部屋の鍵を二本もテーブルに並べている、そのスピードの速さが、何か別の意味を持って俺の胸の内側を押してきた。追い出されるように段取りを組まれている、という感じに近かった。俺がそう望んだはずなのに。
「ただ」
葉月は指先で、古い方の鍵を軽く押した。キーホルダーがテーブルの上を滑って、俺の肘の前で止まる。
「あの部屋、キッチンが壊れてるの。ガスも通ってなくて、水道の蛇口もおかしい。リビングの電気だけは点くんだけど」
「……なんでそんな部屋を」
「安いから。それに」
葉月は顔を上げた。今度は、困ったときに出る笑い方をしていなかった。真顔だった。
「蒼太のとこ、毎日ごはん作りに来ていい?」
返事ができなかった。
「作って、一緒に食べて、洗い物して、帰る」
「帰るのは隣か」
「うん。寝るのは、ちゃんと隣で寝る」
その「ちゃんと」が、妙に耳に残った。
窓の外で、向かいのマンションの窓が一つ、また一つ、灯りを落としていく。時計の針が二十二時を回ったところで、玄関のチャイムが鳴った。
「運送屋さん」
葉月が立ち上がって、玄関に向かった。俺は少し遅れて廊下に出た。
ドアを開けると、作業着の男が二人、台車を押して立っていた。段ボールが、台車の上に四つ、廊下にさらに三つ。どれも中くらいの大きさで、透明なビニールテープで封がされている。
「隣の二〇三、鍵は」
「これです」
葉月が古い方の鍵を渡した。男は慣れた手つきで台車を動かし始める。段ボールが、俺の部屋のドアの前を通り過ぎて、隣の部屋に運び込まれていく。廊下の非常灯の下で、一つの箱の側面が、はっきりと見えた。
南京錠が、ついていた。
真鍮色の、小さな錠前。箱の蓋のフラップを、ビニールテープの上からさらに固定するように、ダンボールに直接穴を開けて通してある。同じ形の錠前が、次の箱にも、その次の箱にも、見える範囲のすべてに付いていた。数を数えようとして、四つ目で視線を外した。数えることが、自分にとって失礼な気がした。
「全部、鍵がついてるんだな」
後ろから声をかけると、段ボールを抱えた葉月が振り返った。その一瞬、葉月の瞳の奥が揺れた。俺が何を見ていたか、葉月は正確に分かっていた。
「うん」
「……重そうだな」
言いかけた言葉を、途中で差し替えた自分を、褒めたい気分だった。
「大したもの入ってない。昔の書類とか、服とか、その辺」
「そうか」
「そう」
それ以上、何も聞かなかった。聞ける場面はあったし、聞いていい権利も、たぶんあった。ここで問い詰めれば、葉月は答えるか、また困った顔で笑うか、どちらかだろう。どちらにしろ、俺が今欲しい答えには辿り着かない予感がした。聞かないという選択は、何も選ばないことと同じではないと、三十分前まで知らなかった。
二十分ほどで搬入が終わった。作業着の男たちが帰ると、廊下には俺と葉月だけが残った。隣のドアが半分開いていて、中からは新しい段ボールの匂いと、どこか埃っぽい床の匂いがかすかに混ざって流れてきた。
葉月は隣の部屋の玄関に立って、一瞬、中を見た。背中越しに、電気のついていない部屋の輪郭が見える。壁紙が、俺の部屋よりも一回り古い色をしていた。箱のひとつが、玄関を上がってすぐの床に置かれたままになっている。その上の南京錠が、廊下の非常灯を受けて、鈍く光っていた。
「蒼太」
「ん」
「今日だけ、もう一回だけ、そっちで寝ていい?」
「……いいよ」
「明日の朝、布団こっち運ぶから」
「そうしろ」
葉月は、隣の部屋の電気をつけなかった。ドアをそっと閉めて、鍵を自分のポケットに仕舞った。チャリ、と硬い音がした。
部屋に戻ると、葉月はキッチンの冷蔵庫を開けた。中には昨夜の残りの豆腐と、俺がこの三日間で初めて補充した食材が、きちんと段に分かれて収まっている。葉月は、明日の朝に使うらしい何かをひとつ取り出して、まな板の上に置いた。
ソファに戻ろうとしたら、玄関の方で、小さな音がした。振り返ると、葉月が玄関の施錠を確かめていた。鍵の回る音。一度、カチリ。それから、もう一度。そしてもう一度。
三回、同じ動作だった。
手順が、体に染みついている動きだった。確認していると言うより、儀式に近い。葉月は、自分がそれをしている自覚があるのかないのか、こちらに背を向けたまま、何事もなかったようにキッチンに戻ってきた。マグカップを二つ、丁寧に洗い始める。水音に混ざって、外から、救急車のサイレンが遠く尾を引いて通り過ぎていった。
その背中を見ながら、俺はテーブルの上に残されたままの、古い方の鍵を、指先で少し引き寄せた。
金属はまだ、葉月の体温をほんの少しだけ、残していた。