第2話
第2話
ポケットの中で、名刺の角が指の腹に軽く刺さった。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は思ったより白くて、頬骨のあたりに青い影が落ちている。扉が開くと、オフィスのフロアには始業前の早い時間でもすでに半分以上の席が埋まっていて、プリンターの吐き出す紙の音と、誰かが淹れているインスタントコーヒーの匂いが混ざっていた。いつもの朝だった。いつもの朝のはずだった。
自席に着いた瞬間、コートをハンガーにかける動きの中で、ポケットの名刺を引き出しの奥へ滑らせた。ファイリングするでもなく、捨てるでもなく、ただ視界から外した。見えていると、倒れかけた自分の体温と、あの男の乾いた手のひらの感触が指先に戻ってきそうで、落ち着かなかった。引き出しの取っ手を押し込んだとき、かちり、と小さな金属音が鳴って、それが妙に耳に残った。
「佐倉さん、修正どう」
先輩の有村さんが通りすがりに声をかけてくる。反射的に「あと一時間で」と答えた。声が少し掠れた。有村さんは気づかないふりでそのまま給湯室の方へ向かってくれて、その気遣いの温度が、今朝はじめて沁みた気がした。有村さんのカーディガンの裾が揺れる音を、私はなぜかしばらく目で追っていた。
キーボードに指を置く。いつもの速度で走り出した指が、ふいに止まった。画面の白さに目の奥が痛んで、瞼の裏がじんわり熱い。昨夜のおにぎり、缶コーヒー、朝の電車、ネイビーのスーツ、名刺の凹凸——それらが順番もなく流れて、最後にあの低い声だけが耳の奥に居座った。
病院に行け。
——そう、それだけだった。
午前の会議で上司の指摘をメモに落とし、ランチは外に出ずコンビニのサラダで済ませ、午後は外注先へのメール返信を三十通ほど片付けた。いつもどおりだった。いつもどおりのはずだった。
けれど十五時を回った頃、校正紙のページをめくる指が、またポケットを探すように勝手に動いた。私は小さく舌打ちをした。朝、引き出しに移したことを、体が忘れている。
引き出しを開けて、名刺を取り出す。
篠宮グループホールディングス 経営企画室 篠宮蓮。
名前を指でなぞりながら、手元のブラウザに社名を打ち込んでしまった。一番上にヒットしたのは同社のコーポレートサイトで、クリックすると高層ビルの写真が画面いっぱいに広がった。不動産、ホテル、都市開発、ヘルスケア。関連会社を三十社以上抱える準大手。「経営企画室」がどの程度の地位なのかは分からないが、篠宮という姓でその会社に勤めているということは、そういうことなのだろう。IR情報のページには四半期決算の数字が並び、売上の桁を二度数え直した。自分の年収が何年分でその一行に届くのかを計算しかけて、途中でやめた。計算した先に、何一つ良いものがないことだけは分かっていた。
馬鹿らしい、と思った。
馬鹿らしいと思ったのに、次の瞬間には「篠宮蓮」で画像検索をかけていた。数枚、本人らしき写真が出てくる。経済誌のインタビュー記事。見出しは「次世代の都市開発を担う三十二歳」。スーツの前を開いて立っているその写真の彼は、今朝の男と同じく、こちらを見ているようで見ていない目をしていた。カメラのレンズすら素通りしているような、奇妙に遠い視線だった。写真の下には短い略歴が並んでいて、海外の大学名と、私の知らない横文字の肩書きが三つほど連なっていた。
記事を閉じた。
胃の底に、泥のようなものが溜まっていた。名刺を引き出しに戻そうとした手が、なぜか途中で止まる。
あの男は、倒れかけた私に名刺を渡して、名前も聞かず、連絡先も求めず、「病院に行け」とだけ言って去った。あれは親切ではなかった。かといって、不親切とも少し違う。通りすがりの落とし物を拾い上げて、定位置に戻すような、事務的な手つきだった。
私という人間が、どれだけ限界に近いかなんて、あの人には何の関係もない。
その事実が、思っていた以上に腹の底に来た。
——見知らぬ他人に心配される筋合いなんて、本当はないはずなのに。
デスクに頬杖をついて、天井の蛍光灯を睨んだ。久しぶりに覚えた種類の熱だった。高瀬のことでも、上司のことでも、なかなか湧いてこなかったものが、名刺一枚の相手に向かってじわじわ染み出してくる。自分でも不思議だった。怒りと呼ぶには輪郭が柔らかく、悔しさと呼ぶには行き場がない。名前をつけられない熱は、名前をつけられないまま鎖骨の下で渦を巻いていた。
定時はとっくに過ぎて、オフィスに残っているのはまた私と、向こうの島の有村さんだけだった。
デスクの端でスマートフォンが震える。
通知欄に表示された名前を見て、指が動かなくなった。
《高瀬翔太》
一瞬、昨夜のSNSの婚約報告の件で何か言われるのかと思った。嫌味か、報告漏れの詫びか。でもそれにしては時間が遅すぎる。恐る恐るトークを開く。
《久しぶり。元気にしてる?》 《突然でごめん。ちょっと相談したいことがあって。一度会えないかな》
短いメッセージが二通。別れてから一年半、一度も連絡を寄越さなかった男の、最初の一文がそれだった。
心臓が鈍く跳ねた。いや、跳ねたというより、一度握り潰されてから緩慢に戻ってきたような痛みだった。指先が冷たくなって、画面が手の中で小さく震える。文字の並びを二度読み、三度読みしても、言葉の配列は変わらないのに、読むたびに重さだけが増していくのが分かった。
相談。
婚約の報告か。結婚式に呼びたいという申し出か。——まさか。そんな残酷なことをする男だっただろうか。三年間付き合った相手のことを、私は本当に分かっていたのだろうか。週末に二人で行ったカフェの席順まで覚えているのに、彼がどういうときに他人を傷つけられる人間なのかは、とうとう最後まで見えなかった気がした。
返信を打とうとして、打てなかった。なんと返すのが正解なのか分からない。「おめでとう」だけ先に送るべきか、「相談って何?」と切り返すべきか、既読だけつけて放置するべきか。どれを選んでも、自分の何かが削られる気がした。
席を立った。給湯室に向かう足が、自分のものじゃないみたいだった。蛍光灯の下で湯呑みに白湯を注ぐ。湯気がゆっくり立ちのぼって、頬にかかった。ようやく指先に感覚が戻ってきた。給湯ポットのランプが赤く点滅していて、その光が湯呑みの縁に映り込むのを、私はしばらく見つめていた。
引き出しの中の名刺のことを、ふいに思い出した。
——病院に行け。
あの素っ気なさが、今はむしろありがたい気がした。他人だからこその距離。期待も、含みも、過去もない距離。高瀬のメッセージは一行目から湿っていて、その湿度に自分が溺れそうだった。湿った声で労られるくらいなら、乾いた一言で突き放されるほうが、今の自分の呼吸には合っていた。
湯呑みを両手で包んだまま、自席に戻る。
スマートフォンを手に取り、短く息を吸った。返信欄に指を置いて、なるべく感情を乗せないように打つ。
《久しぶり。大丈夫だよ。相談って何?》
送信ボタンを押した瞬間、胃の底がきゅっと締まった。どれだけ取り繕っても、打ったのは「大丈夫だよ」だった。まだ何も聞いていないのに、先回りして自分を安全圏に置いた。それが一番惨めな振る舞いだと、送った後で気づいた。
すぐに既読がついた。高瀬は待っていたのだ。待っていて、私が返すと踏んでいた。
《ありがとう。今度の金曜、仕事の後で時間もらえないかな。大事な話》
金曜。三日後。
頷く返事を打ちながら、奥歯を噛み締めた。なぜ断れないのか、自分でもよく分からなかった。ただ、断る前に話を聞くべきだと体のどこかが言っていた。聞かないままでは、この先ずっと、聞かなかったことを後悔する気がした。
スマートフォンを伏せて、引き出しを開ける。
名刺はそこにあった。エンボスの凹凸が、昼間よりも冷たく感じた。指先でロゴをなぞると、今朝ホームで触れた男の指の温度が、場違いなほどはっきり蘇った。
金曜の夜、高瀬は私に何を言うつもりなのだろう。
そしてどうして今、私の手の中には、まったく関係のないはずの篠宮蓮の名前があるのだろう。
コートを掴んで、オフィスを出た。エレベーターの鏡に映った自分は、朝よりもほんの少しだけ、表情を取り戻していた。