第1話
第1話
蛍光灯の下で食べるコンビニのおにぎりは、いつからか味がしなくなっていた。
デスクの上には付箋だらけの校正紙と、飲みかけのカフェオレが三本。どれが今日開けたものか、もう分からない。一番手前のパックに口をつけると、ぬるくて微かに酸っぱい気がした。時計を見ると午前一時を回っている。終電はとっくに行ってしまった。隣の席も、そのまた隣も、とうに暗い。フロアに残っているのは私と、サーバールームの低い唸り声だけだった。空調が切れたあとのオフィスは妙に寒くて、ブランケット代わりにカーディガンを膝にかけている。それでも足首のあたりが冷えて、感覚が薄い。
佐倉奈緒、二十八歳。大手広告代理店の下請けプロダクション勤務。月の残業時間が百二十時間を超えた頃から、曜日の感覚がなくなった。今日が水曜なのか木曜なのか、正直よく分からない。分かるのは、明日も朝九時にはこの席にいなければならないということだけだ。
おにぎりの残りを口に押し込んで、なんとなくスマートフォンを開いた。仕事用のチャットは見たくない。指が勝手にSNSのアイコンをタップする。流れてくるタイムラインは深夜でも明るくて、誰かの旅行写真や、誰かの手料理や、誰かの——
指が止まった。
高瀬翔太が婚約を報告しています。
写真には、見覚えのある横顔と、知らない女性の笑顔が並んでいた。高瀬の目尻が下がっていて、私と付き合っていた三年間では見たことのない表情をしていた。コメント欄には「おめでとう」が連なっている。百三十件。共通の友人の名前がいくつも見えた。大学時代のゼミ仲間、高瀬の同僚、私も何度か一緒に飲んだことのある人たち。誰もが知っていたのだ。私だけが知らなかった——いや、知る理由がもうなかった。別れて一年半も経つのだから。
画面を見つめたまま、三十秒くらい経った気がする。涙は出なかった。悔しいとか、悲しいとか、そういう感情がどこに分類されるのか分からなかった。ただ胸の奥に、冷たい水を一気に流し込んだような重さだけがあった。
——ああ、私だけが止まっている。
みんな進んでいる。結婚して、転職して、子どもができて。私だけがこの蛍光灯の下で、味のしないおにぎりを食べて、終電を逃して、誰のためかも分からない校正紙を直している。
スマートフォンの画面を伏せた。表を向けたままだと、あの写真が目に入りそうで怖かった。
始発までの四時間を、私はデスクに突っ伏して過ごした。眠れたのか眠れなかったのか分からない。浅い闇の中で何度か意識が浮き沈みして、そのたびに蛍光灯の白い光が瞼の裏を刺した。夢を見た気もする。何の夢かは思い出せないけれど、目が覚めたとき喉が詰まるような息苦しさがあった。首の後ろが固まっていて、起き上がるときに小さく呻いた。窓の外は薄い朝焼けで、昨日と同じ色をしていた。
コンビニで缶コーヒーを買い、駅に向かう。頭がぼんやりしている。昨夜から固形物はおにぎり一個しか入れていない。いつものことだ、と思った。いつものことだから大丈夫、と。街路樹の若葉が朝日を弾いていたけれど、目に映っているだけで、きれいだとは思わなかった。感情のスイッチがどこかで切れている。歩道を行き交う人たちはみんな前を向いていて、私だけが地面を見ている気がした。
改札を抜けて、ホームに降りる。朝六時の電車はそこそこ混んでいた。つり革を掴んで、目を閉じる。こめかみの奥で鈍い痛みが脈を打っている。缶コーヒーの苦味だけが口の中に残って、それすら遠い。
電車が揺れた。
視界の端が暗くなった。ゆっくりと幕が降りてくるみたいに、音が遠ざかる。車内アナウンスの声が水の底に沈んでいくように歪んで、指先の感覚が消えた。あ、と思ったときにはもう手が動かなかった。つり革から指が滑り落ちて、体が傾いて——
肩に、硬い感触がぶつかった。
いや。私が誰かの肩にぶつかったのだ。
「……大丈夫ですか」
声が聞こえた。低くて、平坦で、感情の読めない声だった。目を開けると、仕立ての良いネイビーのスーツが視界いっぱいに広がっていた。生地の匂いがかすかにする。柔軟剤ともコロンとも違う、クリーニング屋の仕上げのような清潔な匂いだった。
「す、すみません——」
慌てて体を起こそうとしたが、足に力が入らない。膝がふらついて、また傾きかける。周囲の視線が刺さるのが分かった。通勤客たちの迷惑そうな気配。でも誰も手を貸そうとはしない。相手の手が咄嗟に私の腕を掴んだ。大きくて、乾いた、迷いのない手だった。
「座れ。次で降りる」
断定的な口調だった。こちらの返事を待たずに、男は私を半ば支えるようにしてドアの方へ誘導した。抵抗する余力はなかった。電車が減速して、ドアが開く。ホームに出た瞬間、朝の冷たい空気が頬を叩いて、少しだけ意識が鮮明になった。
ベンチに座らされた。男は隣には座らず、少し離れた位置に立っている。まるで適切な距離を測っているみたいに、近すぎず、けれど倒れたらすぐ手が届く位置だった。ようやく顔を見上げると、整った顔立ちの男だった。三十歳前後。切れ長の目は、怒っているようにも退屈しているようにも見える。朝日がホームの屋根の隙間から差し込んで、男の輪郭に白い線を引いていた。ネクタイの結び目が完璧で、この朝の時間帯にこの身なりは異質だった。
「顔色が悪い。最後にまともに食べたのはいつだ」
「……昨日の、夜に、おにぎりを」
言いながら、なぜ見知らぬ人間にこんなことを正直に答えているのか分からなかった。頭が回っていないのだ。男は小さく息を吐いた。呆れたのか、別のことを考えているのか、判断がつかない。その横顔には苛立ちとも心配ともつかない、読み取れない何かがあった。
「病院に行け」
それだけ言って、男は胸ポケットから名刺を一枚取り出した。私の膝の上に置く。指先が一瞬だけ私の膝に触れて、その体温の高さに驚いた。自分の手がどれだけ冷えているかを、他人の温度で思い知った。
「倒れた先が俺でよかったな。痴漢に間違えられる男もいる」
冗談なのか本気なのか分からない口調だった。私が何か言う前に、男は踵を返してホームの反対側へ歩いていった。次の電車を待つのだろう。背中はまっすぐで、振り返る気配はなかった。革靴の底がホームのタイルを叩く音が、朝の静けさの中でやけにはっきり響いた。
膝の上の名刺を見下ろす。
篠宮グループホールディングス 経営企画室 篠宮蓮
文字が目に入っても、頭が情報を処理できなかった。篠宮グループ。聞いたことはある。不動産とホテルの——詳しくは分からない。ただ、この名刺の厚みと、エンボスの入ったロゴが、あの男の身なりと不思議なくらい釣り合っていた。名刺の表面を親指でなぞると、ロゴの凹凸がかすかに指に伝わった。ずっしりとした紙の質感。うちの会社の名刺とは、何もかもが違った。
ベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。こめかみの痛みは少し引いたが、体の奥にある疲労は何も変わっていない。ホームを行き交う人たちの足音が、波のように寄せては返す。私はその流れの外側にいて、ベンチだけが陸地だった。
スマートフォンが鳴った。会社からのチャット通知だ。
《佐倉さん、朝イチのクライアント確認、資料の修正もう終わってますか?》
終わっていない。まだ手をつけてもいない。指が震えそうになるのを堪えて、返信を打つ。
《今向かっています。九時までに仕上げます》
送信ボタンを押した瞬間、また胃の底が重くなった。九時まであと三時間。資料の修正は二時間はかかる。できる。できるはずだ。いつもそうやってきた。できないと思った量を、体に鞭を打って終わらせてきた。それが自分の価値だと、いつからか信じ込んでいた。
立ち上がる。名刺をコートのポケットにしまった。深く考える余裕はない。あの男のことも、高瀬の婚約のことも、自分がホームで倒れかけたことも——全部、あとで考える。あとで。いつかの「あとで」は結局やってこないと知りながら、私はまた満員電車に乗り込んだ。
改札を出て、オフィスに向かう坂道を上る。四月の朝の風はまだ冷たい。コートのポケットの中で、あの名刺の角が指先に触れた。
その名前と、もう一度向き合うことになるのは三日後のことだ。そしてそれが、私のどうしようもなく停滞した日常を——文字通り、根こそぎ変えることになる。
まだ、何も知らなかった。