第3話
第3話「一日を乗り切る装置」
次の日も、その次の日も、僕は放課後になると旧校舎に行った。
決めたわけじゃない。足が勝手に向かっただけだ。教室での八時間を耐えた後、正門とは反対方向に曲がる。それだけのことが、一日を乗り切るための装置になっていた。部室では段ボールの整理や床掃除、コードの仕分けといった雑用を黙々とこなした。凛は僕に何も訊かなかったし、園田は適当に話しかけてきたし、ミコトは相変わらず画面から目を離さなかった。僕はそこにいるだけの人間で、それが心地よかった。
四月十四日、月曜日の朝。下駄箱を開けた瞬間、臭いが来た。
油性マジックの、鼻の奥を刺すような溶剤の臭い。上履きの白いゴムの部分に、黒のマジックで何か書かれている。読むより先に、周囲の空気で中身がわかった。背後で誰かが息を殺して笑っている気配。視界の端に、スマホを構えた手が見えた。撮られている。この反応を、僕がどんな顔をするかを、誰かが記録しようとしている。
僕は上履きを掴んで、そのまま足を突っ込んだ。
文字を読まなかった。読まなければ、書かれていないのと同じだ。そう自分に言い聞かせて、廊下を歩いた。足の裏でマジックのインクを踏んでいる感触が、靴下越しにじわりと伝わってくる。それが何の言葉の上を歩いているのか、想像しないようにした。
一時間目が始まる前、後ろの席の男子が消しゴムのカスを僕の椅子の背もたれに擦りつけているのが見えた。見えたけれど、振り向かなかった。振り向いたら何かが始まる。始まったら、無視という僕の唯一の防壁が崩れる。二時間目の英語で、僕の教科書のページが三枚ほど破られていることに気づいた。いつやられたのかわからない。昨日かもしれないし、先週かもしれない。ページの断面がきれいだったから、カッターで切られたのだと思う。丁寧な悪意だった。
昼休み、図書室の定位置で膝を抱えながら考えていた。
窓から差し込む四月の陽が、埃の粒子を白く浮かび上がらせている。本棚の間の、誰も来ない行き止まりの席。背中をコンクリートの壁に預けると、冷たさが制服越しに伝わってきて、少しだけ頭がクリアになる。
上履きは洗えば落ちるかもしれない。教科書は隣のクラスの誰かに見せてもらえばいい。対処はできる。でも、対処し続けることに僕の体がいつまで持つのか、それがわからなかった。毎朝下駄箱を開けるたびに胃がきゅっと縮む。教室の扉を引くたびに息が浅くなる。このまま六月まで——あと二ヶ月半、この綱渡りを続けるのか。
放課後、旧校舎の二〇三号室。
凛はいつものようにデスクで台本を読んでいた。園田は壁際でヘッドフォンをして何かの音源を聴いている。ミコトはパソコンに向かっている。僕は入り口に立ったまま、鞄の中から一枚の紙を取り出した。
入部届。今朝、職員室の前の棚から持ってきたものだ。名前と学年はもう書いてある。シャーペンの筆圧が強すぎて、紙の裏側にまで凹みが残っていた。
「これ」
凛の前に紙を置いた。凛は台本から目を上げて、入部届を一瞥した。三秒くらい無言の時間があった。園田がヘッドフォンをずらして、ミコトも珍しくこちらを見ている。
「動機は」
凛が訊いた。
「……居場所がほしいから」
正直に言った。格好をつける余裕がなかった。映像制作に興味がある、とか、作品を観て感動した、とか、そういう嘘をつけるほど僕は器用じゃない。この部室が、教室以外で唯一息ができる場所だから。それだけが理由だった。
凛は僕の目を見たまま、入部届を手に取った。
「つまり、逃げ場がほしいだけ」
否定できなかった。凛の言葉は、僕が自分で認めたくなかったものを正確に剥き出しにしていた。映像制作に貢献したいわけでも、この部活の理念に共感したわけでもない。ただ、ここにいたい。ここにいさせてほしい。その打算だけで入部届を書いた。
園田が口を開きかけたのを、凛が手で制した。
「動機なんて何でもいい」
凛はそう言って、入部届を台本の下に挟んだ。
「明日、顧問のハンコもらってくる。あんたの仕事は今まで通り。雑用」
「……いいんですか」
「四人目が必要だって言ったのはあたし。来たいなら来ればいい。ただし——」
凛が立ち上がった。僕より少し背が低い。なのに見下ろされているような錯覚がした。
「この部屋を避難所にするのは構わない。でもそれだけで終わるつもりなら、夏までに追い出す」
意味を噛み砕く前に、凛はもう台本に戻っていた。園田が小さく口笛を吹いて、「凛節だなぁ」と呟いた。ミコトは何も言わずに画面に向き直ったけれど、タイピングの音が少しだけ速くなった気がした。
僕はパイプ椅子に座って、自分の手を見た。シャーペンの跡がまだ指に残っている。逃げ場を確保した。それだけのことなのに、呼吸が少し楽になっていた。入部届を出した瞬間、糸がほんの少し緩んだ感覚。肩の力を抜くのがこんなに難しいことだと、半月前の僕は知らなかった。
園田が缶コーヒーを差し出してくれた。受け取って、冷たいアルミの感触を確かめるように両手で包んだ。プルタブを引くと、微かに甘い香りが立ち上った。一口含むと、砂糖の甘さが舌の上に広がって、それから喉の奥にじんわりと落ちていく。
「ま、よろしく。四人目」
「……よろしくお願いします」
「敬語いらないって。俺も二年だし」
園田が笑って、ヘッドフォンを耳に戻した。ミコトは変わらずキーボードを叩いている。凛は台本に赤ペンを入れている。誰も僕の入部を祝わなかったし、歓迎会の話も出なかった。ただ、四人になった部室は三人の時より少しだけ狭くて、その窮屈さが嫌じゃなかった。
五時半を過ぎた頃、校内放送のチャイムが鳴った。
放課後の放送は珍しい。全員の手が止まった。スピーカーから流れてきたのは、聞き覚えのある事務的な女性教員の声だった。
『——本日の職員会議にて、今年度の文化祭実行委員長が正式に承認されましたのでお知らせします。実行委員長は二年三組、加賀見翔くんです。各クラスの実行委員は——』
残りの言葉は聞こえなかった。
加賀見、翔。
その名前が鼓膜に届いた瞬間、背筋を冷たいものが走った。手の中の缶コーヒーが、急に重くなった気がした。春休みの夜、スマホの画面を埋め尽くしたスクリーンショットの連鎖。あの流れを作った人間。最初に僕のアカウントを特定して、最初にスクショを撮って、最初に学年LINEに貼った人間。直接手を下したのか裏で糸を引いたのかは、今でもわからない。でも全部の起点にいたのが加賀見だということは、断片的な情報を繋ぎ合わせれば明らかだった。
誰にも言っていない。言ったところで変わらない。加賀見は成績優秀で、人望があって、教師からの信頼も厚い。僕が何を訴えたところで、「証拠は?」と返されて終わる。そもそも僕の裏アカの投稿自体は、誰かを名指しで攻撃したものじゃない。でも「学校の愚痴を裏で書いていた陰キャ」というレッテルは、中身の如何に関わらず罪状として十分だった。
加賀見翔が、文化祭実行委員長。
学校行事の全権を握る立場。教室の配分、予算の配分、ステージ枠の割り振り。その全てに加賀見の意思が反映される。旧校舎のこの部室が、あの人間の管轄下に入る。
「……柊?」
園田の声で我に返った。缶コーヒーを握る手に力が入りすぎて、アルミが少し凹んでいた。
「大丈夫か、顔色悪いぞ」
「……大丈夫」
大丈夫じゃなかった。でもここで崩れるわけにはいかない。入部届を出して十分と経っていない。この場所を守りたいと思ったばかりなのに、その場所を脅かす存在が、もう輪郭をくっきりさせ始めている。
凛は放送の間、赤ペンを止めていた。台本の上に視線を落としたまま、何かを考えている顔だった。加賀見の名前に反応したのか、それとも実行委員長という肩書きの意味を計算しているのか、僕にはわからなかった。
ミコトだけがいつも通りキーボードを叩いていた。放送なんて聞こえていなかったのかもしれない。
部室の窓の外が暗くなり始めていた。四月の日は少しずつ長くなっているはずなのに、今日はやけに早く暮れた気がした。パイプ椅子の冷たさが、太腿の裏からじわじわと染みてくる。
逃げ場を手に入れた、その同じ日に。
僕を壊した人間が、この場所ごと潰せる権力を手にした。