第2話
第2話「見たからには、手伝え」
「見たからには、手伝え」
その言葉の意味を理解する前に、彼女はもう次の行動に移っていた。台本の紙束を片手で持ったまま、空いた手で部屋の隅を指さす。
「そこの段ボール、三つ。廊下に出して」
命令だった。疑問形ですらない。僕はまだ引き戸に手をかけたまま、口を開いた。
「あの——」
「重くない。中身は旧書道部の半紙」
違う、そうじゃない。僕が言いたかったのは、ここはどこで、あなたたちは誰で、なぜ使われていないはずの教室にいるのかということだった。でもそのどれも言葉にならなかった。彼女の声には、僕の疑問を丸ごと飛ばして結論だけを突きつけるような圧があった。
壁際の男が、首にかけたヘッドフォンを片手で押さえながら立ち上がった。背が高い。百八十はあるだろう。でも動作は猫みたいに緩くて、エナジードリンクの空き缶を器用に足で避けた。
「凛さぁ、初対面の人間にいきなり段ボールはかわいそうでしょ」
「うるさい、園田。あんたは外の窓拭き」
「えぇ……」
園田と呼ばれた男が、大げさに肩を落とした。凛、と呼ばれた彼女は——氷室凛は、と後から知ることになる——僕の方を見もせずに紙束のページをめくっている。さっき一瞬だけ交わした視線が嘘みたいに、もう興味を失ったような横顔だった。
窓際のパソコンの子が、ようやく顔を上げた。ヘッドフォンの片耳を外して、小さく首を傾げる。画面の明かりに照らされた顔は中性的で、一年生か二年生か判断がつかなかった。
「……誰?」
「知らない。でも来たから使う」
凛がそれだけ言うと、パソコンの子は「ふうん」と呟いて画面に戻った。その名前がミコトだと知るのも、もう少し後のことだ。
気がつくと、僕は段ボールを持ち上げていた。
考えるより先に体が動いたのは、たぶん、この部屋の空気が教室と決定的に違っていたからだ。ここには僕を笑う視線がなかった。哀れむ目もなかった。ただ「人手が足りない」という単純な事実があって、僕はたまたま目の前にいた人間として扱われた。それだけのことが、四月七日の僕にはひどく珍しかった。
段ボールを三つ廊下に出して、戻ってくると、園田が窓拭きの代わりにコードの束を解いていた。サボっている。凛も何も言わない。この部屋には独自のルールがあるらしい、と薄っすら感じた。
二つ目の段ボールを運んでいる途中で、園田が声をかけてきた。
「名前は?」
「……柊。柊真白」
「ひいらぎ、ましろ。いい名前じゃん。俺は園田。園田響」
いい名前、と言われたのは久しぶりだった。たいていは「変わった名前だね」と言われるか、最近なら名前の後に薄い笑いがつく。園田の言い方にはどちらもなくて、ただの感想だった。
「あっちのちっちゃいのがミコト。本名は知らない。凛さんは——見ての通り」
「見ての通りって何」
凛の声が飛んできて、園田は首をすくめた。
「褒めてる褒めてる」
段ボールを全部出し終えると、凛は「そこ座って」と空いたパイプ椅子を顎で示した。座ると、目線の高さが変わって部屋の全体が見えた。壁にはコルクボードが掛かっていて、付箋やプリントがびっしり貼られている。映像のカット割りらしき手描きの絵コンテ。「〆切」と赤字で書かれたカレンダー。古い賞状が一枚だけ、端が丸まった状態でピンに刺さっていた。
「ここ、何の部活なんですか」
訊くと、園田とミコトの動きが一瞬止まった。凛だけが紙束から目を離さずに答えた。
「総合文化研究部」
「そうごう——」
「映像を撮って、音をつけて、脚本を書く。要するに、何でもやる部活」
凛はそこで初めて紙束をデスクに置いた。古い木の天板に紙が当たる、ぱさ、という小さな音。
「部員は三人。あたしと、園田と、ミコト。顧問は名前だけの森川先生。活動実績は去年の文化祭で流したショートフィルム一本。観た人間は教室の外を通りかかった十人くらい」
「十三人」とミコトが画面を見たまま訂正した。
「十三人。で、現状、この部は廃部申請の対象になってる」
凛の声に感情の起伏はなかった。事実を読み上げているだけの声。でもその平坦さがかえって事態の深刻さを浮き彫りにしていた。
園田が床に座り直して、長い脚を組んだ。
「規定だと、部活の継続には最低四人の部員が要る。俺ら三人だから足りてない。去年は見逃してもらってたけど、今年の生徒会が厳格化してさ」
「廃部届の提出期限は六月末。文化祭の直前」
凛がそう言って、僕を見た。
今度は目が合っても逸らさなかった。濃い茶色の瞳に、さっきの無関心はなかった。かといって懇願でもない。計算だ、と思った。僕を見定めている目。ここに来た人間が使えるかどうかを、この数分間のやり取りで測っていた目。
「誤解するな。入部しろとは言ってない。今日は段ボール運んだだけ。帰りたきゃ帰れ」
「……」
「ただ、明日も暇なら来ればいい。やることはある」
突き放しているようで、扉は開けたままにしている。凛のやり方は最初からそうだった。命令するくせに、最後の選択だけは相手に渡す。断る余地を残すことで、来た人間の自発性を担保している——なんて分析は、後から振り返ったから言えることだ。あの瞬間の僕はそんなこと考える余裕なんてなかった。
ミコトがキーボードを叩く手を止めて、画面をくるりとこちらに向けた。タイムライン上に並んだ映像のカット。暗い廊下、雨に濡れた窓、誰かの手のクローズアップ。断片的な映像がつなぎ合わされて、一つの感情を形作ろうとしている途中だった。
「……これ、作ってるんですか」
「作ってる」
ミコトの声は小さくて、でもはっきりしていた。「これ」が何であるかを正確に問い返すのではなく、ただ肯定だけを返す。作っている。それだけが事実で、それだけで十分だという声だった。
園田がヘッドフォンを僕に差し出した。
「聴いてみ。今つけてる仮の劇伴」
受け取ったヘッドフォンを耳に当てると、低いピアノの音が流れてきた。単純な和音の繰り返しなのに、どこかざらついている。磨きすぎていない、生っぽい音。映像のカットと合わせると、暗い廊下が本当に暗い場所ではなくて、暗さの中にある微かな光を探している場所に見えた。
僕はヘッドフォンを外して、園田に返した。
「……すごい、と思います」
「だろ?」
園田が笑った。嫌味のない笑顔だった。
凛はもう紙束に視線を戻していた。部屋の中では三人がそれぞれの作業に戻り始めて、僕はパイプ椅子に座ったまま、この部屋の温度に少しずつ馴染んでいく自分を感じていた。教室では息を止めていた肺が、ここでは普通に動いている。それがどれだけ異常なことか、たぶんこの三人にはわからないだろう。わからなくていい。わかられたくなかった。
時計を見ると、もう六時を過ぎていた。
「帰ります」
立ち上がると、凛が紙束から顔を上げずに言った。
「鍵、閉めないから。明日も開いてる」
それは「また来い」とも「来なくていい」とも取れる言い方だった。たぶん、凛は意図的にどちらにも取れるように言っている。
僕は部室を出て、薄暗い廊下を歩いた。西日はもう消えていて、窓の外は紺色に沈み始めている。階段を下りながら、さっき聴いたピアノの低音がまだ耳の奥に残っていた。
旧校舎の入口を出ると、四月の冷たい空気が頬に当たった。グラウンドの向こうに見える本校舎は、もうほとんどの教室が暗い。あの建物の中で、明日もまた僕は透明人間をやる。視線を受け流して、声を殺して、一日をやり過ごす。
でも放課後には——。
いや、まだわからない。明日本当にあの部室に行くかどうか、僕自身まだ決めていなかった。凛の「手伝え」は命令だったけれど、僕を縛る力はない。行かなければ、それで終わる話だ。
正門の方に歩きながら、ポケットの中でスマホに触れた。画面は点けなかった。点ける必要がなかった。
あと一人いなければ、あの部活は消える。凛はそう言った。あと一人。頭の中で、その言葉がぐるぐると回っている。
僕には関係ない。関係ないはずだ。
——六月末。廃部届の期限。文化祭の、直前。
帰り道、桜の花びらが風に巻かれてアスファルトの上を転がっていた。踏まないように歩いて、そんな自分が少しだけおかしかった。踏んだところで何も変わらないのに。
家に着くまで、あの部屋の暖色の光が目の裏にちらついて消えなかった。