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透明人間の放課後

第1話 第1話「僕だけを避ける空気」

第1話

第1話「僕だけを避ける空気」

四月七日、始業式の朝。教室に入った瞬間、空気が変わったのがわかった。

 変わった、というのは正確じゃない。空気が僕だけを避けたのだ。

 三十二人の視線が一斉にこちらを向いて、それからすぐに逸らされる。逸らされた先で、小さな笑い声がいくつも生まれた。くすくす、ではない。もっと乾いた、喉の奥で潰すような笑い方。面白いから笑っているのではなくて、笑うことで仲間であることを確認し合っている音だった。僕は——柊真白は、それを全部聞こえないふりをして、最後列の窓際の席に座った。

 机の上は綺麗だった。落書きも、画鋲も、今のところはない。ただ、隣の席との間が不自然に広い。誰かが椅子ごと数センチずらしたのだろう。たった数センチ。でもそれだけで、僕はもう教室の中の異物だった。椅子を引くときにわざと音を立てないように気をつけている自分がいて、その卑屈さに胃が重くなった。

 春休みの間に、全部壊れた。

 裏アカ——僕がこっそり運営していたSNSのサブアカウント。フォロワーは五十人もいなかった。学校の愚痴を書いていたわけじゃない。好きな映画の感想とか、街で見つけた変な看板の写真とか、そういうどうでもいいことを投稿していただけだ。ただ、たまに教室で感じた息苦しさを、誰にも向けない言葉にして流していた。窓の外を撮った写真に「今日も透明人間だった」と添えるような、そんな程度のことだ。読んでいるのは顔も知らないフォロワーだけで、そこだけが教室の空気と切り離された安全な場所だった。

 それが特定された。

 きっかけは、僕が撮った写真に映り込んだ上履きの名前だった、と後から聞いた。後から聞いた、というのは、僕自身が知ったのは全部終わった後だったからだ。春休みの最終日、スマホを開いたら通知が百件以上溜まっていて、学年LINEに僕の投稿のスクリーンショットがずらりと貼られていた。

 『陰キャが裏で調子乗ってて草』

 『こいつ自分のこと面白いと思ってんだ』

 『キモすぎて逆にウケる』

 文字を読むたびに、指先から体温が抜けていくような感覚がした。スマホの画面が揺れているのは、手が震えていたからだ。三月三十一日の深夜、ベッドの中でそれを見てから朝まで一睡もできなかった。天井の模様を数えて、何度も数え直して、それでも朝は来た。

 誰がスクショを撮って、誰が最初に共有したのか。それはもう問題じゃなかった。四月七日の朝には、僕の存在そのものが笑いのネタとして完成していた。

 一時間目の現代文。教科書を開く音に紛れて、後ろから丸めた紙が飛んできた。僕の右肩に当たって、床に転がった。小さな紙の球が、リノリウムの上を半回転して止まるのを、視界の端で追ってしまった。拾わなかった。拾ったら負けだと思ったし、中に何が書いてあるかを知るのが怖かった。先生は黒板に向かったまま、何も気づいていない。あるいは、気づいていて気づかないふりをしていたのかもしれない。どちらにしても同じことだった。

 二時間目の数学。隣の列の女子が、スマホの画面をちらちらこちらに向けていた。画面は見えなかったけれど、その子の唇が「まだあるよ」と動いたのは読み取れた。僕のアカウントは削除したはずだった。でもスクリーンショットは消えない。インターネットに流れた言葉は、本人が消しても誰かのフォルダの中で生き続ける。黒板に並ぶ二次関数のグラフが、まるで意味のない線の集まりに見えた。ノートに数式を写す手だけが、かろうじて「普通の生徒」を演じていた。

 昼休みのチャイムが鳴った瞬間、僕は教室を出た。

 購買には行けない。人が多すぎる。食堂はもっとだめだ。屋上は施錠されている。消去法で残ったのは、図書室の一番奥、百科事典が並ぶ棚の死角だった。誰も来ない。埃っぽい空気の中で、コンビニで買ったおにぎりを一つだけ食べた。海苔の匂いが、やけに濃く鼻についた。米粒を咀嚼する音が自分の頭蓋骨に響いて、それ以外の音が何もない静けさが、教室の喧騒よりもかえって僕の輪郭をくっきり浮かび上がらせた。ここにいるのは、ひとりぼっちの柊真白だけだ。その事実が、静寂の中では嫌というほど鮮明だった。

 五時間目、六時間目。椅子に座っているだけで体力が削れていく。誰かに殴られたわけでも、直接罵倒されたわけでもない。ただ、存在を笑われている。それだけのことが、こんなに重い。背中にずっと視線が貼りついている感覚があって、肩甲骨のあたりが痛いほど強張っていた。六時間目の終わり頃には、シャーペンを握る指の関節が白くなっていた。力を入れすぎていることに、チャイムが鳴るまで気づかなかった。

 放課後のチャイムは、一日で唯一の救いだった。

 僕はカバンを掴んで、誰よりも早く教室を出た。正門からは帰らない。裏門へ向かう途中にある旧校舎の裏手が、去年の秋に見つけた逃げ場だった。雑草が伸び放題で、自動販売機の裏側に体育座りで収まるスペースがある。ここなら誰にも見つからない。

 四月の風は、まだ少し冷たかった。制服のブレザーの襟を立てて、膝を抱えた。自販機のコンプレッサーが低く唸っていて、その無機質な振動だけが今の僕には心地よかった。何も考えていない機械の隣にいると、自分も何も感じなくて済むような気がした。スマホは鞄の底に沈めてある。見たくない。通知の数字を見るたびに、胃の奥が縮むような感覚がする。あの数字のひとつひとつに、誰かの悪意か、あるいは悪意ですらない軽い娯楽がぶら下がっていると思うと、画面に触れることすらできなかった。

 帰ろう、と思った。もう誰もいない時間帯のはずだ。

 腰を上げかけた時、聞こえた。

 低い振動のような音。最初はエアコンの室外機かと思った。でも旧校舎のエアコンは三年前に撤去されたはずだ。耳を澄ますと、それは振動じゃなくて、音楽だった。ベースラインのような低音が、壁の向こうからくぐもって届いている。コンクリートを通過して輪郭を失った音は、地面から湧き上がってくるようにも聞こえた。

 使われていないはずの校舎から、音が漏れている。

 好奇心というよりも、反射だった。僕の足は、自分の意思とは関係なく旧校舎の入口に向かっていた。非常口の扉は半開きで、廊下には埃が薄く積もっている。でも、その埃の上に足跡があった。複数の、新しい足跡。蛍光灯のない廊下は薄暗く、窓から差す西日だけがリノリウムの床をオレンジ色に染めていた。自分の足音が、がらんとした廊下に大きく反響する。

 音は二階から聞こえていた。階段を上がるたびに、音の輪郭がはっきりしてくる。ベースだけじゃない。何かを編集しているような電子音と、ぽつぽつと交わされる声。錆びた手すりに触れた指先が冷たくて、自分がいま本当にここにいるのだという実感が、不思議とその冷たさを通じて戻ってきた。

 二〇三、と書かれたプレートの前で立ち止まった。扉の隙間から光が漏れている。白っぽい蛍光灯の光ではない。暖色の、どこか柔らかい明かりだった。

 中で、誰かが何かを作っている。

 今なら引き返せる。覗く必要なんてない。僕には関係ない場所で、関係ない人たちが、関係ないことをしている。それだけのことだ。巻き込まれる理由はひとつもない。

 なのに手が動いた。

 引き戸を、ほんの十センチだけ横にずらした。古い木枠がかすかに軋んで、その音で中の空気がわずかに揺れた。

 埃っぽい部室の中に、三つの人影があった。窓際でノートパソコンに向かっている小柄な一年生らしき子。画面の青白い光がその横顔を照らしていて、ヘッドフォンの片耳だけを外した格好でキーボードを叩いている。壁に寄りかかってヘッドフォンを首にかけた、眠そうな目の男。その男の足元にはエナジードリンクの空き缶が二本転がっていて、長い脚を投げ出したまま天井を見上げている。そして部屋の中央、古いデスクに腰かけて台本らしき紙束をめくっている女子。

 その女子が——こちらを見た。

 目が合った。逃げなきゃ、と思った。でも体が動かなかった。その目に、嘲りがなかったからだ。教室で浴びた視線とはまるで違う、値踏みするでもない、哀れむでもない、ただまっすぐにこちらを見ている目。黒に近い濃い茶色の瞳が、埃の舞う空気越しに僕を捉えていた。

 三秒くらいだったと思う。体感では、もっとずっと長かった。

 彼女は紙束から目を離さないまま——いや、一度こちらを見たあと、自然に視線を紙束に戻して、それからこう言った。

「見たからには、手伝え」

 低くて、平たくて、有無を言わせない声だった。まるで僕がここに来ることを最初から知っていたみたいに。

 壁際の男が片目だけこちらに向けて、小さく口笛を吹いた。パソコンの子は振り向きもしない。誰も驚いていなかった。僕だけがこの状況についていけず、引き戸の木枠を握ったまま、廊下と部室の境界線の上に立っていた。

 逃げることも、頷くこともできないまま、僕は引き戸に手をかけたまま立ち尽くしていた。旧校舎の埃っぽい空気の中に、また低い音が流れ始める。

 四月七日、放課後。

 僕はまだ、この場所の名前も知らなかった。

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