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季節を届ける弁当屋

第2話 第2話

第2話

第2話

物音で目が覚めた。

最初は夢の中の音だと思った。布団の中で目を開けると、暗い天井があった。カーテンの隙間から外灯の明かりが細い線になって差し込んでいる。時計を見る気にはならなかった。深夜だということだけは分かる。道路を走る車の音が途切れている時間帯。

もう一度、聞こえた。

壁の向こう。幸田の部屋からだった。何かが倒れるような、低い、鈍い音。食器が割れる音とは違う。家具でもない。もっと柔らかくて、重いもの。

冬馬は布団の上に起き上がった。しばらく耳を澄ませた。静かだった。冷蔵庫のモーターだけが回っている。気のせいだったのかもしれない。老人の一人暮らしでは、夜中にトイレに起きて何かにぶつかることくらいあるだろう。冬馬は再び横になろうとした。

三度目の音は、音というより気配だった。壁を通して伝わってくる振動のようなもの。人が床の上で動いている。ただし立ち上がる動きではない。這うような、もがくような。

冬馬は立ち上がっていた。考えるより先に体が動いた。サンダルを引っかけて廊下に出ると、四月の夜の空気がまだ冷たかった。幸田の部屋のドアの前に立つ。ノックしようとして、手が止まった。大袈裟だろうか。起こしたら迷惑ではないか。そう考えている間に、ドアの向こうからかすれた声が聞こえた。言葉にはなっていない。ただの呼気だった。

ドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。

幸田は台所の床に倒れていた。横向きに、冷蔵庫と流し台の間の狭い空間に体を折り曲げるようにして。グレーのパジャマが薄い体に張りついている。左手がリノリウムの床を掻いていた。目は開いていたが、焦点が合っていない。唇の色が悪かった。冬馬の影に気づいたのか、幸田の視線がわずかに動いた。

「——幸田さん」

声が出た。自分でも聞き慣れない声だった。三年間、誰かの名前を呼ぶことがほとんどなかった。冬馬はしゃがみ込んで幸田の肩に手を添えた。骨と皮しかない肩だった。カーディガンの上からでも分かる薄さが、手のひらに伝わった。

携帯電話を取りに戻る余裕はなかった。幸田の部屋の固定電話を探した。壁際の小さな台の上に、古い型の電話機がある。受話器を取って一一九を押した。住所を告げる声は不思議と落ち着いていた。こういうときに冷静でいられるのは、長所ではなく症状なのだと冬馬は思った。感情の回路が鈍っているだけだ。

救急車が来るまでの間、冬馬は幸田のそばにいた。何もしてやれることはない。ただ床に膝をつき、横たわった老人の傍にいるだけだ。幸田の呼吸は浅いが途切れてはいなかった。台所には、倒れたときにぶつけたらしい湯呑みが転がっていた。中身はとうに乾いている。

冬馬の目が台所を捉えた。流しには洗い物が溜まっていた。茶碗がひとつ、小皿がふたつ、箸が一膳。コンロの上には片手鍋がひとつ。中を覗くと、味噌汁の残りが干からびていた。冷蔵庫を開ける。棚にはペットボトルのお茶が一本と、賞味期限の切れた豆腐。野菜室には萎びた春キャベツが半玉、ビニール袋に入ったまま端が茶色くなっていた。

食べていない。

この人は、ほとんど食べていなかった。

サイレンの音が近づいてきた。冬馬は玄関のドアを開け放って、アパートの階段を降りた。救急隊員に部屋の場所を伝え、幸田の年齢と一人暮らしであることを告げた。「ご家族は」と訊かれて、「分かりません」と答えた。隣に住んでいるのに、それだけのことも知らなかった。

担架が運ばれていく。幸田の体は軽そうだった。隊員二人が持ち上げるまでもないほどの重さしかない。毛布に包まれた幸田の顔は、目を閉じていた。意識はまだあるようだったが、もう声は出さなかった。

「同乗されますか」

冬馬は一瞬だけ迷った。一瞬で済んだのは、断る理由を思いつかなかったからだ。

救急車の中は思ったより狭かった。隊員が幸田にモニターをつけ、点滴の針を刺していく。冬馬はストレッチャーの脇の折りたたみ椅子に座った。揺れている。サイレンの音が車内では少しくぐもって聞こえる。

白い光。揺れ。サイレン。

胃の奥が冷たくなった。

三年前も、こうだった。

電話が鳴ったのは店の厨房にいるときだった。ディナーのメインを仕上げている最中で、手にはソースパンを持っていた。弥生の携帯からだったが、出たのは知らない声だった。「梶原さんの旦那様ですか」という声。サイレンが遠くで鳴っていた。あのときも走った。タクシーに乗ったはずだが、記憶にあるのは病院の廊下の蛍光灯の白さだけだ。白くて、長くて、足音だけが反響していた。

走っても走っても廊下は続いて、角を曲がるたびに看護師の靴の底が鳴って、ようやく辿り着いた部屋のドアを開けたとき——

「梶原さん。梶原さん」

救急隊員の声で戻った。冬馬は目を開けた。閉じていたことに気づいていなかった。手が膝の上で握られていた。爪が掌に食い込んだ跡が残っている。

「大丈夫ですか。もうすぐ着きます」

大丈夫ですかと訊かれているのは冬馬のほうだった。幸田ではなく。冬馬は小さく頷いた。額に汗が浮いていた。四月の夜に、冷や汗をかいていた。

病院の待合室は静かだった。深夜の救急外来には他に数人の患者がいたが、皆それぞれの事情を抱えて黙っていた。冬馬はプラスチックの椅子に座り、壁の時計を見た。午前二時を過ぎていた。

ここの蛍光灯も白い。

三年前の病院とは違う建物のはずだが、蛍光灯の白さは同じだった。壁の色も、消毒液の匂いも。どの病院でも同じ匂いがする。あの夜、医師が何を言ったのか、言葉としては覚えていない。覚えているのは医師の口元だけだった。何か言っている口が動いていて、音が遅れて届いた。テレビの音声がずれるように、唇の動きと言葉が噛み合わない。「お二人とも」という言葉だけが引っかかって、その後に続いた言葉は脳が受け取りを拒否した。

冬馬は自分の手を見た。膝の上に置いた両手は、今は震えていない。三年前は震えた。震えが止まらなくて、病院の廊下でしゃがみこんだ。今は震えない。それが回復なのか麻痺なのか、冬馬には分からなかった。

一時間ほどして、医師が出てきた。若い男性の医師だった。名前を呼ばれ、冬馬は立ち上がった。

「軽度の脱水と、栄養失調ですね。点滴で落ち着きました。命に別状はありません」

冬馬は頷いた。

「ただ」と医師は続けた。「お体全体の状態を見ると、かなり食事が不十分な期間が続いていたようです。血液検査の数値も低い。独居でいらっしゃいますか」

「はい」

「お一人だと、どうしても食事がおろそかになりますからね」

医師はカルテに何か書きつけながら言った。幸田の冷蔵庫を思い出した。賞味期限の切れた豆腐。萎びた春キャベツ。干からびた味噌汁。あれが幸田の食卓のすべてだったのかもしれない。朝と昼にコンビニのおにぎりか何かを買い、夜に味噌汁を温め直す。それすら億劫になる日があって、ペットボトルのお茶だけで過ごす日があって、体はそうやって少しずつ乾いていく。

冬馬は自分の食生活を思った。冷凍弁当とコンビニのおにぎり。幸田と大差ない。違うのは、冬馬にはまだ体力があったというだけのことだった。

「二、三日で退院できると思います」

医師がペンを止めて、冬馬を見た。

「退院後のことなんですが——食事を見てやれる方はいらっしゃいますか」

冬馬は口を開きかけた。何も出てこなかった。自分は隣人だ。家族ではない。名前と顔を知っている程度の、壁一枚を挟んだ他人だ。

医師は冬馬の沈黙を待って、それから静かに言った。

「地域の支援サービスをご紹介しますので、よければご本人にお伝えください」

冬馬は頷いた。印刷されたパンフレットを受け取った。表紙に「高齢者向け食事・生活支援サービスのご案内」と書いてある。

帰りのタクシーの中で、冬馬はそのパンフレットを膝の上に置いたまま窓の外を見ていた。街灯がひとつずつ後ろへ流れていく。パンフレットの紙の角が、少しだけ膝に食い込んでいた。

アパートに着いたのは午前四時過ぎだった。幸田の部屋の前を通り過ぎるとき、開けっ放しにしたドアが目に入った。閉めなければと思って中に入り、鍵を探した。下駄箱の上に鍵が置いてあった。

冷蔵庫が開いたままだった。さっき中を確認したときに、閉め忘れていた。冷蔵庫の庫内灯が暗い台所をぼんやりと照らしている。萎びた春キャベツが、その光の中で影を落としていた。

冬馬は冷蔵庫を閉め、幸田の部屋の鍵をかけて、自分の部屋に戻った。布団はさっき飛び起きたときのまま、めくれていた。横になっても眠れないことは分かっていた。

台所の蛇口から水を一杯汲んで、飲んだ。冷たい水が喉を通っていく感覚だけがはっきりしていた。

パンフレットをテーブルの上に置いた。食事を見てやれる方はいらっしゃいますか。あの質問が耳の中でまだ回っていた。冬馬は答えられなかった。答える立場にないからではなく、答えが見つからなかったからだ。自分の食事すらまともにできない人間に、誰かの食事を見る資格があるのか。そもそも資格という問題ではない。ただ、冷蔵庫の中の萎びた春キャベツが、まだ目の裏にあった。

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