第1話
第1話
電子レンジが三回鳴った。冬馬はそれを数えていたわけではない。体が覚えているだけだ。五百ワット、四分二十秒。冷凍のハンバーグ弁当に最適な設定を、舌が勝手に割り出してしまう。
パックを開けると、デミグラスソースの匂いが立った。トマトペーストの酸味が強い。小麦粉でとろみをつけているが、ルウではなくコーンスターチを混ぜている。砂糖はざらめではなく上白糖。——そこまで分かってしまってから、冬馬は箸を取った。
築四十年のアパートの一室。六畳一間にキッチンがついただけの部屋には、調理器具がひとつもない。正確には、押し入れの奥に包丁が一式しまってあるが、あれは道具ではなく遺品のようなものだった。三年間、一度も開けていない。押し入れの襖は日に焼けて、取っ手の金具が少し錆びている。開けなくても中身は分かっている。柄の木目の手触りも、刃を蛍光灯にかざしたときの青い光り方も。だからこそ開けない。開ければ手が思い出す。玉ねぎを透き通るまで炒めるときの、あの手首の返し。出汁を引くとき、昆布を沈める水の温度を指先で測る感触。包丁は手の延長だった。今は、延長すべき手がない。
ハンバーグを口に入れる。合い挽き肉の比率は豚六、牛四。つなぎに豆腐を使っている。パン粉は乾燥タイプで、卵は液卵。たぶんコストの問題だ。舌の上で情報だけが展開されて、味の感想が出てこない。うまいとか、まずいとか、そういう次元の話ではなくなっている。
冬馬は噛んで、飲み込んだ。もう一口、噛んで、飲み込んだ。咀嚼の回数だけが正確に刻まれていく。食事ではなく、摂取だった。カロリーと栄養素を体に入れる作業。かつて自分が作る料理で客の表情が変わる瞬間を生きがいにしていた人間が、今は何の表情も浮かべずに口を動かしている。
蛍光灯が微かに唸っている。安定器が劣化しているのだろう。入居したときからこの音はしていたが、気にしたことはない。テレビもラジオもない部屋では、冷蔵庫のモーター音とこの蛍光灯の唸りだけが時間の経過を示す音だった。
窓の外が明るくなったり暗くなったりすることは知っていた。ただそれが朝と夜の区別を超えて、季節という単位で変わっていくことに、三年間ほとんど注意を向けていなかった。スーパーの棚に並ぶ弁当が春仕様に変わっていたかもしれないが、冬馬が買うのはいつも冷凍食品だった。季節に左右されない。味が一定。つまり、舌が受け取る情報にブレがない。それが冬馬にとっては楽だった。
かつてはミシュランの二つ星をとった店の厨房を率いていた。その頃の冬馬にとって、味覚の鋭さは武器だった。仕込みの段階で塩分濃度の〇・一パーセントのずれを検知し、仕上がりの皿から逆算してすべての工程を微調整する。スタッフには「舌にセンサーがついている」と言われた。冬馬自身も、それを誇りに思っていた。
あの頃は、食べることが楽しかった。
妻の弥生は料理が得意ではなかった。味噌汁の塩分がいつも少し高かったし、卵焼きには砂糖を入れすぎた。けれど冬馬はそれを直さなかった。直す必要がなかった。弥生の卵焼きには、弥生にしか出せない甘さがあって、娘の花はそれが世界で一番好きだった。花がフォークで卵焼きを刺して、口に入れて、頬を膨らませて笑う。その顔を見るのが朝の儀式だった。
冷凍ハンバーグの最後のひと切れを飲み込んで、冬馬はパックを閉じた。分別してゴミ袋に入れる。シンクには洗うべき皿もない。プラスチックの容器と割り箸。水で流して、捨てる。それだけだ。
壁の向こうから、かすかな咳が聞こえた。隣室の幸田という老人だ。七十代の半ばくらいだろう。ほとんど言葉を交わしたことはないが、廊下で会えば軽く頭を下げる程度の関係がある。幸田もひとり暮らしらしい。朝早くから起きていて、夕方にはもう静かになる。規則正しい生活音だけが壁越しに伝わってくる。
翌朝、ゴミ袋を持って廊下に出たとき、幸田が玄関先に立っていた。小柄な体にグレーのカーディガンを羽織り、サンダル履きで外を見ている。冬馬が会釈すると、幸田は振り返らずに言った。
「桜が散っとるな」
冬馬は足を止めた。
「もう終わりだ。今年は早かった」
幸田の視線の先を、冬馬は追った。アパートの前の道路を挟んだ向こう側に、一本の桜の木がある。そのことを、冬馬は知っていたはずだった。三年前、この部屋に越してきたとき、不動産屋が「春は桜が見えますよ」と言ったことを覚えている。
花びらが、アスファルトの上に散っていた。薄桃色が褪せて、端のほうから茶色く縮れている。風が吹くと、乾いた花びらが砂埃と一緒に転がった。水溜まりの中にも溜まっていて、薄い膜のようになっている。
満開を、見なかった。
咲き始めも、五分咲きも、見なかった。散り際になって、他人に指摘されて初めて気づいた。桜がそこにあったことを。
三年分の春が、すべて通り過ぎていた。窓はあった。カーテンの向こうに桜はあった。けれど冬馬の目は何も拾わなかった。舌は冷凍食品の成分表を暗記するほど鋭いのに、目は季節の移り変わりさえ見落としていた。鋭すぎる感覚と、死んだ感覚が、同じ体の中に同居している。そのことに気づいたのは、幸田の横に立って散った花びらを見下ろしているこの瞬間が初めてだった。
「——きれいだったのか」
冬馬の声は、自分でも驚くほど平坦だった。尋ねたかったのではない。何か言わなければならない気がして、出てきた言葉がそれだった。
幸田はちらりと冬馬を見た。小さな目が冬馬の顔を一瞬だけ捉えて、すぐに桜のほうへ戻った。何かを測るような間があった。
「さあな。見る人によるだろう」
それだけ言って、幸田は部屋に戻っていった。サンダルの音が廊下に響いて、ドアが閉まった。
冬馬はしばらく、散った桜を見ていた。風が止むと、花びらも動かなくなった。排水溝の蓋の上に吹き溜まったそれは、もう花というより、ただの有機物に見えた。
かつてなら、桜の塩漬けを仕込む時期を体で知っていた。八重桜の蕾が五分開きになった瞬間を見計らって、塩と梅酢で漬ける。あの淡い香りを生かした桜餅を、花の前夜祭としてコースの最後に出す。桜の花びらを湯に浮かべて、客の前に出す直前に蓋を取る。蒸気と一緒に、春の匂いが立ち上る。あれは演出ではなく、季節に対する料理人としての返答だった。弥生と花を連れて目黒川沿いを歩いた年は、花がまだ二歳で、桜よりも地面の蟻に夢中だった。弥生が「この子は花より団子ね」と笑って——
冬馬はゴミ袋を握り直した。指の関節が白くなるほど強く握っていたことに、今さら気づいた。ビニールが掌の中できしんでいる。
部屋に戻り、窓のそばに立った。ここからでも、桜の木の上のほうが見える。葉桜に変わりかけていた。緑が、もう勝っている。
窓を閉めた。鍵もかけた。
カーテンを引くと、部屋が薄暗くなった。冷蔵庫のモーター音だけが低く響いている。冬馬はテーブルの上に置いたままのコンビニの袋から、明日の朝食用のおにぎりを取り出した。ツナマヨネーズ。包装フィルムを開ける前に、もう味が分かっていた。マヨネーズは卵黄型で、ツナは油漬けのライト。米は古米を混ぜている。
開けなかった。
おにぎりを袋に戻して、冬馬は布団を敷いた。まだ明るい時間だった。カーテンの隙間から、わずかに光が漏れている。畳の匂いはとうに消えていた。布団のシーツからは柔軟剤の香りもしない。洗濯はしている。ただ、無香料の洗剤を選んでいるのは、香りが何かを思い出させるからだった。
目を閉じると、散った花びらの残像がちらついた。茶色く縮れた端。水溜まりの薄い膜。排水溝の吹き溜まり。
きれいだとは思わなかった。ただ、見なかったことを、体のどこかが覚えていた。
幸田の言葉が耳の奥に残っていた。見る人によるだろう。冬馬は三年間、見る人ですらなかった。目を開けているのに何も見ない人間。舌だけが生きていて、あとは全部止まっている。そのことを他人から突きつけられたのではなく、散った花びらが勝手に教えた。来年の春、この目は桜を見るだろうか。分からなかった。分からないということだけが、三年間で初めて冬馬の胸に引っかかった小さな棘だった。