第3話
第3話
教室に戻ったのは、二時間目が半分過ぎた頃だった。
扉を開けた瞬間、三十六の視線のうち二十くらいがこちらを向いて、すぐに逸れた。残りは最初から見ていない。昨日までと同じ無関心——じゃない。意識して見ないようにしている。その違いは、壁のシミにだってわかる。
席に着くと、鞄はちゃんとフックにかかっていた。中を確認する。ノートはある。誰かが開いた形跡はない。たぶん。いや、もうそんなことを気にしても意味がなかった。中身はスマホの画面に焼きつけられて、三十六人の手の中に散らばっている。
数学の授業が続いている。黒板の二次関数のグラフが、僕の目にはただの曲線にしか見えなかった。ノートを開く気にもなれない。十二冊目じゃなく、数学のノート。そっちも開けない。指先がまだ少しだけ冷たくて、ペンを持つ感触が遠い。
昼休みまでの時間は、いつもより長かった。
チャイムが鳴ると同時に、僕は鞄ごと教室を出た。図書室に行くつもりだった。いつもの席で、いつものように呼吸を整えるつもりだった。でも廊下を曲がったところで、足が止まった。
図書室の入り口に、人が立っていた。
長い黒髪を片方の肩に流した女子。制服のリボンは二年の色だけど、見覚えがない。いや、ある。出席番号で名前だけ知っている。椎名つむぎ。不登校気味で、月に数日しか学校に来ない子。今日がその数日のうちの一日だったらしい。
椎名は僕を見ていた。正確には、僕の鞄を見ていた。ノートが入っている鞄を。
「春野くん」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。椎名に名前を呼ばれたことなんて一度もない。
「……うん」
「グループチャット、見た」
「……うん」
「あの中に出てくる『教室に来られない女の子』、私でしょう」
息が詰まった。三十三ページと三十四ページ。写真に撮られたのはそのあたりだったはずだ。でも赤嶺がどこまで撮ったのか、僕は正確に把握していない。三十五ページには——確かに、書いた。教室にほとんど来ない女子生徒のことを。名前は変えた。一字どころか、完全に変えた。でも特徴が一致しすぎていたのかもしれない。
「違う」
「嘘。目、泳いでる」
椎名の声は静かだった。怒っているわけでも、泣いているわけでもない。ただ確認している。事実を突き合わせるように、こちらを見ている。
何か言わなきゃいけないのに、何も出てこなかった。椎名は三秒ほど待って、それから図書室の中に消えた。僕はその場に立ち尽くしたまま、足が動かなかった。
五時間目が始まる前の休み時間。トイレから教室に戻ると、自分の席に誰かが座っていた。
氷室蓮。隣のクラスの、ほとんど誰とも口をきかない男子。身長が高くて、いつも少し猫背で、目つきが冷たいと噂されている。僕と似ているようで全然違う。僕は認識すらされない透明人間だけど、氷室は認識された上で避けられている。壁のシミと、壁に刺さった画鋲くらいの差だ。
「……あの、そこ僕の席」
「知ってる」
氷室は僕のノートを持っていた。鞄から出したのか。いつの間に。心臓が喉元まで跳ね上がって、視界がぐらついた。
「返して」
「読んだ」
「だから返して」
氷室はノートを閉じて、机の上に置いた。雑に、ではなく、丁寧に。背表紙を上にして、位置を揃えて。
「四十二ページの男。『教室の隅で本を読んでいる背の高い男子。彼の周りだけ、空気の温度が二度低い』」
暗唱している。正確に。一字一句。
「俺のことだろう」
否定できなかった。四十二ページ。あれは十一冊目の、去年の秋に書いた断片だ。写真には映っていないはずだけど、氷室はどうやってそこを知ったんだろう。考える間もなく、氷室は立ち上がった。
「別に怒ってない。ただ、確認しに来た」
それだけ言って、氷室は教室を出ていった。僕は自分の席に座り直して、ノートを鞄に押し込んだ。手が震えていた。
五時間目の途中で、廊下側の扉がノックもなしに開いた。
九条遥香。隣のクラスの問題児。髪を校則違反のピンクに染めて、いつも教師と揉めている。去年の文化祭で展示物を壊したとかいう噂を聞いたことがある。
「春野蒼太、ちょっと来い」
授業中だった。数学の小林先生が「何だ九条、授業中だぞ」と言ったけど、九条は完全に無視して僕を見ていた。目が据わっている。怒っているのか、何なのか、僕には判別がつかなかった。
「い、今授業——」
「五分で返す」
小林先生がため息をついた。僕はなぜか立ち上がっていた。教室中がこっちを見ていたけど、もうどうでもよかった。今日一日で、視線に対する感覚が麻痺し始めていた。
廊下に出ると、九条は壁に寄りかかって腕を組んでいた。
「あんたの小説に出てくる『窓を割った女』。あれ私でしょ」
窓を割った女。十二冊目の十五ページ。九条そのものではない。でも、去年の文化祭の出来事をモデルにした場面がある。九条は自分の教室の窓を割ったんじゃなく展示物を壊しただけだったはずだけど、僕はそれを「窓を割る」という行為に変換して書いた。動機を想像で埋めて。
「あの女、怒ってたんじゃなくて泣いてたって書いてあった」
九条の声が少しだけ低くなった。
「私は泣いてない。あの時も今も」
「……ごめん」
「謝んなくていい。ただ、勝手に泣かせるな」
九条は壁から背中を離して、階段の方に歩いていった。三歩進んで、振り返った。
「あんたさ、見てるだけで何もわかってないよ」
その言葉が、廊下の壁に跳ね返って消えた。
六時間目が終わった。
もう帰りたかった。旧校舎にも図書室にも寄らず、まっすぐ家に帰って、布団をかぶって、ノートをクローゼットの一番奥に押し込んで。でも鞄を持ち上げた瞬間、後ろから声がかかった。
「春野くん」
柊結衣。同じクラスの、大人しい女子。いつもにこにこしていて、誰とでもそこそこ仲良くやっている。僕とは一度も話したことがない。
「あの、少しだけ」
柊は両手で自分の鞄のストラップを握りしめていた。笑っていなかった。いつもの柊とは別人みたいに、唇が薄く引き結ばれていた。
「二十八ページの、『自分の笑顔を鏡で練習する女の子』」
二十八ページ。十二冊目の。あれは——創作だ。少なくとも、僕はそのつもりで書いた。特定の誰かをモデルにしたわけじゃない。
「あれ、私だと思った人がいるの。チャットで」
「違う。あれは誰のことでも——」
「違くても、もう遅いの」
柊の目が、光っていた。泣いているのかと思ったけど、泣いてはいなかった。怒りとも違う。何かを必死に飲み込んでいる目だった。
「ごめん」
「春野くんが謝ることじゃないって、わかってる。でも」
柊は言葉を切った。僕たちの横を、帰り支度をしたクラスメートが通り過ぎていく。誰も僕たちに声をかけない。
柊が小さく息を吐いて、何か言おうとした、その時だった。
「おー、揃ってんじゃん」
赤嶺が教室に戻ってきた。体育着のまま、タオルを首にかけて。その後ろから氷室が、さらにその後ろから九条が、無言でついてきている。三人が揃って教室に入ってくる光景は、ちょっとした事件みたいだった。
「椎名もさっき図書室で見かけた。呼んでくるわ」
赤嶺は軽い調子で言って、すぐにまた教室を出ていった。残された四人——僕と氷室と九条と柊——の間に、沈黙が落ちた。
九条が舌打ちした。「何の集まりだよ」
氷室は窓の外を見ている。柊は自分の鞄のストラップを握ったまま、動かない。僕は、五人分の視線と沈黙の重さに、膝から力が抜けそうだった。
一分もしないうちに、赤嶺が椎名を連れて戻ってきた。椎名は教室の扉の前で立ち止まって、中に入ろうとしなかった。赤嶺が何か小声で言って、椎名がしぶしぶ一歩だけ踏み込んだ。
六人。教室に残っているのは僕たちだけだった。放課後の斜めの光が、机の上を黄色く染めている。
赤嶺が僕の前に立った。さっきまでの軽い調子がわずかに消えて、真っ直ぐな目をしていた。
「春野。お前、俺たちのこと書いたろ。ノートの中で、勝手に」
「……勝手に、は赤嶺の方だろ」
「それはそう。だからおあいこだ」
おあいこ。その雑な計算に反論したかったけど、声が出なかった。
赤嶺は僕の周りに集まった四人を見渡して、それから僕に向き直った。
「俺たちのこと書くなら、ちゃんと取材しろよ」
教室が静まり返った。九条が「はあ?」と言い、氷室が微かに眉を動かし、柊が目を見開いた。椎名だけが、扉の近くで何の表情も浮かべていなかった。
取材。その言葉が、教室の空気に溶けて僕の耳に届くまでに、一秒かかった。
「見てるだけで書くから、ずれんだよ。九条だって怒ってただろ」
「泣かせるなって言ったの。ずれてんのはあんたも同じ」
九条が赤嶺を睨んだ。赤嶺は肩をすくめた。
僕は五人の顔を順番に見た。怒っている顔、無表情な顔、戸惑っている顔、何かを飲み込んでいる顔。そして、おあいこだと笑う顔。
全員が、僕のノートの中の自分を見つけた人間だった。僕が勝手に観察して、勝手に想像して、勝手に言葉にした、五人。
返す言葉を探した。見つからなかった。僕が書いた彼らは、本物の彼らとずれている。そのずれを埋める方法を、僕は知らない。ノートの中でなら何度でも書き直せるけど、目の前に立っている人間は消しゴムでは消えないし、書き直しもきかない。
「……考えさせて」
それだけ言うのが精一杯だった。赤嶺が「おう」と頷いて、窓際に腰を下ろした。帰る気がないらしい。九条も、氷室も、動かない。柊がゆっくりと椅子を引いて座った。椎名は相変わらず扉の近くに立っていたけれど、出ていきはしなかった。
放課後の教室に、六人分の沈黙が積もっていく。僕の鞄の中で、十二冊目のノートが重さを増している気がした。