第2話
第2話
朝の教室に足を踏み入れた瞬間、空気がおかしかった。
いつもなら僕が扉を開けても誰も振り向かない。壁のシミが動いたところで、気にする人間はいない。それが普通で、僕はその普通に安心していた。なのに今日は違った。何人かが顔を上げて、すぐにスマホに目を戻した。その動きが揃いすぎていて、逆に不自然だった。
席に着く。鞄を机の横のフックにかけて、教科書を出す。いつもの動作。いつもの朝。でも周囲のざわめきが、いつもより近い。隣の列の女子二人がスマホの画面を見せ合って、小声で何か言っている。聞き取れない。聞き取れないけど、その視線がちらちらとこちらに向かうのはわかる。
壁のシミは、見られることに慣れていない。
前の席の山口が、振り向いた。これで四回目だ。プリントでも消しゴムでもなく、山口は少し気まずそうな顔をして、すぐに前を向いた。何も言わなかった。その「何も言わない」が、いつもの無関心とは明らかに違っていた。
教室全体がひとつの秘密を共有していて、僕だけがそこから弾かれている。そんな感覚がじわじわと広がっていく。胃の底に、冷たいものが溜まり始めた。
始業のチャイムが鳴る直前だった。
「春野って、小説書いてんの?」
斜め前の田島が、振り返りもせずに言った。独り言みたいな声量で、でも確実に僕に向けられた言葉だった。
頭の中が真っ白になった。心臓が一回、大きく跳ねて、そのあと妙に静かになった。教室の音が遠ざかる——いつもペンを握った時と同じ感覚だけど、今はペンを持っていない。手のひらが冷たくて、指先が震えそうになるのを、膝の上で握り込んで堪えた。
「見た見た、グルチャのやつ」
誰かが言った。誰の声かわからない。わからないまま、僕はスマホを取り出した。通知が十四件。クラスのグループチャット。僕はいつも読むだけで、一度も発言したことがない幽霊部員のグループ。
スクロールする。指が滑って、二回やり直した。
写真だった。
ノートの見開き。僕の字。少し右下がりの、癖のある筆跡。三十三ページと三十四ページ——主人公が教室で周囲を観察するシーン。
《田嶋の歩き方は、少し左に傾いている》 《佐々木さんはいつもスカートの裾を気にしている》
名前が、一字違い。一字だけ変えた名前が、クラス中に筒抜けになっていた。
コメントが連なっている。
「田嶋って田島じゃんw」「佐々木まんまで草」「ていうか観察されてたの怖くね」「でもちょっとうまくない?」「いや怖い怖い」「春野ってあのメガネの?」「誰だっけ」「窓際の一番後ろ」「ああ……」
その「ああ……」が、全部を物語っていた。存在を思い出すのに数秒かかる、壁のシミ。そのシミが、実はずっとこちらを見ていた。その気持ち悪さ。
投稿者の名前を確認する。赤嶺翔。クラスの中心にいる、声の大きい男。僕の小説の中には出てこない人物だ。接点がなさすぎて、観察する機会すらなかった。
「登場人物うちらじゃね? 春野のノート面白いから読んでみ」
赤嶺のコメントに、スタンプが並んでいる。笑っている顔が十二個。
スマホの画面が滲んだ。泣いているわけじゃない。指紋で汚れたガラスの表面が光を反射しているだけだ。ただ、呼吸が浅くなっていた。教室が狭い。三十六人分の視線が、空気に溶けて僕の皮膚に張りついている。
席を立った。
何か理由をつけたかったけど、何も思い浮かばなかった。鞄も教科書も置いたまま、教室を出た。廊下を歩いて、階段を上がる。三階、四階。屋上への階段は立入禁止の札がかかっているけど、鍵は壊れている。それは去年のうちに知っていた。取材のために確認しただけで、実際に上がったことはなかった。
自分が書いた小説の主人公が、屋上の扉の前で立ち止まるシーンを思い出す。あの扉は開くのか、開かないのか。主人公にもわからなかった。
僕は、今、その扉を押している。
金属の重い音がして、風が顔にぶつかった。四月の、まだ冷たさの残る風。屋上は思ったより狭くて、灰色のコンクリートと、錆びたフェンスと、空だけがあった。足元にはところどころ雑草が隙間から伸びていて、その緑だけが妙に鮮やかに見えた。
フェンスに背中を預けて、座り込んだ。コンクリートが冷たくて、制服の生地越しに体温が奪われていく。でも動けなかった。頭の中で、グループチャットのコメントが回っている。
「観察されてたの怖くね」
怖い。僕は怖かったんじゃない。ただ見ていただけだ。見ることしかできなかったから、見ていた。それを言葉にしただけだ。なのに、その言葉が僕の手を離れた瞬間、全然違うものになってしまった。
ノートの中の言葉は、僕だけのものでいられる。昨日、そう思ったばかりだった。
嘘だった。僕だけのものでいられたのは、誰にも見つからなかったからだ。見つかった瞬間に、言葉は僕のものじゃなくなる。
膝を抱えて、額を腕に押しつけた。十二冊。十二冊分の言葉が、全部あの教室に流れ出したらどうなるんだろう。考えたくなかった。
どのくらいそうしていたのか、わからない。五分か、十分か。空の色は変わっていなかったから、たぶんそんなに長い時間じゃない。
屋上の扉が、開いた。
金属が軋む音。昨日の旧校舎と同じ、鈍い音。でもこの扉を開ける人間に、心当たりはなかった。
顔を上げると、赤嶺翔が立っていた。
制服のシャツは第二ボタンまで開いていて、ネクタイはポケットに突っ込んでいる。短く刈り上げた髪に、朝の光が当たっている。教室ではいつも誰かに囲まれている男が、一人でここにいる。その違和感が、僕の思考を一瞬止めた。
「よう」
赤嶺は扉を閉めもせず、僕の方に歩いてきた。三歩分の距離を残して、立ち止まる。ポケットに手を突っ込んだまま、僕を見下ろしている。
「……何の用」
声が掠れていた。自分でも驚くくらい。
「逃げんの早いな」
赤嶺は笑っていた。悪意のある笑い方じゃなかった。でも、その無邪気さが余計に腹立たしかった。
「あれ、消してよ」
「グルチャの? 無理だろ、もうみんな見た」
わかっている。わかっているけど、言わずにはいられなかった。赤嶺はしゃがんで、僕と同じ目線になった。近い。石鹸の匂いがした。旧校舎で感じた、あの匂いだった。
——昨日、教室にいたのはこいつだ。
「お前のノート、昨日たまたま見つけてさ。旧校舎の教室、たまに昼寝に使うんだよ。そしたら机の上に置きっぱだっただろ」
置きっぱなし。ノートを鞄にしまう前に、ペンケースを机に忘れて、その時——いや、そんなことはどうでもいい。
「勝手に読んだの」
「写真だけ撮った」
「最悪だ」
「まあ、悪かったよ、それは」
赤嶺は頭を掻いた。謝っているようで、全然反省していない顔だった。
「で、続き読ませろ」
「は?」
「続き。あの話、途中だっただろ。屋上の扉開けるのかどうかってとこで止まってた」
赤嶺の目が、真っ直ぐこちらを見ている。教室で僕を見る人間の目は、たいてい「あ、いたんだ」という色をしている。赤嶺の目は違った。何かを見つけた人間の目。拾った石を光に透かすような、そういう興味の色。
「読む気? 本気で?」
「面白かったからな。田島のとことか、歩き方まで見てんだって笑ったわ」
笑われた。やっぱり笑われた。でも、赤嶺の「笑った」は、グループチャットの「草」とは少しだけ手触りが違う気がした。なぜかはわからない。わからないから、信用もできない。
「書いてるの知られたくなかった」
「知られちまったもんはしょうがないだろ」
「しょうがなくない」
「じゃあどうすんの」
答えられなかった。赤嶺が立ち上がって、フェンス越しに校庭を見下ろした。グラウンドでは体育の授業が始まっていて、誰かの笛の音が小さく聞こえた。
「俺さ、お前のこと全然知らなかった。同じクラスなのに」
「みんなそうだよ」
「だから面白いんだって。知らねえやつが、こっちのことめちゃくちゃ見てたってのが」
赤嶺は振り返って、またしゃがんだ。
「続き、書けよ。読むから」
僕は何も言えなかった。言えないまま、チャイムが鳴った。二時間目の開始を告げる音が、屋上まで届くのに一秒もかからなかった。旧校舎の三秒とは違う。ここは、本校舎のすぐ上だから。
赤嶺は立ち上がって、扉に向かった。僕は座ったまま動けなかった。
「来いよ、授業始まるぞ」
「……先に行って」
赤嶺は肩をすくめて、扉の向こうに消えた。金属の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
一人になった屋上で、風が髪を乱す。ポケットの中のスマホが、また震えた。たぶん、グループチャットの通知。見たくなかった。見たくないのに、指が勝手にポケットに伸びる。
新しいコメントがひとつ。
赤嶺翔:「つーか春野、他にもノートあんの? 十二冊って書いてあったけど」
十二冊。あの二ページだけじゃない。十二冊分の世界が、あの教室に、あの鞄の中に、クローゼットの奥にある。赤嶺はそこまで読んでいた。
僕はスマホを握ったまま、空を見上げた。四月の空は薄い青で、雲がひとつ、西の方にゆっくり流れていた。
十二冊。そのうちの何冊に、赤嶺翔は出てこないと言い切れるだろう。書いていなかったはずだ。接点がなかったから。でも本当にそうだろうか。クラスの中心で笑う声を、僕は本当に一度もノートに書き留めなかっただろうか。
鞄は教室に置いてきた。ノートは鞄の中。今ごろ誰かが、また開いているかもしれない。
立ち上がらなきゃいけない。教室に戻らなきゃいけない。三十六人の視線の中に、壁のシミとしてではなく、「小説を書いていたあいつ」として。
膝が、まだ少し震えていた。