Novelis
← 目次

壁のシミは物語を書く

第1話 第1話

第1話

第1話

四月の風は、いつも僕より先にこの教室へ来ている。

旧校舎三階、西端の空き教室。去年の春にここを見つけてから、放課後はずっとこの場所だ。窓ガラスが一枚だけ外れていて、そこから風が入り込む。埃っぽくて、少しだけ草の匂いがする。雨の日は土の匂いも混じって、それがまた悪くない。天井の蛍光灯はとっくに切れていて、頼りになるのは窓からの自然光だけだ。曇りの日は手元が暗くなって少し困るけれど、晴れた日の午後はちょうどいい明るさがノートの上に落ちてくる。机は壁際に積み上げられていて、僕が使っているのは一番手前の、脚がわずかにがたつく一脚だけ。書くたびに微かにカタ、カタと鳴る。最初は気になったけれど、今ではこの音がないと調子が出ない。椅子は二つあるけれど、もう一つに誰かが座ったことは一度もない。座面に積もった埃が、それを証明している。

大学ノートを開く。十二冊目の、三十七ページ。表紙はもうボロボロで、角が折れて柔らかくなっている。昨日の続きは、主人公が屋上の扉の前で立ち止まっているところだ。鍵がかかっているのか、かかっていないのか。彼自身にもわからない。

ペンを握ると、教室の音が遠くなる。正確に言えば、教室じゃない。ここは教室だった場所で、今はただの箱だ。僕とノートを入れるための。

廊下の奥から、誰かの笑い声が聞こえてくる。たぶん一階のグラウンド側。部活の声だろう。サッカー部か、野球部か。どっちでもいい。大事なのは、その声がここまで届くのに三秒かかるということだ。三秒あれば、一文が書ける。

――彼は扉に手をかけた。錆びた取っ手は冷たく、指先に小さな痛みが走った。

うん、悪くない。けどまだ足りない。「小さな痛み」は説明すぎる。感触だけでいい。

取っ手を消しゴムで消して、書き直す。消しゴムのカスが紙の上に散って、それを手の側面で払う。ノートの隅が少し黒く汚れた。

――彼は扉に手をかけた。錆が指に残った。

こっちのほうがいい。錆の手触りは、読んだ人が勝手に想像してくれる。僕が説明しなくても。五文字減って、情報は増えた。この引き算が好きだ。書くことは足すことだと思われがちだけど、本当は削ることのほうが大事だと思う。

こういう時間が好きだ。一文を削って、もう一文を足して。世界を一行ずつ組み立てていく感覚。教室で隣の席の誰かと目が合うよりも、ずっと確かな手応えがある。

教室。

そう、教室の話をしよう。二年三組の、僕の席は窓際の一番後ろ。位置だけ聞けば特等席に思えるかもしれないけど、実態は違う。あそこは「誰とも隣にならない席」だ。前の席の山口は、僕の方を振り向いたことがたぶん三回くらいしかない。そのうち二回はプリントを渡す時。残りの一回は、消しゴムを落とした時。あの時だって、山口は消しゴムを拾い上げると「サンキュ」とも言わず前を向いた。僕が拾ったんじゃなくて、たまたま僕の足元に転がっただけだから、まあ当然かもしれない。

クラスの中で、僕は空気みたいなものだと思う。いや、空気はみんなが吸うから、もう少し存在感がある。僕はたぶん、壁のシミくらいのものだ。あることに気づいても、誰も気にしない。

嫌われているわけじゃない。それなら、まだましだった。嫌われるには、まず認識されないといけないから。

昼休みは図書室で過ごす。司書の先生が淹れてくれるほうじ茶の匂いが好きで、あの場所にいると少し安心する。湯気が立ち上るのを眺めていると、自分の輪郭がぼやけて、本棚や古い紙の匂いの中に溶けていくような気がする。本棚の間の、一番奥の席。そこが図書室での僕の席だ。移動教室の時は、いつも最後尾を歩く。前を歩く集団の背中を眺めながら、その輪郭を頭の中で文章にする。

「田島くんの歩き方は、少し左に傾いている」「佐々木さんはいつもスカートの裾を気にしている」

そういう観察が、全部ノートに還っていく。僕が見ている世界は、僕のノートの材料だ。だから、壁のシミでいることは、そんなに悪くない。シミは教室の全部を見渡せるから。

――でも、時々思う。

物語の中の主人公は、必ずどこかで扉を開ける。閉じた部屋から出て、誰かと出会って、何かが変わる。僕はそういう話を書くのが好きだ。好きだけど、自分がその主人公になりたいかと聞かれたら、答えに詰まる。

だって、扉の向こうには人がいる。

人がいるということは、僕の言葉が届くかもしれないということで、届いた言葉は僕の手を離れるということだ。ノートの中の言葉は、僕だけのものでいられる。誰にも読まれなければ、誰にも傷つけられない。誰にも笑われない。

十二冊のノートは、全部僕の部屋のクローゼットの奥にある。母さんにも見せたことがない。というか、母さんは僕がノートに何か書いていること自体、知らないと思う。

ペンが止まる。

窓の外が、橙色に変わり始めていた。四月の日没は午後六時頃。まだ少し早いけど、西日が教室の床を斜めに切っている。埃が光の中で踊るのを眺めながら、今日はここまでにしようかと思った。光の帯の中で埃が回転するのをぼんやり目で追っていると、自分が書いた物語の中の主人公も、こんなふうに立ち止まる時間があるんだろうかと考えた。たぶん、ない。物語の中に無駄な時間はないから。でも現実の僕には、こういう何でもない数秒がたくさんある。その数秒が、嫌いじゃなかった。

ノートを閉じて、鞄にしまう。椅子から立ち上がって、窓のない方の壁に目をやる。

誰かの落書きが残っている。もう何年も前に書かれたものだろう。「3-Bの夏 最高」。青のマジックで、少し滲んでいる。最高だった夏を過ごした誰かは、もうこの学校にはいない。

僕はその落書きが好きだった。最高の夏を言葉にして、壁に残した。それは日記とも手紙とも違う。ただ書きたかったから書いた、それだけの言葉。僕がノートに書いているものも、結局はそういうものなのかもしれない。

鞄を肩にかけて、教室を出る。廊下は薄暗くて、自分の足音だけが響く。旧校舎は使われていないから、僕以外に歩いている人間はいない。リノリウムの床が古くて、踏むたびにきゅっと小さく鳴る。その音が壁に跳ね返って、まるで二人分の足音みたいに聞こえる時がある。

階段を降りながら、明日のことを考える。明日も同じだ。授業を受けて、昼休みは図書室で、放課後はここに来る。ノートを開いて、一行書いて、消して、書き直す。その繰り返しの中にだけ、僕の時間がある。

――それでよかった。

トイレに寄って、手を洗った。蛇口をひねると水が少し跳ねて、制服の袖口に冷たい点が散った。鏡に映った自分の顔をちらっと見る。特に何の感想もない顔。これが壁のシミの顔だなと思いながら、旧校舎を出ようとして。

足が止まった。

戻ろうか、どうしようか。数秒迷って、結局階段を上った。三階の廊下を早足で進んで、空き教室の扉を開ける。

忘れ物。ペンケースを机の中に入れっぱなしにしていた。

教室に入って、机に向かう。ペンケースはちゃんとあった。手に取って、鞄に入れて。

――そこで気づいた。

机の上の、何もないはずのスペース。僕はノートをいつも机の左上に置いて、閉じる時に手前に引き寄せてから鞄にしまう。だから机の左上には、ノートの跡がうっすらと埃の中に四角く残るはずだ。

その四角の位置が、ずれていた。

ほんの二センチくらい。右にずれている。

僕がノートをしまってから、誰かがこの教室に入った。そして、ノートがあった場所に——いや、もうノートは鞄の中だったから、何もなかったはずだけど——机の上に触れた。何かを探すように。

背中を、冷たいものが走った。指先がじんと痺れて、さっきまで温かかったペンケースの感触が急に遠くなった。

教室の中を見回す。何も変わっていない。窓は開いたまま、椅子は二脚、壁の落書き。積み上げられた机も、さっきと同じ角度のまま。

でも、空気が違う。さっきまで僕だけのものだったこの場所に、誰かの気配が残っている。甘いような、石鹸のような、かすかな匂い。旧校舎の埃っぽさとは明らかに違う何か。僕のものじゃない匂いだった。

廊下に出て、左右を見る。誰もいない。当たり前だ。旧校舎に来る人間なんていない。いないはずなのに。

耳を澄ませた。自分の呼吸と、遠くの部活の声。それだけ。でも数秒前には、ここに誰かがいた。僕がトイレに行っていた、ほんの数分の間に。

鞄の中のノートを、無意識に手で押さえていた。十二冊目の、三十七ページ。僕だけの世界。僕だけの言葉。

誰にも、見せるつもりなんてなかった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ