第2話
第2話「翌日の錆びたドアノブ」
翌日も、屋上に来てしまった。
昼休みのチャイムが鳴る三十秒前に教科書を閉じて、誰にも声をかけず席を立つ。昨日と同じ動線。階段を上がって、錆びたドアノブを回して、四月の風に迎えられる。昨日より少しだけ暖かい。空は薄い雲が刷毛でなぞったみたいに伸びていて、日差しが首筋にじんわり触れた。
コンクリートの床に座って、膝を抱えた。弁当は教室で食べてきた。前の席の女の子——名前を覚えた、高瀬さんだ——が「一緒に食べよう」と誘ってくれて、断る理由がなかったから。卵焼きの甘い匂いと、高瀬さんの友達が話すドラマの話題を適切な間隔で相槌を打ちながら聞いて、笑うべきところで笑って、十五分で食べ終えた。悪い時間じゃなかった。ただ、息を止めたまま水の中を歩いているような疲労感が、教室を出た瞬間にどっと肩にきた。
ここに来ると、息ができる。
目を閉じて、声を出した。メロディというほどの形はない。ハミングにしては少しだけ音程がはっきりしていて、でも歌詞はない。喉の奥から自然に出てくる音をそのまま風に乗せる。フェンスの向こうに広がるグラウンドでは誰かがサッカーをしていて、遠くから笛の音が聞こえた。それすらも、歌っていると遠ざかる。
——五分くらい経った頃だった。
階下から音が聞こえた。昨日と同じ、音楽室のあたりから。エレキギターのフレーズがくぐもった壁越しに上がってくる。ベースが追いかけて、キーボードが被さる。
昨日と同じ曲だ。
私は歌うのをやめて、耳を澄ませた。聞きたくないのに聞こえるのと、自分から聞こうとするのは違う。今日は後者だった。自分でもどうかしていると思う。でも指が勝手にフェンスを掴んでいて、身体ごと音のほうに傾いていた。
イントロ、Aメロ、サビ前のブリッジ。構成を二回聞けば覚えてしまうのは、私の耳の厄介なところだ。テンポはBPM百二十くらい。ベースが堅実にルートを押さえていて、キーボードがコードの隙間を埋めている。悪くない。昨日よりリズムが安定している気がする。
でも、やっぱり。
サビに入った瞬間、音が濁る。ギターのパワーコードとキーボードのボイシングがぶつかって、透明なはずの響きに膜が一枚かかる。昨日と同じ場所で、同じ濁り。直っていない。
「……3弦、半音低い」
口をついて出た。フェンスを掴んだまま、ほとんど息みたいな声で。誰に向けたわけでもない。ただ、聞こえないふりができなくて、せめて空気に向かって吐き出さないと胸が詰まりそうだった。
「——今、なんて言った?」
心臓が跳ねた。
振り返ると、屋上の扉が開いていた。そこに女の人が立っていた。背が高い。私より頭一つ分くらい。制服のリボンが紺色だから三年生だ。長い髪をゆるく一つにまとめていて、左手にペットボトルのお茶を持っている。目が大きくて、でも鋭いわけじゃなくて、どちらかというとぼんやりした光を湛えていた。
「えっ」
「3弦がどうとか、言ったよね。聞こえた」
彼女は扉を閉めもせず、まっすぐこちらに歩いてくる。足音がコンクリートに響いて、その一歩ごとに私の逃げ場がなくなっていく。
「あの——聞き間違いじゃ」
「間違いじゃないでしょ、半音低いって言ったよね。下の音楽室のギター」
断定だった。私の言葉を疑っていない。むしろ、確かめに来たという顔をしている。ペットボトルのキャップを片手で開けて、一口飲んで、私の隣のフェンスに寄りかかった。近い。シャンプーの匂いがした。柑橘系の、少しだけ甘い香り。
「夏目遥。三年。下で弾いてるバンドのベース」
「……柊、真白。二年です」
敬語が出た。先輩だから当然なんだけど、声が震えていないかだけが心配だった。たぶん大丈夫。たぶん。
「真白ちゃんか。ねえ、今の本当? 3弦が半音低いって、分かるの?」
「……分かるというか、聞こえるだけで」
「それすごいんだけど」
遥さんは笑った。笑うと目尻に皺ができて、さっきのぼんやりした印象が一気に人懐っこいものに変わった。
「うちのギター、朝霧っていうんだけど、さっきからずっと同じところで音がぶつかるって言い合ってて。チューナーで合わせたのになんで合わないんだって。私もドラムの楓も分からなくて。キーボードの凛は合ってるって言い張るし。で、息抜きにお茶買いに来たらここの扉が開いてて、声が聞こえて」
早口だった。でも不快じゃない。声のトーンが柔らかくて、誰かを責めるニュアンスがまったくない。ただ困っていて、たまたま答えを聞いてしまった人の声だった。
「チューナーだと合ってるように見えることがあります。3弦はオクターブピッチがずれやすいから、開放弦だけ合っていてもフレットを押さえると狂う場合が」
言ってしまってから、口を閉じた。なんで私がそんなことを知っているのか、自分でも分からない。いや、知っている。昔からネットで音楽の知識ばかり読んでいたからだ。聞こえる音の正体を知りたくて、楽器の仕組みや音響の記事を読みふけった。でもそれは独学というほど立派なものじゃなくて、ただの——暇つぶし。
「ちょっと待って。今すぐ試していい?」
遥さんはスマホを取り出して、誰かにメッセージを打った。十秒もしないうちに返信が来た。
「蓮、今弾いてって言った。聞いて」
階下から、ギターの音が聞こえた。さっきと同じフレーズ。3弦を含むコードのところで、やっぱり濁る。遥さんが私を見ている。
「……やっぱり、3弦です。サビの頭のCメジャーで、長三度が低くぶら下がってる」
遥さんはまたスマホを叩いた。しばらく待って、ギターの音が止まった。ペグを回しているのだろう。カリカリという微かな音が、風に乗って聞こえた気がした。気のせいかもしれない。でも。
数十秒後、ギターが鳴った。同じフレーズ。
——澄んでいた。
キーボードのコードとギターの響きが、きれいに噛み合っている。昨日からずっと耳の奥に引っかかっていた膜が、すっと剥がれた。息が楽になった。理屈じゃなくて、身体が先にほっとしていた。
「うそ、まじで」
遥さんがフェンスから身を乗り出した。
「合ってる。めちゃくちゃ合ってる。昨日からずっとこれで揉めてたのに」
スマホに着信が入った。遥さんが出ると、向こう側から男の声が聞こえた。早口で何か言っている。遥さんは「あとで説明する」とだけ返して切った。
「真白ちゃん」
遥さんが向き直った。さっきまでの柔らかさはそのままなのに、目だけが真剣だった。夕方の光が横から差していて、遥さんの髪の毛先が金色に透けている。
「明日の放課後、音楽室に来てくれない?」
「え」
「バンドの練習、聴いてほしいの。今みたいに、おかしいところがあったら教えてほしい」
言葉が出なかった。フェンスを掴む指に力が入って、金属の格子が掌に食い込んでいた。
音楽室。あの、ドアの向こう側。知らない人が三人もいて、ギターの人はさっき声のトーンからして気が強そうで、私は名前も知らない人たちの輪にいきなり入って——
「無理、です」
声が小さかった。遥さんは怒らなかった。
「そっか。じゃあ、もし気が変わったらでいいよ。放課後の音楽室、鍵は開いてるから」
押さない。追いかけない。ただそう言って、遥さんは扉のほうに歩いていった。ペットボトルを軽く振って、「お茶、足りなくなっちゃった」と独り言みたいに笑った。
扉が閉まる直前、遥さんが振り返った。
「さっき歌ってたの、真白ちゃんだよね。すごくいい声してた」
扉が閉まった。
コンクリートの床に座り込んだ。膝が少しだけ震えていた。心臓がうるさい。さっきの会話を頭の中で巻き戻す。3弦。半音。合わせ直したらきれいに鳴った。遥さんの声。「明日、音楽室に来てくれない?」
無理、と言った。正しい判断のはずだった。
でも——あの音が噛み合った瞬間、身体がほっとしたのは嘘じゃない。
ずっと喉に刺さっていた小骨が取れたみたいな、あの感覚。あれは、他の誰かの音が正しい場所に収まったから生まれたものだ。自分ひとりで歌っているときには、絶対に得られないもの。
チャイムが鳴った。五限目。私は立ち上がって、スカートの埃を払って、階段を降りた。
教室に戻ると、高瀬さんが「どこ行ってたの?」と聞いてきた。「お手洗い」と答えた。いつもの嘘。高瀬さんは「そっか」と笑って、前を向いた。
放課後、昇降口に向かう廊下で、音楽室の前を通った。今日はドアが閉まっていた。でも、隙間から漏れる音が聞こえた。さっき遥さんが合わせ直させたギターの音。3弦はまだ正しい位置にいた。
ほんの少しだけ、足が遅くなった。
——明日。明日の放課後。鍵は開いている。
私はイヤホンを耳にはめないまま、校門を出た。