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屋上から届く音

第1話 第1話「ワックスの匂う始業式」

第1話

第1話「ワックスの匂う始業式」

四月の朝は、まだ少しだけ冷たい。

始業式の日、私は誰よりも早く教室に着いた。廊下にはまだ上履きの足音もなくて、蛍光灯だけが白々しく点いている。ワックスの匂いが薄く残っていて、春休みの間に誰かが床を磨いたのだと分かる。窓際の、一番後ろの席。去年もその前もここだった。壁に近い席は隣が片側しかないから、グループを作るときに「余った」感じが少しだけ薄まる。そんな理由で選ぶ席を、誰も不思議に思わない。私がそこにいること自体、たぶん誰も気にしていないから。

鞄を椅子にかけて、窓を少しだけ開けた。桜はもう散りかけていて、花びらが一枚、机の上に落ちた。拾い上げると、指先がほんのり冷たかった。薄桃色の端が少し茶色く乾いていて、もう何日も枝にしがみついていたのだと分かった。机の端に置いてみたけれど、風が吹くたびに滑って落ちそうになるから、教科書の間に挟んだ。

始業式のざわめきが体育館を満たす頃には、私はもう今年の教室の空気を読み終えている。誰と誰が春休みの間に仲良くなったか。誰が誰を避けているか。声のトーン、笑い方の角度、視線が泳ぐ方向。そういうものが全部、耳から入ってくる。聞きたくなくても。体育館の壇上でマイクを握る校長先生の声は、PAスピーカーの右側だけ微かにハウリングしていた。気づいているのは私だけだろう。隣の女子はスマホを太ももの上で操作していて、反対側の男子は居眠りしかけている。私だけがあの高周波の滲みに肩をすくめていた。

ホームルームで担任が言った。「じゃあ最初のオリエンテーション、四人一組で——」

その瞬間、教室に小さな潮流が生まれる。目配せ、肘をつつく指先、囁き声。三秒もあれば、グループは決まる。私以外の全員の。椅子を引く音、机を寄せるガタガタという振動。それが波紋みたいに教室の前方から広がって、最後に私の席のあたりだけ静かに取り残される。いつものことだ。慣れている、と自分に言い聞かせる。慣れていると思わないと、次の呼吸がうまくできない。

「柊さん、こっち来る?」

声をかけてくれたのは、前の席の女の子だった。名前はまだ覚えていない。肩のあたりで揺れるボブカットと、制服の胸ポケットに刺さった黄色いボールペンだけが目に入った。彼女のグループは三人で、たぶん四人目が足りなかっただけだ。

「ありがとう」

笑って頷いた。ちゃんと笑えたと思う。練習はしてきたから。鏡の前で、口角をどれくらい上げれば自然に見えるか。目を細めるタイミング。声のトーンを半音だけ上げること。そういう技術を積み重ねて、私は「普通」を演じている。オリエンテーションの間、私はちゃんと相槌を打って、求められたときだけ短く答えた。多すぎず少なすぎず。透明でいることと、存在しないことの境界を、綱渡りみたいに歩く。

昼休みのチャイムが鳴った瞬間、私は教科書を鞄に戻すふりをして、誰にも声をかけず教室を出る。階段を上る。二階、三階、踊り場を曲がって、屋上への扉。錆びたドアノブを回すと、四月の風が正面からぶつかってきた。

ここが私の場所だった。

屋上のフェンスは校則で施錠されているはずなのに、いつからか鍵が壊れていて、知っている生徒はほとんどいない。コンクリートの床は埃っぽくて、隅に去年の落ち葉が溜まっている。でも空だけは広い。教室の天井よりずっと高くて、どこまでも続いていて、私の声を全部吸い込んでくれる。

フェンスに背中を預けて、息を吸った。空気が肺の底まで入ってくる感覚。教室では絶対にできない深さの呼吸。目を閉じると、風の音だけが耳を満たして、さっきまで頭の中で渦巻いていた教室のざわめきの残響が少しずつ薄れていく。

歌い始めるのに理由はいらない。中学二年の秋からずっとそうだった。屋上で、誰もいない場所で、空に向かって声を出す。音楽の授業で習った曲でも、テレビで聞いた歌でもない。メロディと呼べるかも怪しい、ただの声の連なり。でも歌っているとき、胸の底にある重たいものが少しだけ浮き上がる気がした。声が喉を通るたび、身体の内側にこもっていた何かが外に出ていく。それは言葉にならない感情で、だから歌にしかならない。

誰かと一緒にいたいと思う自分と、一人のほうが楽だと知っている自分。その二つが喧嘩しないのは、歌っているときだけだ。

風が強くなった。髪が顔にかかって、それを耳にかけ直したとき、階段の下から音が聞こえた。

ギターの音だ。

壁越し、たぶん四階の音楽室あたりから。エレキギターの、少しこもった響き。それからキーボードが重なって、ベースが追いかけてくる。バンドの練習だ。この時期にもう始めているということは、たぶん学園祭に向けてだろう。

私は歌うのをやめて、耳を傾けた。

悪くない。リズムは安定しているし、ベースラインがちゃんと曲を支えている。ボーカルはいないのか、インストだけで回している。でも——

何かが引っかかった。

キーボードのコードとギターのフレーズが、ときどきぶつかる。ほんの僅かな濁り。他の人なら気にならないかもしれない。でも私の耳はそれを拾ってしまう。ずっと昔からそうだった。教室のざわめきの中から先生の独り言を聞き取ったり、隣の部屋のテレビの音量が一つ上がったことに気づいたり。お母さんには「耳がいいのね」と言われた。それだけのことだと思っていた。

ギターの音が、また少しだけ濁った。

私は無意識にフェンスを握る手に力を込めていた。金属の冷たさが掌に食い込む。濁りの正体は分かっている。分かっているのに、誰に言うこともできない。だって私はただの、グループ分けで余る側の高校生で、音楽室のドアを叩く理由なんて一つもない。

演奏が止まった。少し間があって、もう一度同じフレーズが始まる。同じところで、また音がぶつかる。

——ギターの3弦だ。

半音だけ低い。ペグが少し緩んでいるか、弦が伸びているか。どちらにしても、あの濁りはそこから来ている。キーボードは正しい。ギターだけがほんの少しだけずれていて、特定のコード進行でぶつかる。

言いたかった。

誰でもいいから、あの音楽室にいる誰かに、3弦を合わせ直してと言いたかった。でもそれは私の役割じゃない。私は屋上でひとり歌う人間で、フェンスの向こう側の空だけが観客で、それでいいはずだった。

風が止んで、演奏も止まった。階段の下から、誰かが言い合う声がかすかに聞こえた。言葉までは分からない。でも声のトーンで分かる。怒っているんじゃない、困っているんだ。低い声がもどかしそうに途切れて、高い声が早口で何かを返す。もう一つの声が間に入ろうとして、すぐに黙る。あのバンドの三人だろう。原因が分からないまま、同じフレーズを何度も繰り返して、何度も同じ壁にぶつかっている。

私はフェンスから背中を離して、屋上の扉に手をかけた。

開けない。開ける理由がない。

指先がドアノブの錆に触れたまま、数秒。心臓が少しだけ速く打っているのが分かった。あの濁りを直す方法を知っている。でも知っていることと、それを伝えに行くことの間には、私にとっては海くらいの距離がある。

チャイムが鳴った。五限目が始まる。私は階段を降りて、教室に戻って、何事もなかったように窓際の席に座る。午後の授業は世界史で、先生の声は低くて少し鼻にかかっていて、教室の時計の秒針は微かに遅れていた。そういう、どうでもいいことばかりが耳に入ってくる。

放課後、鞄を持って昇降口に向かう途中、音楽室の前を通った。ドアは半開きで、中から笑い声が聞こえた。さっきの険悪さは消えているみたいだった。

でも、練習を再開した音の中に、あの濁りはまだあった。

3弦。半音。低い。

私は足を速めて、昇降口を出た。四月の風はもう冷たくなくて、夕陽がアスファルトをオレンジに染めていた。靴底がタイルを叩く音が、自分の足音だけになって初めて、校門をくぐったことに気づいた。イヤホンを耳にはめて、音楽を流す。誰かの声が世界を埋めてくれれば、自分の耳が拾う余計なものを少しだけ忘れられる。

——でも今日は、イヤホン越しにも、あのギターの濁りが耳の奥に残っていた。

明日も屋上に行けば、きっとまた聞こえる。あの音を、私はたぶん、聞こえないふりができない。

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