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紫陽花の記憶、君だけが知らない

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝、雨は上がっていた。

障子を開けると、濡れた庭石の上でまだ水滴が光っていた。梅の葉の縁から、ぽたり、と一滴が落ちて、苔の上に小さな黒い染みを作る。その染みの輪郭を、しばらく目で追っていた。視線を動かさずにいると、息をする以外の動作をすべて忘れてしまいそうだった。

「湊、起きてる? 黒いネクタイ、襟元に曲がりあるから直してね」

台所から母の声が飛んできた。ハンガーに掛かった喪服とは違うダークスーツが、鴨居に揺れている。通夜ではなく、親族の集まり。けれど選ばれた色は、半分喪服のままだった。

胸ポケットに、昨日の藁半紙の切れ端があった。折り畳んで、内ポケットの奥に移している。スーツに着替えるとき、一度だけ指でその厚みを確かめた。心臓の手前にいる八歳の自分が、息をひそめてこちらを見ている気がした。

本家まで、歩いて十五分の距離を車で送ってもらった。助手席に座る母の横顔が、昨日よりずっと疲れていた。ハンドルを握る手の甲に、細かな皺が浮いている。祖母の葬儀からまだ一週間も経っていない。

「湊、あのね」

信号の赤で止まる直前、母が言った。

「今日、誰が何を言っても、返事を急がないで。決めるのはあんたよ」

「……うん」

「おばあちゃんが生前に口にしてたこと、それ自体は事実。でもね、それで誰かを縛っていいのは、おばあちゃん自身だけよ。あんたと、凛ちゃんを縛っていいのは、あんたたちだけ」

信号が青に変わった。母はそれ以上何も言わず、車を発進させた。言葉の重さだけが、座席にじっとりと残った。

---

本家の玄関には、すでに何足もの革靴が並んでいた。上座の床の間を背負った伯父——父の兄が、座布団の上で煙管を磨いている。伯母は台所で茶の用意をしていて、いとこたちは中庭に面した広縁でスマートフォンをいじっていた。

座敷の真ん中には、風呂敷包みが三つ。祖母の預金通帳、権利証、そして、書類の束。

「湊くん、ちょっとこっち座りなさい」

伯父が煙管を置いて、隣の座布団を指した。家族の序列で決まっている席順。三男の末っ子である父の、さらにその子である僕は、本来ならいちばん末席でよかった。けれど今日は、呼ばれた。それだけで、もう議題は決まっていた。

書類を読み上げる行政書士の声が続いた。土地。建物。僅かな預金。持ち分は三分の一ずつ。異論はなかった。祖父と祖母が、最後まで質素に生きていたことは、数字が勝手に証明していた。

行政書士が部屋を辞した直後、伯父が最初に切り出した。

「ところで、湊くん。お母さんから、話は聞いとるかな」

「……口約束のこと、ですか」

「そうだ」

煙管の雁首で、畳の縁をこつこつと叩く。

「うちの母と、向こうの——竹内さんとこの、凛ちゃんのおじいさんだ。あの二人が、生前に交わしとったな。孫同士を、一緒にしてやりたいと」

「湊、覚えてるか」

伯父の隣で、次男の伯父が口を開いた。

「祭りのあとに両家で集まる習慣があったろう。酒が入ると、あの二人はいつも冗談みたいにその話をしとった。湊と凛を並べて、な」

「冗談ですよね」

言葉が、自分のものとは思えないほど硬く出た。

「冗談だったら、今日ここに書類は回らん」

伯父が、僕を見た。煙管を置いた指が、机の上で組まれた。

「亡くなる半年前、母は凛ちゃんの母親に改めて会いに行っとる。湊が独り身のままならば、ぜひ、と。向こうも、あの子の事故のあとだから、話を受けとめてはくれとったそうだ」

「僕は、そんな話、聞いていません」

「そらそうよ。あんたが帰ってこないうちから、勝手に進められた話だ。ただ、母の最期の気持ちを踏むか、掬うかは、あんたが決めることだ」

伯母が茶を運んできた。湯呑みの湯気が、座敷の空気をさらに重くした。誰も、すぐには口をつけなかった。

「おばあちゃんはな、あんたが東京で頑張っとるあいだ、ずっとあんたの写真を仏壇の横に置いとった。凛ちゃんのことも、同じ棚に置いとったよ。凛ちゃんが月に一度、花を届けに来てくれるたび、それを見せて『この子が』って話しとった」

「……」

「話を進めろとは言わん。けどな、一度、二人で話す席だけは設けてやってくれんか」

誰も、凛本人の意思は口に出さなかった。口約束の側にいるのは、祖父母と、親の世代と、親族の古い記憶だけで、その真ん中に呼び出されたはずの若い二人は、どちらも、まだこの部屋にいない。

胸ポケットの紙が、上着越しにじりじりと熱を持っていく気がした。八歳のときに鉛筆で書いた約束と、七十年前の酒席で交わされたという口約束が、今、同じ一枚の畳の上で重ねられようとしていた。どちらも、凛の同意を取っていない、こちら側だけの約束だった。

「……少し、考えさせてください」

やっと出た声は、自分の耳にも頼りなかった。伯父が、わずかに頷いた。

「湊くんが、湊くんなりに考えるなら、それでいい。急ぎはせん」

その言葉だけで、もう急かされている気がした。

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本家を出て、祖母の家に戻ったのは昼過ぎだった。

門の前に、白い軽自動車が停まっていた。運転席で、誰かが目を閉じて俯いている。見覚えのあるシルエット。母が助手席を降りて、窓を軽く叩くと、運転席の女性が肩を震わせて顔を上げた。

「……あら。凛ちゃんの、お母さん」

凛の母——竹内雅子さんは、こちらに気づくと、慌てて車を降りた。グレーのカーディガンの裾が、風に軽く持ち上がる。目のふちが、赤かった。

「すみません、突然。お留守でしたから、中にお邪魔するのも気が引けて……」

「入ってください。ちょうど、お茶を淹れようと思ってたところ」

母が、先に玄関を開けた。

雅子さんは、卓袱台の前に正座すると、膝の上で両手を固く握った。白と紫の花束——昨日、凛が活けていったもの——が、卓袱台の斜め向こうで、少しだけ首を垂れ始めていた。

「昨日、娘から、湊さんが東京から帰っていらしたと聞いて」

「そうですか」

「今日、親戚のお集まりがあると、母からも聞いていました。ご負担になってしまっているのではと思って、どうしても、先にお話ししておきたくて」

母は黙って台所に消えた。雅子さんと二人、居間に残された。雨上がりの畳のしっとりした匂いと、花瓶の水の匂いが、同じ場所で混ざっていた。

「事故の直後は、私を見ても、母親だと分からなかった時期もあったんです。毎朝、鏡の前に座って、自分の顔を、知らない女の人を見るように眺めていて」

雅子さんの指先が、膝の上でわずかに震えた。

「それでも、あの子は泣き言ひとつ言わず、立ち直りました。花屋を継いだのも、自分で決めたことです。私たちが、何もしてあげられないまま」

「……」

「湊さん」

呼びかけられて、背筋が伸びた。

「お互いのおじいさん、おばあさんの口約束の話、本当のところは、私も、どこまで本気だったのか分からないんです。ただね、あの子が昔、湊さんによく懐いていたことは、覚えています。お盆のたびに、商店街の入り口で待ち伏せして、東京から戻ってきた湊さんを見つけると、全速力で走り出したこと。中学に上がるころには、もう照れて、半分物陰に隠れるようになっていたことも」

畳の目を、じっと見つめた。声にならない何かが、胸のいちばん奥で詰まっていた。

「あの子の中から、湊さんとの時間は、全部、抜け落ちています。それは、もう、取り戻せないかもしれません。でもね」

雅子さんは、目を伏せたまま続けた。

「記憶を取り戻してほしい、ということじゃないんです。ただ、あの子に、一度でいいから、もう一度、昔みたいに誰かと親しくなる時間を、返してあげたくて。湊さんに、あの子を『知らない人』のままにしないでもらえないでしょうか」

涙が、一粒、雅子さんの頬を落ちた。畳の上に、小さな染みがひとつできた。それは、朝、庭の苔の上に落ちた雨粒の染みと、形がよく似ていた。

口約束に縛られたくない、という昼間の苛立ちは、この人の涙の前で、急速に形を失っていった。縛られているのは自分だけではなかった。忘れられた側だけでもなかった。忘れてしまった娘の代わりに、母親が、十年分の申し訳なさを引き受けようとしていた。

「少しだけ、考えさせてください」

同じ答えを、今日二度目、口にした。けれど今度は、もう、「考える」の意味が昼とは違っていた。断る言い訳を探す時間ではなかった。どう踏み込むかを決める時間だった。

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雅子さんが帰ったあと、縁側に出て、庭の石を長いあいだ見ていた。

朝の染みは、もう乾いていた。代わりに、胸の内側に、べつの染みが広がっている。

凛の記憶を取り戻そうとは思わない。十年離れていた僕に、そんな権利はない。けれど、「知らない人」のまま戻るには、もう、紫陽花の青を見てしまっていた。祖母の選んだ花の色を、凛の指先が今も扱っていることを知ってしまっていた。

偽りでいい。形だけでもいい。期限を決めて、条件を決めて、彼女が「降りたい」と言えば、いつでも降りられる約束。親族の口約束を正面から壊すのではなく、迂回する方法。彼女の「今」を壊さずに、そこに、自分の時間を少しだけ預ける方法。

——偽りの婚約。

言葉にしてしまうと、ひどく軽薄な響きがした。けれどそれ以外に、僕には、差し出せるものがなかった。

胸ポケットから、藁半紙の切れ端を出した。八歳の自分の、震える鉛筆の線。十七年前、縁側でアイスを溶かしていた子ども同士の落書きが、いま、背中を押してくる。

紙を内ポケットに戻して、立ち上がった。

明日の朝一番で、商店街に行こうと決めた。雨上がりの、水を含んだ紫陽花の匂いが、まだしているうちに。

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