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紫陽花の記憶、君だけが知らない

第2話 第2話

第2話

第2話

翌朝は、雨の匂いで目が覚めた。

障子の隙間から入ってくる光が、ぼんやりと灰色を含んでいた。庭の方から、葉を叩く雨音が途切れなく続いている。布団の中で伸びをすると、畳のわずかな沈みが背中にあたって、東京の部屋との違いを思い出させた。枕元に裏返してあった写真が、そのままになっていた。八歳の夏の、二人分の笑顔。もう一度表に返す勇気はなくて、指の腹で厚紙の角を撫でただけで、また裏に戻した。

居間に降りると、母はもう卓袱台の前にいた。段ボール箱がひとつ開いたまま、傍らにマグカップが湯気もなく置かれている。淹れたことを忘れたのだろう。

「早いね」

「目が覚めちゃって」

母は短く答えて、押し入れの奥を指した。

「湊、あの箪笥の中身、見てくれる? お母さんじゃ手が回らないから」

「どれ」

「一番上の、小抽き出し。貴重品っぽいのがまとめてあったはず」

押し入れから桐箪笥を引き出した。取っ手の漆が剥げていて、指先にかすかな木の匂いがつく。引いた板の重みが思っていたより軽くて、中身の少なさを先に教えられたような気がした。一段目は帯留めと白粉の小瓶。象牙色の小箱の蓋を開けると、中から微かな白檀の香りが立ち上って、祖母の鏡台の前に座っていた幼い日の自分が、ふっと胸の奥で蘇った。二段目は色褪せた手紙の束。祖父の字と、見覚えのない男の字が交ざっていた。輪ゴムは劣化して指で触れただけで切れ、ぱらりと束が崩れた。

三段目を開けたとき、指が止まった。

一番奥に、名刺よりひとまわり小さい封筒があった。角がめくれて、糊の跡だけが残っている。何度も開け閉めされたのだろう、封の縁が毛羽立っていた。中身を取り出すと、藁半紙の切れ端だった。鉛筆の跡が、うっすらと浮いている。指先で持ち上げると、紙はもう乾いた花びらのように軽く、息を吹きかければ飛んでしまいそうだった。

『けっこんのやくそく  おおきくなったら  みなと と りん は  けっこんします』

字は、僕のものだ。「と」が裏返しになっているのも、「み」のはねが足りないのも、見覚えがある。たぶん八歳か九歳のころ。縁側でアイスを食べた日の続きだった。凛が「やくそく、紙に書こう」と言って、祖母の家の引き出しから藁半紙を一枚持ってきた。書くとき、凛は身を乗り出して僕の手元を覗き込んでいた。髪の先が、僕の肘に触れていた。シャンプーなのか、汗なのか、子どもの体温そのものなのか分からない、甘い匂いがしたのを覚えている。そういう細かい皮膚の記憶だけが、こちらの中でまだ生きている。

——嘘だろ。

喉の奥が薄く乾いた。祖母は、これを取っておいたのか。十七年。畳一枚分の引き出しの、いちばん奥に。誰にも見つからない場所に、けれど捨てもせず、忘れもせず。

「どうしたの」

母の声に、反射的に紙を折り畳んで胸ポケットに入れた。心臓の上に紙の角が当たって、その固さが、自分の鼓動を逆に意識させた。

「ううん。古いメモ」

嘘をつく声が、思ったより落ち着いていた。母はもう別の箱に向き直っていて、こちらの手元までは見ていなかった。

玄関のチャイムが鳴ったのは、その直後だった。

「はーい」

母が腰を上げる。僕は卓袱台の前に残って、膝の上で手をゆっくり開いた。封筒の紙の匂いが、指先にまだ残っていた。

「湊、ちょっと来て」

母の声が、少しだけ緊張を含んでいた。廊下に出ると、開いた玄関の向こうに、水色のレインコートを着た人が立っていた。

凛だった。

手には透明なフィルムに包まれた花束。白と、薄紫。

「ご注文のお花、お届けに上がりました」

凛は母に頭を下げたあと、こちらに気づいて、同じ丁寧さで僕にも会釈した。昨日と同じ、通りすがりの客に向けるのと寸分変わらない礼だった。違うのは、今日は僕のほうが、彼女の前から動けないことだ。

「あら、凛ちゃん。こちら、息子の湊」

「存じています」

凛は軽く目を細めて頷いた。

「おばあさまから、お話はよく伺っていました」

「……祖母から」

「はい。『東京の孫が、そのうちまた帰ってくるかもしれない』って」

もう来ないかもしれない、ではなく、また、と祖母は言ったのか。息を吸い込むと、雨と、花の茎の青い匂いが、一緒に入ってきた。

「上がってもらったら? 雨降ってるし」

母の声に、凛が一瞬だけ迷う気配を見せた。

「では、少しだけ」

居間の卓袱台に花瓶を出し、凛が慣れた手つきで花束を解いていく。白いスプレー菊、紫色のトルコキキョウ、小さな葉物。指の動きに、ためらいがない。フィルムを剥がす微かな音と、茎を切る鋏の硬い金属音が、雨音の合間に短く挟まった。

「これ、おばあさまが一番気に入ってた組み合わせなんです」

「そうなの?」

「去年の夏からずっと、同じです。月に一度」

凛は茎を揃えながら、淡々と続けた。

「仏壇のおじいさまに、って。『地味すぎないのがいい』っておっしゃって」

母が小さく息を呑む音がした。祖父の命日の花ではなく、月に一度の花を、祖母が自分で選びに来ていたこと。母も、たぶん知らなかったのだろう。

「私、そんなの、全然……」

「お電話では、いつもお元気でしたよ」

凛は母を見て、少しだけ笑った。花の茎を揃える手は止めない。鋏の刃が斜めに茎を切るたび、切り口から透明な液がにじんで、凛の指先を細く濡らしていた。

「月に一度、ご自分でお店まで歩いて。帰り道の坂で休むからって、下りの便が楽な十一時を選んでらして。商店街でお菓子を買って、家で召し上がるのが楽しみだっておっしゃってました。お店の奥で、お茶を飲んでいかれる日もあって」

「お茶」

「ほうじ茶を、ぬるめに」

僕はただ、黙って花の匂いを吸っていた。

ほうじ茶をぬるめに、という一語が、舌の奥に苦く広がった。祖母が熱い飲み物をうまく飲めなくなっていたことを、僕は知らない。正月に電話をかけるのは一年に一度、それも五分で切った。「大丈夫よ」以外の返事を、引き出そうとしなかった。月に一度、花屋まで歩いて出てきていたこと。その時間に、凛が横にいたこと。そのあいだ僕は東京で、終電の駅から地下通路を抜けて、誰の顔も思い出さずに自分の部屋まで帰っていた。

昨夜、覚えているのは僕だけだと思った。

違った。祖母の最後の時間を覚えているのは、凛だった。

胸ポケットの紙が、体温でうっすらと温まっていく。八歳の僕が書いた約束は、凛のなかからはすでに消えている。けれど祖母が選んだ花の色と、ぬるめのほうじ茶は、凛のなかにきちんと残っている。どちらが正しい記憶のかたちなのか、僕には決められなかった。覚えていることが愛しさの証だとは、誰も言ってくれなかった。覚えられていないことが、罪だとも。

「あの」

気がついたら、声が出ていた。凛が顔を上げる。

「……祖母、最後に店に来たのは、いつ頃だった」

少し間があった。凛は花を持った手のまま、小さく首を傾げた。

「三週間前です。紫陽花を、一本」

「紫陽花」

「水色の。『梅雨が好きだったから』って、笑ってらっしゃいました」

昨日、店先で凛が並べていた花だ。僕が足を止めた、あの花。あの瞬間、足を止めさせたのは色でも形でもなく、たぶん祖母の選んだ視線そのものだったのかもしれない、と今になって思った。

凛は花瓶に最後の一輪を挿して、卓袱台の上に白と紫が静かに揃った。立ち上がり際に、こちらを一度だけ、ほんの少し長く見た。人違いかどうかを確かめるような、そんな目の動きだった。

「すみません。長居してしまって」

「ううん。ありがとう、助かった」

母の声に送られて、凛は玄関で軽く頭を下げ、レインコートの襟を立てた。

「湊さん」

玄関の三和土で、彼女が一度だけこちらを振り返った。

「明日、親戚の集まりがあるって、伺いました」

「……うん」

「おばあさま、生前、その話を気にされてました。どうか、お身体に気をつけて」

返事をする前に、ドアが閉まった。雨の音と、花の青い匂いだけが残った。

母が花瓶を仏壇の前に運んで、長く手を合わせていた。線香に火をつける指が、いつもより少しだけ震えているように見えた。

僕は居間に戻り、胸ポケットから紙を出した。畳の上に広げると、鉛筆の線が、少しだけ震えているのが見えた。八歳の指は、これを書くとき、たぶん緊張していた。紙の隅に、指先で撫でたような汚れがある。祖母のものか、凛のものか、もうわからない。

「それ、何」

戻ってきた母の声は、もう咎めていなかった。

「……八歳のとき、凛と書いた」

母は少しだけ目を伏せて、そのあと、畳の上の紙から視線を外した。

「湊。明日の集まりね」

「うん」

「おじいちゃんたちの口約束——凛ちゃんの家との、あれ。明日の議題に上がるから。覚悟しておいて」

雨の音が、ふいに大きくなった気がした。

紙を畳の上に残したまま、僕は胸ポケットに手をあてた。忘れられた側と、忘れられなかった側の両方から、約束が、こちらに向かって歩いてきていた。

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