第1話
第1話
祖母が死んだと聞いたのは、金曜の夜だった。
残業帰りの総武線、吊り革につかまりながら母からの着信を見て、少しだけ迷った。出なくてもいい理由はいくらでもあった。明日の商談資料、週末に片づけるはずだった部屋、月曜の会議。けれど親指は通話ボタンを押していた。
「湊、おばあちゃんがね——」
母の声が震えていた。受話器の向こうで鼻をすする音がして、それから長い沈黙があった。言葉を待つ間、電車が駅に滑り込む。ドアが開いて、冷たい空気が車内に流れ込んだ。
三日後、僕は十年ぶりの故郷にいた。
六月の半ば。梅雨の晴れ間の陽射しが、見覚えのある商店街のアスファルトを白く照らしていた。駅前のロータリーは記憶よりずっと小さくて、タクシー乗り場の看板が色褪せていた。スーツケースを引く音が、静かな通りにやけに響く。
祖母の家に向かう道すがら、商店街を抜ける。シャッターの降りた店が増えていた。かつて僕と同級生がよく通った駄菓子屋は、今はコインランドリーに変わっている。十年。その時間の重さが、閉じたシャッターの数だけ腹の底に積もっていく。
花屋の前を通りかかったとき、店先から誰かが出てきた。
エプロン姿の女性が、バケツに入った紫陽花を表に並べている。薄い水色と、少しくすんだ紫。みずみずしい花弁に陽が当たって、店先だけが切り取られたように鮮やかだった。水を含んだ花の匂いが、アスファルトの熱気と混ざって鼻先に届く。甘くて、少し青くて、どこか懐かしい匂いだった。
足が止まった。
横顔が見えた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。耳の下で束ねた髪、少しだけ前かがみになる姿勢、花を扱うときの指先の丁寧さ。十年分の時間が巻き戻るように、知っている輪郭が重なる。
——凛。
声には出さなかった。出せなかった。彼女が顔を上げてこちらを見る。目が合う。数秒。その数秒が、引き伸ばされたように長かった。彼女の瞳に映る僕は、ただの見知らぬ通行人で、そこには再会の驚きも、十年分の怒りも、何もなかった。
「いらっしゃいませ」
それだけだった。軽い会釈をひとつ添えて、彼女は次のバケツに手を伸ばした。まるで通りすがりの客に向けるのと同じ、当たり障りのない笑顔。僕の名前を呼ぶ気配は、欠片もなかった。
何か言おうとして、喉が詰まった。結局、僕は曖昧に頭を下げて、スーツケースを引きながら歩き出した。背中に、紫陽花の青い残像がいつまでも貼りついていた。
---
祖母の家は、記憶の中よりも小さかった。
玄関を開けると、線香と古い畳の匂いが混じった空気が鼻を突く。母はすでに来ていて、居間の卓袱台の前に座り、段ボール箱を開けているところだった。
「遠かったでしょ。お疲れさま」
「うん。……思ったより変わってなかった、この辺」
嘘だった。変わっていた。商店街も、道幅も、そして花屋の前に立っていた彼女も。
僕はスーツケースを廊下に置いて、母の向かいに腰を下ろした。卓袱台の上には祖母の眼鏡ケース、古びた手帳、通帳の束。生活の痕跡が、整理される順番を待って並んでいる。
「明日、不動産屋さんが来るから。この家どうするか、一応話だけでもって」
「わかった」
母の説明を聞きながら、押し入れの中にある段ボール箱に手を伸ばした。蓋を開けると、ビニール袋に入った写真が何十枚も出てくる。祖母の若い頃の写真、知らない親戚の集合写真、そして——
指が止まった。
色褪せた一枚。夏の縁側で、麦わら帽子をかぶった男の子と、ワンピースの女の子が並んで座っている。二人ともアイスを持って、カメラに向かって歯を見せて笑っていた。
男の子は、僕だ。
隣の女の子が誰なのかも、すぐにわかった。
写真の表面に指で触れた。わずかにざらついた感触。現像のインクが少し滲んで、女の子のワンピースの柄がぼやけている。それでも二人の笑顔だけは、はっきりと残っていた。
「……お母さん」
「ん?」
「さっき、商店街通ってきたんだけど。花屋があったよね、角のところに」
母の手が止まった。通帳を持ったまま、少しだけ目を伏せる。
「凛ちゃんのお店ね」
「凛が、花屋をやってるの」
「三年くらい前からかな。おばあちゃんもよく買いに行ってたみたい」
写真の中の女の子の笑顔と、さっき僕に向けられた他人行儀な会釈が、頭の中で重なって、すぐに離れた。同じ人なのに、まるで別の人みたいだった。
「……さっき、店の前を通ったんだ。凛がいた」
「会ったの?」
「会ったっていうか——見かけただけ。向こうは、僕のことわからないみたいだった」
母が小さく息を吐いた。その音が、悪い予感の輪郭を持っていた。
「湊、あのね。凛ちゃん——三年前に事故に遭って」
「事故?」
「交通事故。命は助かったけど、記憶が……。幼稚園のころから、高校くらいまでの記憶がなくなっちゃったんだって」
居間の空気が、一瞬だけ動きを止めた気がした。庭から蝉の鳴き声が聞こえてくる。六月にはまだ早いはずなのに。いや、違う。あれはただの耳鳴りだ。
「なくなった」
自分の声が、妙に平坦に聞こえた。言葉の意味を頭が処理するより先に、口が繰り返しただけだった。幼稚園から、高校まで。それはつまり——僕たちが一緒にいた時間の全部だ。夏祭りの金魚すくいも、登下校の通学路も、中学の文化祭も、高校の屋上で交わした言葉も。全部が、彼女の中にはない。
手の中の写真が、急にひどく重くなった。二人分の記憶が詰まっていたはずの一枚は、今は僕の側にしか重さがない。
「お医者さんは、戻るかもしれないし、戻らないかもしれないって。凛ちゃん自身はもう受け入れてるみたいだけど……」
母が僕を見る目に、憐れみに似た何かが混じっていた。この人は知っているのだ。僕が十年前、この町を出るとき、何を置いていったのかを。
写真をもう一度見た。アイスが溶けかけている。僕の方がほんの少し背が高くて、凛の方がほんの少し笑顔が大きい。裏に、祖母の字で「湊 凛 八歳の夏」と書いてあった。
八歳の夏。あの日、縁側で凛が言ったのだ。
——ねえ、大人になったら結婚しよう。
僕は本気にした。凛も本気だった。少なくとも、八歳の僕たちにとっては。
写真を裏返して、段ボール箱に戻した。
---
その夜、布団の中で天井を見つめていた。
祖母の家の天井は、昔と同じ木目の染みがある。子供の頃、この染みが人の顔に見えて怖かったことを覚えている。今は、ただの染みだ。
凛は僕を覚えていない。
あの写真の中の夏も、縁側の約束も、一緒に捕まえたカブトムシも、川で転んで泣いた凛を背負って帰った日も。全部、彼女の中からなくなっている。
痛い、と思った。けれど、その痛みに名前をつけるのは間違っている気がした。僕は十年、帰らなかった。彼女が事故に遭ったことすら知らなかった。記憶を失って苦しんでいる間、僕は東京で何をしていた? 月曜の会議資料を直し、火曜の飲み会を断り、水曜のコンビニ弁当を食べていた。
覚えていることに意味があるのだろうか。覚えているだけで何もしなかった人間に、痛いと言う資格はあるのだろうか。
携帯が光った。母からのメッセージ。
『明後日、おばあちゃんの遺産のことで親戚が集まるって。湊も出てね』
何気なく返信しようとして、指が止まった。母から聞いた言葉が蘇る。
——凛ちゃんのおじいちゃんと、おばあちゃんが生前に約束してたことがあるらしいの。
それが何なのかは、まだ聞いていない。聞かなくても、嫌な予感だけが胸の底に沈んでいた。
『わかった』と打って、画面を閉じた。
暗い天井に、花屋の前で見た凛の横顔がちらつく。紫陽花を並べる手つき。他人に向ける丁寧な笑顔。「いらっしゃいませ」という、何の痛みもない声。
あの距離が、たぶん今の僕たちの正しい距離なのだろう。十年も離れていた人間が、突然現れて「覚えてるか」と聞くのは、暴力に近い。
それでも。
写真の中の八歳の凛が、笑っている。
覚えているのは僕だけで、届かないのも僕だけで、それが——ただ、痛い。
枕元に置いた写真を裏返した。木目の染みを見つめながら、いつのまにか目を閉じていた。遠くで、最終電車の踏切の音が聞こえた気がした。