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山あいの台所

第1話 第1話

第1話

第1話

深夜の高速バスは、乗客の半分が眠ったあたりで山間部に入った。

窓ガラスに映る自分の顔を、見ないようにしていた。目を逸らしても暗い車窓が鏡になって、やつれた輪郭を返してくる。頬骨が浮いて、目の下に影が溜まっている。四ヶ月前にはなかった顔だ。いや、あったのかもしれない。鏡をまともに見る習慣を、いつの間にか失くしていた。足元のスーツケースはひとつ。財布には三万円と少し。それが佐伯拓真、三十五歳の全財産だった。

座席のポケットに押し込んだスマホが、もう何も通知を出さなくなって久い。父からの着信は半年前に途絶えた。十七件の不在着信。一度も出なかった。最初の頃はまだ、画面が光るたびに指が震えていた。着信音を消して、バイブレーションだけにして、それでも尻のポケットで震える感触が心臓に直接響くようで、最後には電源を切った日もある。いまは何も感じない。感じないふりが上手くなっただけかもしれないが、その区別をつける気力も残っていなかった。

前の座席から毛布のほつれた繊維が垂れ下がっていて、エアコンの風に揺れている。バスの中は暖房が効きすぎていた。リクライニングを倒した隣の中年男が低く鼾をかいていて、その呼吸の規則正しさがかえって拓真の眠れなさを際立たせた。

バスが大きく揺れて、カーテンの隙間から棚田の残骸が見えた。月明かりに照らされた段々の輪郭は、水が抜かれて久しいのか、草に覆われてただの斜面に戻りかけている。誰かが手をかけなくなった土地が、静かに元の姿に還ろうとしている。それを見ていたら、膝の上に置いた右手の指先が動いた。親指と人差し指が、何かを摘まむように小さく開閉する。包丁を握るときの癖だった。

気づいて、手を太ももに押しつけた。

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三時間前、新宿のバスターミナルで行き先を選んだとき、基準はひとつだった。誰も知り合いがいないこと。券売機の画面に並ぶ行き先の中から、聞き覚えのない地名を選んだ。料金は片道四千八百円。往復を買う気はなかった。降りたバス停の名前は聞いたことがなく、時刻表には一日三本のバスしか載っていなかった。夜明けにはまだ遠い時刻で、停留所の蛍光灯だけが白く灯っていた。蛍光灯の管の中で小さな虫が死んでいて、その影がコンクリートの上に黒く落ちていた。

集落への道を示す看板は、文字の半分が風雨に削られて読めなかった。残った画数から推測して、左の細い道に折れる。アスファルトがやがて砂利に変わり、砂利が土に変わった。スーツケースの車輪が何度も石に引っかかる。がりがりと乾いた音が夜の山に響いて、自分がここにいることを誰かに知らせてしまうようで、無意識に歩幅を狭めた。持ち上げて歩くと、中身の少なさが腕に伝わった。着替えが三日分と、洗面用具と、店で最後まで使っていたペティナイフが一本。なぜそれだけ持ってきたのか、自分でもわからなかった。

四月の夜気は思ったより冷たかった。東京では気にならなかった湿度が、山に囲まれると肌にまとわりつく。鼻の奥に土と枯草の匂いが届いて、それが都心の排気ガスと混じった空気とあまりに違うことに、足が一瞬止まった。深く吸い込むと、肺の奥まで冷たい空気が沁みて、咳き込みそうになった。息を吐くと白くなった。四月だというのに、山の夜は冬の名残を手放していなかった。

二十分ほど歩いて、最初に見えたのは人ではなく、放置された畑だった。支柱だけが残ったビニールハウスの骨組みが月光の下で白く浮かんでいる。ビニールの破片が支柱の一本に絡みついて、風が吹くたびにかさかさと音を立てていた。その向こうに家屋の影がいくつか並んでいたが、どの窓にも灯りはなかった。

道の両側に、鍵のかかった空き家が続く。表札が残っている家もあれば、外されて木の色が変わった跡だけの家もある。庭先の植木が伸び放題になって、玄関の引き戸を半分覆い隠していた。軒下に干されたままの洗濯ロープが、重さで弛んで地面につきそうになっている。物干し竿の片方が外れて、斜めに傾いでいた。ここを出た最後の人は、洗濯物を取り込んでから去ったのだろうか。人が暮らさなくなった家は、想像していたより早く家の形を失っていくのだと知った。

ここなら、誰にも見つからない。

その考えが浮かんだ瞬間、安堵と一緒に別の感情が腹の底からせり上がってきた。喉の奥が苦い。これは自己嫌悪の味だと、三十五年生きてきて初めて正確に理解した。

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店の最後の朝のことを、思い出すつもりはなかった。バスの中でも、砂利道を歩いている間も、意識して蓋をしていた。それでも暗い集落の道を歩いていると、記憶は勝手に滲み出してくる。

四ヶ月前の火曜日。定休日の朝だった。

仕入れ業者の矢野さんからの電話を切ったのが午前七時十二分。「佐伯さん、せめて今月分だけでも」という声を途中で断って、通話終了のボタンを押した。指が震えていたのか、二回押し損ねた。三回目でようやく画面が暗くなった。矢野さんの声は怒っていなかった。怒ってくれたほうが楽だった。静かな声で「せめて」と言われることの重さは、怒声の何倍も腹の底に沈む。

カウンター八席の小さなビストロ。開業して四年。最初の二年は順調だった。常連もついた。雑誌に載ったこともある。金曜の夜は予約で埋まって、仕込みが追いつかず朝の四時まで厨房に立つこともあった。あの頃は疲労すら心地よかった。自分の手で作った料理を誰かが口に運び、表情が変わる瞬間のために生きていた。それがコロナ禍で客足が消え、協力金では家賃の半分にもならず、つなぎの融資を重ねるうちに返済が借入を追い越した。

あの朝、厨房に立って最後に見たのは、磨き上げたステンレスの調理台に映る自分の手だった。まな板も包丁も、前日に洗って拭いて、いつも通りの場所に収めてあった。牛刀、ペティナイフ、出刃、柳刃。四本の刃が刃先を奥にして整然と並んでいる。どれも自分で研いだ。切れ味だけは、最後まで落とさなかった。冷蔵庫の仕込みは三日分。矢野さんへの支払いは二ヶ月分が溜まっていた。

鍵をカウンターの上に置いた。置いたというより、指から滑り落ちた。木のカウンターに鍵が当たる小さな金属音が、誰もいない店内に響いた。拾い直す気力がなく、そのまま裏口から出た。「店を畳みます」の一言が、誰にも言えなかった。言えば引き止められるからではない。言葉にした瞬間、四年間が本当に終わることに耐えられなかっただけだ。

あれから四ヶ月。矢野さんからの連絡は、途中から番号が変わった。おそらく弁護士に依頼したのだろう。父の着信が止まったのはその少し後だった。誰かが父に何かを伝えたのかもしれない。息子が借金を残して消えた、と。

考えても仕方のないことだった。考えても仕方のないことを、四ヶ月間ずっと考えている。

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集落の外れに、他より少しだけ状態のいい空き家があった。引き戸の前に立つと、ポストに紙が挟まっている。「管理希望の方は岩本まで」。電話番号が手書きで添えてあった。インクが薄れかけているが、読めないほどではない。この紙がここに挟まれてからどれくらい経ったのか。数ヶ月か、あるいは年単位か。

スーツケースを足元に置いて、暗い玄関を覗き込む。土間の匂いがした。埃と、かすかに残った生活の気配。古い木と、畳の藺草が枯れた匂い。その下にもうひとつ、台所の匂いが混じっている。油と、水回りの微かな湿気。誰かがここで朝食を作り、洗濯物を干し、夜に灯りを点けて暮らしていた。その痕跡が、空気の中にまだ溶けている。

ポストの紙を抜き取って、電話番号をスマホに打ち込んだ。時刻は午前三時を過ぎたところだった。さすがにいま電話はできない。朝になったら、かける。

スーツケースを引き戸の横に寄せて、その場にしゃがみ込んだ。コンクリートの冷たさが尻から太ももに伝わった。背中を引き戸に預けると、木の建具が小さく軋んだ。山の端が、わずかに空と分かれ始めていた。夜明けが近い。

東京を出たバスの中では何も考えたくなかったのに、ここに着いた途端、頭の中が妙に静かになった。虫の声も、風の音も、遠くの沢の水音も聞こえているのに、静かだった。東京にいた四ヶ月間は、どこにいても頭の中で声がしていた。返せない金額を計算する声、連絡しなければと急かす声、もう手遅れだと告げる声。それが今、山の暗さと冷気の中で、ようやく黙った。

右手の指先が、また動いていた。包丁を握る形に、無意識に曲がっている。

今度は、押さえなかった。

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