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山あいの台所

第2話 第2話

第2話

第2話

朝になっていた。

背中を預けていた引き戸の木目が、陽の光の中で見ると思ったより白く乾いていた。塗料が剥げて、木の地肌がそのまま風雨に晒されたのだろう。節の周りだけが少し濃い色を残している。いつの間にか眠っていたらしい。首の右側が固まっていて、回すと鈍い痛みが走った。肩甲骨の間にも鈍い重さがあって、息を吸うと背骨の一つ一つが軋むような感覚がした。スーツケースは足元にある。誰にも持っていかれていない。当たり前だ。ここには人がいない。

立ち上がると、膝が鳴った。コンクリートの上で眠ったせいで体の芯まで冷えている。四月の朝陽は暖かいはずなのに、山の影になった集落にはまだ届いていなかった。家々の屋根の向こう、杉の梢の先だけが金色に光っている。あと三十分もすれば陽が降りてくるだろう。空気が冷たく湿っていて、鼻の奥に杉と土の混じった匂いが入ってくる。都会では嗅いだことのない、甘みのある腐葉土の匂いだった。

ポケットからスマホを出して、昨夜メモした番号を見た。岩本。名前も知らない相手に、朝から電話をかける。何を言えばいいのか考えて、何も浮かばなかった。管理人をやりたい。それだけ伝えればいいのか。なぜここに来たのか聞かれたら。画面の上部に表示された時刻は六時十四分。早すぎるだろうか。しかし山間の集落で暮らす人間の朝は早いはずだと、根拠のない推測で自分を押した。

五回のコールで出た声は、思ったより若かった。

「はい、岩本です」

「あの、ポストに貼ってあった紙を見て——空き家の管理の件で」

三秒ほど間があった。受話器の向こうで何かを飲み込む音がした。茶か、水か。朝の最初の一口を中断させたのだと思った。

「……ああ。あんた、いまどこにおる」

「その空き家の、前です」

「待っとれ。十分で行く」

電話が切れた。十分。この集落の中に、電話の主は住んでいるのだ。スーツケースに手を置いたまま、道の先を見た。朝靄が薄く残っていて、五十メートル先がぼんやり霞んでいた。どこかで水の流れる音がしている。沢か、用水路か。一定のリズムで、途切れずに続いている。昨夜は暗くて気づかなかった音だった。

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岩本文雄は七十一歳には見えなかった。首の太さと、地面を踏む足音の重さに、まだ現役で山仕事をしている人間の気配がある。軽トラックから降りてきたとき、最初に見たのは拓真のスーツケースだった。それから靴を見て、顔を見た。値踏みというほど露骨ではないが、視線に迷いがなかった。日に焼けた顔の皺が深く、目尻から顎にかけて刻まれた線が、笑ったときにできたものなのか、風雨に耐えてできたものなのか、判別がつかなかった。

「東京から来たんか」

「はい」

岩本は引き戸の鍵を腰のキーホルダーから外して開けた。戸は案外すんなりと滑った。定期的に手入れしているのかもしれない。敷居に薄く油が塗られた跡があった。

「管理人ってのは大げさな話じゃねえ。空いとる家が八軒ある。月に二回、窓を開けて風を通して、雨漏りがねえか見て回る。それだけだ。報酬は出せん。ただし、ここに住んでええ」

土間に上がると、六畳の和室が二間続いていた。畳は傷んでいるが、腐ってはいない。日焼けで色が抜けた部分と残った部分の境目がくっきりしていて、かつて家具が置かれていた場所がわかる。台所は土間の奥にあって、プロパンガスのコンロが二口、錆びた換気扇、流しには水が出る。岩本が蛇口をひねると、しばらく茶色い水が出て、やがて透明になった。

「前の管理人が去年の暮れに抜けてな。息子のところに行くと。それからずっと空いとった」

「住民は何人ですか」

「十一人」

拓真は思わず岩本の顔を見た。十一人。東京にいた頃の店の席数より少ない。

岩本は台所の窓を開けながら、指折り数えるように名前を並べた。

「わしと女房の敏子。千代さん、これが一番の年長で八十七。徳さんは八十二、嫁さんの清子さんが七十八。幸田のじいさんが八十五でひとり暮らし。あとは下の方に宮原さんとこの夫婦、七十代。山側に中村さん、野口さん、それから大久保のばあさん。全員合わせて十一だ」

名前と年齢が淡々と読み上げられていく。拓真は頷きながら、頭の中で数えた。七十代が四人、八十代が六人、そして岩本が七十一。最年少が七十一歳の集落に、三十五歳が一人。

「あんた、歳は」

「三十五です」

岩本が少し目を細めた。何かを言いかけて、やめたように見えた。口元が一瞬動いて、また閉じた。

「何の仕事しとった」

準備していなかった問いではない。バスの中で何度か考えた。考えたが、答えを決めずにここまで来た。

「事務の仕事です。東京で」

口から出た言葉は、思ったよりなめらかだった。嘘は初めてではない。店を閉めてからの四ヶ月間、知人の連絡を避け、住所を転々とし、事実をずらして生きてきた。だが、面と向かって職業を偽ったのは初めてだった。声が平板になりすぎた気がして、付け足す。

「……パソコンに向かってるだけの仕事だったんで。体を動かしたくなって」

岩本は何も言わなかった。信じたのか、信じなかったのか、あるいは興味がないのか。表情からは読めなかった。ただ「そうか」とだけ言って、台所の引き出しを開けた。

「電気は生きとる。ガスは連絡すれば明日には使えるようになる。布団はこの押入れに入っとる。干してから使え」

岩本が軽トラに戻りかけて、振り返った。

「明日の朝、集会所に来い。九時。顔合わせだ」

軽トラのエンジン音が遠ざかっていくのを、土間に立ったまま聞いていた。排気の匂いが風で薄れて消えるまで、動けなかった。排気が消えると、また沢の音だけが残った。それ以外に何も聞こえない。人の声も、車の音も、機械の唸りもない。東京では意識したことのなかった、音の不在という圧力が、耳の奥を押していた。

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岩本が去った後、家の中を見て回った。二間の和室は、どちらも日焼けした襖で仕切られている。押入れの布団は圧縮されて硬くなっていたが、カビの臭いはなかった。洗面所の鏡は曇っていて、顔が輪郭だけになっている。それでよかった。今の自分の顔をはっきり見たくなかった。

台所に戻った。岩本が開けた引き出しの隣に、もうひとつ引き出しがあった。取っ手の金具が緑青を吹いている。引くと、中に布巾で包まれたものが入っていた。

包丁だった。

三徳包丁。刃渡りは十七センチほど。峰に薄く錆が浮いているが、刃は砥がれた跡があった。この家を出た人が、最後に手入れをして仕舞ったのだろう。柄は木製で、水を吸って膨らんだ跡がある。握れば掌にぴたりと収まるはずの形をしている。

右手が伸びた。

指が柄に触れる前に、その動きを意識した。親指が包丁の背に添う位置を探している。人差し指が刃元を支える角度を測っている。三十五年のうち十五年を台所で過ごした手が、主人の意思とは別に、道具を求めて動いている。

引き出しを閉めた。

布巾ごと押し込んで、金具が噛み合う音を聞いた。指先がまだ、柄の感触を覚えようとしていた。触れてもいないのに、木の繊維の硬さと、握ったときに掌に食い込む角の感覚が、手の中に残っている。右手を左手で握った。指の震えを止めるためではなかった。動こうとする手を、もう片方の手で押さえつけていた。

窓の外で、鳥が鳴いた。聞いたことのない声だった。東京にはいなかった鳥が、ここにはいる。当たり前のことなのに、その声の聞き慣れなさが、自分がどこにいるのかを突きつけてくる。鳴き声は二度、三度と繰り返されて、返事のない問いかけのように途切れた。

事務の仕事をしていた人間は、包丁の柄に指を添える位置を体で知っていたりしない。あの嘘は、もう二度とこの引き出しを開けないことで成立する。

台所の蛇口をひねった。茶色い水はもう出なかった。透明な水が流しの底を叩いて、排水口に吸い込まれていく。その水音を聞きながら、畳に腰を下ろした。

明日、集会所で十一人に会う。事務の仕事をしていた佐伯拓真として。それだけの嘘を、ここでは守り通す。ここでは料理を作らない。包丁は握らない。誰にも作ったものを食べさせない。もう二度と——。

窓から差し込む朝陽が、閉めた引き出しの取っ手の緑青を、一瞬だけ光らせた。

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