第3話
第3話
集落に来て十日が経った。
空き家の管理は、岩本が言った通り大げさな仕事ではなかった。八軒の家を順に回り、窓を開けて空気を入れ替え、雨漏りの有無を確認する。それだけだ。一軒にかかる時間は二十分ほどで、午前中には全部回り終える。午後は何もない。畳に寝転がって天井の染みを数えるか、集落の外れまで歩いて同じ道を戻るか。時間が、東京にいた頃とは違う速度で流れている。遅いのではない。時間そのものの粒が粗くなったような感覚で、一日が三つか四つの塊でできている。朝、昼、夕方、夜。それ以上の区切りがない。
岩本の妻の敏子さんが、三日目に米を五キロ持ってきてくれた。「管理人さんの分」と言って、玄関に置いていった。拓真が礼を言う間もなく帰っていく背中は小さかったが、足取りに迷いがなかった。その米を研いで、二口のコンロで炊く。おかずはコンビニで買ったレトルトのカレーだった。最寄りのコンビニまで山道を四十分歩く。それが拓真の食生活のすべてだった。
十日目の朝、岩本が軽トラで来た。
「今日、買い出しバスが来る。乗るか」
「買い出しバス」
「月に二回、町のスーパーまで走る。乗り合いだ。九時に集会所の前」
岩本はそれだけ言って去った。買い物の必要はあった。レトルトの在庫が尽きかけている。洗剤も切れた。歯磨き粉の残りも怪しい。九時少し前に集会所に行くと、すでに五人が集まっていた。
千代さんが、拓真を見つけて手を挙げた。八十七歳。集落の最年長。背が曲がっているが、目の光は鋭い。顔合わせのとき、拓真の手を両手で握って「若い子が来てくれた」と言った人だ。三十五歳を若い子と呼ぶ場所は、たぶんここくらいだろう。
「管理人さん、買い物行くの」
「はい。日用品が少し」
「あたしの隣、空いとるよ」
白いマイクロバスが砂利道の向こうから現れた。運転しているのは町の社会福祉協議会の職員だという。月に二回、この路線を走る。乗り込んだのは七人。集落の人口の半分以上だった。バスの座席は十二人分あったが、後部の四席には誰も座らなかった。千代さんの隣に座ると、彼女の膝の上に花柄の布バッグが載っていた。角が擦り切れて、中に折り畳んだエコバッグが三つ入っている。
山道を四十分。バスは舗装された県道に出て、さらに二十分走った。窓の外の景色が、杉林からガードレールのある道路に変わり、やがて信号機が現れた。コンビニ、ガソリンスタンド、歯科医院の看板。人の暮らしの密度が急に上がる。集落にいるとそれが世界のすべてに思えてくるのに、一時間走るだけで町がある。当たり前のことが、妙に不思議だった。
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スーパーの自動ドアが開いた瞬間、蛍光灯の白さに目が眩んだ。集落の十日間で、人工の光に弱くなったらしい。
住民たちは慣れた足取りでカートを引いていく。拓真はカゴを手に取り、洗剤と歯磨き粉の棚に向かった。必要なものを入れて、食品売り場に移る。自分の分はカップ麺とレトルトのパックを適当に見繕えばいい。
千代さんが、缶詰の棚の前にいた。
カゴの中を、見るつもりはなかった。通りすがりに視界の端に映っただけだ。それでも見えてしまった。カップ味噌汁の箱、レトルトおかゆ三パック、魚肉ソーセージ、菓子パンの袋。千代さんの手が、棚の上段に伸びている。指先が味噌のパックに触れているが、届かない。背が足りない。爪先立ちになっても、あと五センチ。
拓真は棚の前に立って、味噌のパックを取った。
「これですか」
「ああ、ありがとうね。いつもはあたし届いたんだけど、棚が高くなったのかね」
棚は高くなっていない。千代さんの背が縮んだのだ。それを言う人間は、この場にいなかった。味噌のパックを千代さんに渡しながら、手の甲に浮いた血管と、関節の腫れが目に入った。指が内側に少し曲がっている。瓶の蓋を開けるのも難儀するだろう。
「千代さん、他に届かないものあったら言ってください」
「大丈夫よ、ほとんど下の方にあるから」
千代さんはカゴを両手で持ち直して、惣菜の棚に向かった。その後ろ姿を目で追いながら、拓真は自分のカゴにカップ麺を入れた。
通路の先で、徳さんと清子さんが冷凍食品の扉を開けていた。冷凍うどん、冷凍チャーハン、冷凍コロッケ。清子さんがパッケージの裏を眼鏡越しに覗き込んで、何か呟いて、カゴに入れた。隣の通路では、幸田さんがインスタントラーメンの五袋パックを二つ抱えている。
拓真は冷凍食品の棚の前を通り過ぎた。通り過ぎながら、頭の中で勝手に計算が走っていた。冷凍コロッケ一個あたりのたんぱく質はおよそ三グラム。一日の必要量の二十分の一。カップ味噌汁の塩分は二・四グラム。菓子パンの糖質は三十グラム超。インスタントラーメンのナトリウム量は——。
やめろ、と自分に言った。
声には出さなかった。口の中で唇が動いただけだ。レジに並んでいる住民たちのカゴの中身が、どれも同じ色をしていた。パッケージの赤と黄色と銀色。加工食品の色だ。生鮮売り場を通ってきたはずなのに、野菜や肉を手に取っている人はほとんどいなかった。
理由はわかる。重いからだ。大根一本で一キロ近い。白菜は丸ごとなら二キロを超える。バスで一時間揺られて帰る道中、膝の上にその重さを抱え続けることを、八十代の体は選ばない。軽くて、日持ちして、調理の手間がないもの。選択は合理的だ。合理的で、そして確実に体を削っていく。
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帰りのバスは、来たときより静かだった。買い物の高揚が落ち着いて、何人かは目を閉じている。拓真の隣で千代さんも眠りかけていて、頭が小さく揺れるたびにこちらの肩に寄りかかりそうになった。膝の上の買い物袋が少しずれて、中身が見えた。
味噌のパック。カップ味噌汁の箱。レトルトおかゆ。魚肉ソーセージ。菓子パン。冷凍の焼きおにぎり。ふりかけ。お茶のペットボトル二本。
たんぱく質が足りない。ビタミンが足りない。カルシウムが足りない。食物繊維が足りない。鉄分が足りない。何もかもが足りない。この袋の中身で二週間を過ごしたら——。
拓真は窓の外に目を向けた。杉林が流れていく。木漏れ日が車内を断続的に明るくして、千代さんの白髪を光らせた。
元料理人の目が、勝手に働いている。カゴの中身を見た瞬間に栄養価を計算し、献立を組み立て、足りないものを数え上げる。十五年間、毎日繰り返してきたことが、やめたはずの四ヶ月後でも体に染みついている。閉めたはずの引き出しが、中から押し開けられるような感覚。
もう関係ない。
自分に言い聞かせた。拓真は空き家の管理人であって、料理人ではない。この集落の住民たちの食事は、拓真の問題ではない。彼らはこうやって何年もやってきたのだ。拓真が来る前から、月に二回のバスで買い物をして、レトルトとインスタントで暮らしてきた。それで生きている。拓真がどうこうする話ではない。
千代さんの頭が、ついに肩にもたれかかった。白髪から、石鹸の匂いがした。体温が低い。肩に触れている部分が、冷たい。
バスが山道に入ると、揺れが大きくなった。千代さんの買い物袋からカップ味噌汁の箱が滑り出して、通路に落ちた。拓真は拾って、袋に戻した。箱の角が少し潰れていた。裏面の成分表示が、拾い上げる一瞬の間に目に焼きついた。
ナトリウム 九五〇ミリグラム。たんぱく質 一・二グラム。
もう関係ない。そう思った舌の裏側で、別の声が反芻していた。千代さんの隣の席の背もたれに頭を預けて、目を閉じた。閉じても、成分表示の数字が瞼の裏に残っている。買い物袋の中身が、色ごとに並び替えられて浮かんでくる。赤、黄色、銀色。パッケージの色ばかりで、食べ物の色がない。
集落が近づくと、千代さんが目を覚ました。肩から頭を起こして「ああ、寄りかかっちゃったね」と小さく笑った。拓真は首を振った。
バスが集会所の前に停まり、住民たちがそれぞれの買い物袋を抱えて降りていく。千代さんが最後だった。ステップを一段ずつ慎重に降りて、砂利の上に両足が着くまでに時間がかかった。拓真が手を貸そうとして、千代さんは「大丈夫」と言った。
買い物袋を両手に提げて、千代さんは緩い坂道をゆっくり歩いていく。その背中が小さくなるまで、拓真は集会所の前に立っていた。千代さんの家は坂の上から三軒目だと、顔合わせのときに聞いた。五十メートルほどの距離を、千代さんは三分かけて歩いた。途中で一度立ち止まって、買い物袋を持ち替えた。
自分の買い物袋の中身を見下ろした。カップ麺が四つ、レトルトカレーが三つ、菓子パンが二つ。千代さんのカゴと同じ色をしている。赤と黄色と銀色。
空き家に戻って、袋を台所に置いた。閉めたままの引き出しが視界の隅にある。錆びた包丁が入っている引き出し。取っ手の緑青が、午後の光の中でくすんだ青緑色に沈んでいた。
蛇口をひねって、水を一杯飲んだ。冷たかった。山の水だ。東京の水道水にはなかった、石の間を通ってきたような硬さがある。コップを置く音が、静かな台所に響いた。
次の買い出しバスは、二週間後。