Novelis
← 目次

季節の手紙

第1話 第1話「結露の水滴を辿る指」

第1話

第1話「結露の水滴を辿る指」

窓ガラスが曇っていた。冬なのか、それとも別の季節なのか、僕にはもう分からない。

布団から腕だけを出して、結露した窓に人差し指を当てた。冷たい水滴が指の腹を伝って、手首のあたりまで流れ落ちる。布団の中で温まっていた指先が、ガラスに触れた瞬間に強張った。その冷たさだけが確かなものだった。一本の線を引くと、その向こうに街路樹が見えた。枝だけになっている。葉が一枚もない。

あの木はいつからああなのだろう。

去年の夏も葉をつけていた気がするが、それが本当に去年だったのか、もっと前だったのか、自信がない。窓から見える景色は変わっているはずなのに、僕の目にはいつも同じ灰色の四角形としか映らなかった。季節を見分ける力が、いつの間にか抜け落ちている。枯れたのか、冬だからなのか。その違いが分からないということが、どういう意味なのかだけは、うっすらと分かっていた。

壁に掛けた万年カレンダーは、二〇二〇年の六月十七日を指している。あの日なにがあったのか、もう思い出せない。たぶん、特に何もなかった。日めくりを止めたのではなく、めくることを忘れた日がそのまま続いて、気がつけば六年経っていた。六年という数字に実感はない。長いとも短いとも思わない。ただ、カレンダーの表面に薄く埃が積もっていて、その厚みだけが時間の証拠だった。指で触れれば埃の下に日付が現れるはずだが、触れようと思ったことは一度もない。確かめたところで何かが変わるわけではなかった。

部屋は六畳。机とベッドと本棚。本棚には高校時代に読んでいた文庫本が並んでいるが、もう何年も手を伸ばしていない。背表紙の文字が日焼けで薄くなっているものがある。かつてはこの本棚を端から端まで読み尽くすのが生活の一部だったが、ある時期からページをめくる気力すら湧かなくなった。物語の中にすら居場所がないと感じた瞬間があったのだと思う。窓は南向きで、日が差す時間帯だけ部屋が明るくなる。その光の角度が変わることで、たぶん季節が移っているのだろうとは思う。思うだけで、確かめる気にはならなかった。

廊下で足音がする。スリッパが床を擦る音。母の歩き方だ。

右足をわずかに引きずるような、偏った重心の音。昔からそうだったのか、それとも年を重ねてそうなったのか。足音だけで母の一日が想像できた。軽い日は調子がいい。重い日はたぶん疲れている。今日の足音はその中間で、どちらとも言えなかった。

足音が部屋の前で止まり、小さな物音がして、また遠ざかっていく。食事のトレイが置かれた合図だった。トレイが床に触れる音は、磁器と木が触れ合うかすかな響きで、その一瞬だけ廊下の空気が部屋に入り込む気がした。十年間、毎日同じだった。朝は八時頃、昼は十二時過ぎ、夜は七時前後。母がドアの前にトレイを置き、僕がそれを回収する。顔を合わせることはほとんどない。母の足音が階段を降りきるまで待ってから、ドアを薄く開ける。それが僕と外界をつなぐ唯一の儀式だった。

十年。

最初の一年は苦しかった、と思う。二年目は少し楽になった。三年目からは苦しいという感覚自体が溶けて、何も感じなくなった。外に出なければならない理由が一つずつ消えていった。学校はとうに辞めた。友人と呼べる人間は最初からいなかったか、いたとしても連絡先を消した。父は僕が部屋に閉じこもって三年目に家を出た。母は何も言わなかった。僕も何も聞かなかった。

母の足音が完全に消えてから、布団を出た。ドアを開ける。廊下の空気がわずかに冷たい。

トレイの上には白い飯と味噌汁、焼き鮭、ほうれん草のおひたし。母の作る朝食はいつも同じような献立で、その変わらなさが僕には心地よかった。変化は怖い。何かが変わるということは、何かに対処しなければならないということだ。この部屋の中では何も変わらない。何にも対処しなくていい。それが十年を可能にした仕組みだった。

トレイに手を伸ばしかけて、指が止まった。

味噌汁の椀の横に、白い封筒が置かれている。

母の字ではなかった。宛名が書かれていた。僕の名前——佐倉透、と。普通の白い封筒に、普通の黒いインクで、丁寧に、けれど見覚えのない筆跡で。裏返す。差出人の欄は空白だった。

僕はしばらく、しゃがんだ姿勢のまま封筒を見ていた。膝が冷たい廊下の板に当たっていて、その感覚がやけに鮮明だった。

手紙が届くということ自体が、もうずいぶん長い間なかった。保険の案内や市役所からの通知は母が処理していた。個人的な手紙など、十年前にだって来ていない。それが突然、食事のトレイの横に置かれている。母が置いたのだろう。ここに届くものは、すべて母の手を経由する。だが、この筆跡は母のものではない。

封筒を持って部屋に戻った。ドアを閉める。鍵をかける。

机の上に封筒を置いて、椅子に座った。開けるべきか、開けないべきか。開けたところで何が変わるのか。たぶん何も変わらない。広告か、誤配か、あるいは昔の知人からの——知人。その言葉が頭に浮かんだ瞬間、胸の奥が微かに軋んだ。知人などいない。いたとしても、十年経って手紙を寄越す理由がない。

封筒は軽かった。紙一枚か二枚。それと、何か薄い、硬いものが入っている感触があった。

僕は封筒を机の端に寄せて、トレイを取りに戻り、朝食を食べた。味噌汁はぬるくなっていた。鮭を箸でほぐしながら、封筒のことを考えないようにした。考えないようにしている時点で、もう考えていた。箸を動かす手が、無意識に何度も封筒の方を向いていた。白い封筒は机の端でじっとしていて、見ないふりをしているのは僕だけだった。

食事を終えて、トレイを廊下に戻した。部屋に鍵をかけ直して、また封筒の前に座った。

窓の外では、葉を落とした街路樹の枝が風に揺れていた。枝の先が空を引っ掻くように動いている。空は白かった。冬の空なのだろう。たぶん。

封筒に指をかけた。端を破る。中から、一枚の便箋と、小さな押し花が滑り出てきた。

花は蝋梅だった。薄い黄色の花弁が、和紙に挟まれて平たく押されている。持ち上げると、かすかに甘い匂いがした。蝋梅。冬に咲く花だ。それくらいは、まだ覚えている。子供の頃、通学路に蝋梅の木があって、冬の朝にその前を通ると甘い匂いがしていた。霜が降りた朝でも、あの木だけは花をつけていた。マフラーの上から鼻だけ出して匂いを吸い込んだ記憶が、不意に輪郭を持って戻ってきた。冷たい空気と、甘い香りと、白い息。十年以上前の記憶が、匂いと一緒に鼻の奥に立ち上がってきて、指先が震えた。

便箋を開く。短い文字が二行だけ、封筒と同じ筆跡で書かれていた。

「二月十五日、午前十時。玄関を開けて、最初に聞こえた音を数えてください」

意味が分からなかった。

音を、数える。玄関を開けて。二月十五日に。それは、外に出ろということなのか。ドアを開けろということなのか。誰が、なぜ、僕にそんなことを求めるのか。

悪戯だ、と思った。便箋を封筒に戻しかけた。けれど蝋梅の押し花が机の上に残っていて、その甘い匂いが指先からどうしても消えなかった。外の匂いだ。窓を閉め切った部屋の中には絶対に存在しない匂い。季節の匂い。誰かがこの花を摘んで、押して、乾かして、封筒に入れた。その手間のことを考えると、悪戯にしては丁寧すぎた。花弁は崩れないように丁寧に和紙で挟まれていて、乾燥しても色が残るように陰干しされたのだろう。そこまでして、僕に届けようとした人がいる。

封筒を、捨てられなかった。

机の引き出しを開けて、蝋梅の押し花と便箋をしまった。引き出しを閉める。指先に、まだ甘さが残っている。

万年カレンダーに目をやった。二〇二〇年六月十七日。今日が何月何日なのか、僕は正確には知らない。けれど、街路樹の枝、白い空、蝋梅の花。冬だ。二月十五日は、おそらくそう遠くない。

そう遠くないという事実が、胸のどこかに小さな圧力を加えていた。期限のある何かが、この部屋の外に存在している。十年間、僕の時間には締め切りがなかった。何もしなくていい、いつまでも。その無期限の安全が、たった二行の文字で揺らいでいる。

窓の結露に、朝引いた線がまだ残っていた。その線の向こうで、街路樹の枝が揺れている。

この話はいかがでしたか?

次の話を読む →

第2話「第2話「見えなくした封筒の三日」」

↓ スクロールで次の話へ