第2話
第2話「見えなくした封筒の三日」
三日が経った。
封筒のことは忘れたことにしていた。引き出しの奥にしまって、その上に古いノートを重ねて、見えないようにした。見えなければ存在しないのと同じだ。この部屋ではずっとそうやって暮らしてきた。見ないものは存在しない。聞かないものは起きていない。それで十年、何の問題もなかった。
けれど匂いは、見ないふりができなかった。
朝、目が覚めると部屋の空気の中にかすかな甘さがあった。鼻の奥にまとわりつくような、冬の花の匂い。最初は気のせいだと思った。窓を開けていないのに外の匂いが入り込むはずがないと、理屈で押さえつけようとした。二日目も同じだった。むしろ少しだけ強くなった気がして、僕は毛布を鼻まで引き上げて呼吸を浅くした。それでも甘さは消えなかった。三日目の朝、僕は布団の中で目を開けたまま天井を見つめて、この匂いが引き出しの中から漏れ出ているのだと認めた。押し花の蝋梅。和紙に挟まれた薄い花弁から、まだ香りが残っている。
引き出しを開けた。ノートをどかして、和紙ごと蝋梅を取り出す。花弁は乾いて半透明になっていたが、鼻に近づけると甘さがはっきりと立ち上った。通学路の記憶がまた来る。霜の降りた朝、マフラーに顔を埋めて歩いた坂道。吐く息が白く、睫毛の先に細かい水滴がついていた。蝋梅の木は道の左側にあって、冬のあいだだけ小さな黄色い花をつけていた。花弁の黄は透き通っていて、朝の光を受けると内側から灯がともっているように見えた。学校に行かなくなってから、あの木がどうなったのか知らない。まだあるのかもしれないし、切られたのかもしれない。どちらでも僕には関係のないことだった。関係のないはずだった。
花を和紙に戻して、引き出しにしまった。ノートは、もう上に重ねなかった。
母がトレイを置く音がした。いつもより少し早い。僕は廊下に出てトレイを取り、部屋に戻った。味噌汁の湯気が立っている。今日は豆腐とわかめだった。箸を割って、飯を口に運ぶ。咀嚼しながら、引き出しの方を見た。便箋の文字が目を閉じると浮かぶ。「二月十五日、午前十時。玄関を開けて、最初に聞こえた音を数えてください」。丁寧な、けれど見覚えのない筆跡。
音を数える。それだけのことだ。外に出ろとは書いていない。玄関を開けろとしか書いていない。開けて、聞いて、数える。それだけ。
それだけのことが、途方もなく遠い。
玄関のドアを最後に開けたのがいつだったか、思い出せない。母が買い物に出る音は聞こえる。鍵が回り、ドアが開き、外の空気が一瞬だけ家の中に流れ込んで、またドアが閉まる。その一瞬の空気の動きを、階段の上から感じることがある。冷たかったり、湿っていたり、夏には重かったりする。けれどそれは母が開けたドアの向こうの空気であって、僕が自分で触れたものではなかった。
食事を終えてトレイを廊下に出す。部屋に戻り、ドアを閉め、鍵をかける。机の前に座る。この動作を一日に三回繰り返す。朝昼晩。それが僕の一日のすべてだった。その合間に眠り、起き、窓の外をぼんやり眺め、また眠る。本も読まない、音楽も聴かない。何もしない時間が水のように流れて、気がつくとまた母の足音がしている。
その繰り返しの中に、蝋梅の匂いだけが異物として残っていた。
五日目の夜だった。眠れなかった。眠れないこと自体は珍しくない。昼に長く寝すぎると、夜の睡眠が浅くなる。布団の中で寝返りを打ちながら、暗い天井を見上げていた。隣の部屋は母の寝室で、かすかに寝息が聞こえる。静かな夜だった。冬の夜は音が少ない。虫の声もなく、窓の外を通る車もまばらで、世界が眠っているような静けさだった。時折、家の柱がきしむ音だけが暗闇の中で鳴って、また消えた。
その静けさの中で、ふと思った。二月十五日に玄関を開けたら、何が聞こえるのだろう。
朝の十時。平日なら通勤の時間は過ぎている。住宅街だから、そんなに騒がしくはないはずだ。車の音。鳥の声。風の音。そのくらいだろう。数えるほどのものがあるのかどうかも分からない。
そもそも、今日が何月何日なのかを僕は知らない。
母に聞けば分かる。でも聞くということは、日付を気にしているということを母に知られるということで、日付を気にしているということは何かを待っているということで、何かを待っているということは——。
考えるのをやめた。布団を頭まで被った。蝋梅の匂いが、布団の中にまで追いかけてくる気がした。
六日目の朝、僕は母の足音を待たずに廊下に出た。まだトレイは置かれていない。階段の下から、台所で何かを煮ている音が聞こえた。味噌汁だろう。出汁の匂いがかすかに上がってきている。鰹の、少し燻したような香り。僕は階段の三段目に座った。ここに座るのは何年ぶりか分からない。いつもは部屋の前の廊下までしか出ない。三段でも降りれば、台所との距離が少しだけ縮まる。階段の木は冷たくて、薄いスウェット越しに尻が冷えた。手のひらを段の縁に置くと、木目のざらつきが指先に伝わった。
しばらくして、母が階段の下に現れた。トレイを持って、上がってくるところだった。僕と目が合った。母の手が一瞬止まった。味噌汁の表面がわずかに揺れた。
「……おはよう」
母の声は普通だった。特別な何かを含んだ声ではなかった。ただ少しだけ、間があった。驚きを飲み込んで、それを声に出さなかったような間だった。
「今日、何日」
自分の声がひどく掠れていた。使わない声帯は錆びる。言葉が喉の奥に引っかかって、きれいに出てこなかった。喉仏のあたりが痛んで、唾を飲み込んだ。
母がトレイを階段の手すりの上に置いた。
「二月九日。日曜日」
日曜日。二月九日。二月十五日まで、あと六日。土曜日になる。
母は僕の顔を見ていた。何か聞きたそうな目をしていたが、何も聞かなかった。僕も何も言わなかった。トレイを受け取って、部屋に戻った。背中に母の視線を感じた。階段の三段目から廊下を歩いて部屋に入るまでの距離が、いつもより長かった。
部屋に鍵をかけて、味噌汁の椀を持った。湯気が顔に当たる。温かい。今日のは、いつもより温かかった。母が階段を上がる途中だったから、冷める前だったのだろう。ただそれだけの理由で、味噌汁が少し違う味に感じた。豆腐が舌の上で崩れて、出汁の味がじんわり広がった。塩気のあとに、ほのかな甘みが残った。両手で椀を包むと、陶器の丸みが掌にぴったりと沿った。その温度がゆっくりと指の先まで届いて、自分の手がまだちゃんと温かさを感じ取れることに少しだけ驚いた。
二月九日。あと六日。
引き出しを開けて、便箋を広げた。「二月十五日、午前十時。玄関を開けて、最初に聞こえた音を数えてください」。何度も読んだ二行が、六日という具体的な数字を得て急に輪郭を持ち始めた。
六日後の午前十時に、僕はどうするのだろう。何もしないかもしれない。たぶん、何もしない。布団の中で十時が過ぎるのを待って、何事もなかったように昼の食事を取り、また眠る。それがいちばん安全で、いちばん確実な選択だった。
便箋を引き出しに戻そうとして、蝋梅の押し花に指が触れた。甘い匂いが、また鼻を突いた。通学路の坂道。霜の降りた朝。マフラーの上から覗いた黄色い花。あの頃の僕は毎朝外に出ていた。寒くても、眠くても、あの坂道を上って学校に行っていた。玄関を開けることに、何の躊躇もなかった。
ドアの向こうに世界があって、そこに僕の場所があると、疑いもしなかった。
今は、ドアの向こうに何があるのか分からない。分からないから開けられない。開けないから分からない。その輪が十年間、きれいに閉じたまま回り続けている。
押し花をそっと和紙に戻した。引き出しは、開けたままにした。
窓の向こうで街路樹の枝が揺れている。風が出てきたのだろう。枝の先が空を引っ掻いている。白い空。冬の空。二月の空。その空の下で六日後、何かが聞こえるのか聞こえないのか。まだ分からない。分からないまま、六という数字だけが、止まっていた時間の中で静かに減り始めていた。