第3話
第3話「二月十五日の青白い朝」
二月十五日の朝は、目覚まし時計もないのに五時に目が覚めた。
眠れなかったわけではない。夜中に何度か意識が浮上して、そのたびに暗い天井を見て、また沈んだ。眠りと覚醒の境目が曖昧なまま夜が明けて、カーテンの隙間から青白い光が差し込んできた時には、もう布団の中で目を開けていた。
今日だ、と思った。思っただけで心臓が速くなるのが分かった。肋骨の内側で、普段は存在を忘れている臓器が自己主張していた。
布団から出なければ何も始まらない。布団から出なければ、今日はただの土曜日で終わる。味噌汁を飲んで、窓の外を眺めて、また眠る。それでいい。それがいちばん安全だと分かっている。分かっているのに、指先が布団の縁を掴んで離さなかった。
六時。窓の外が少しずつ明るくなる。街路樹の枝が見える。枝の先に、何か小さなものがついている気がしたが、この距離では分からない。
七時。母の足音が階段を降りていく。台所で水道の音がする。朝食の支度だ。鍋を火にかける音、まな板を叩く音、換気扇の低い唸り。一階から立ち上る生活の音が、今日はやけに鮮明に聞こえた。
七時半。起き上がりかけて、やめた。掛け布団を胸の上まで引き上げて、目を閉じた。やっぱり何もしない。あんな手紙は無視すればいい。差出人も分からないのに、なぜ従わなければならないのか。馬鹿げている。起き上がる理由がない。
八時。母がトレイを置く音がした。僕は動かなかった。味噌汁が冷めていく。
八時十五分。布団を跳ねのけて立ち上がった。トレイを部屋に入れて、冷めかけの味噌汁を一気に飲んだ。なめこだった。飯を三口で押し込んで、漬物には手をつけなかった。食器をトレイに戻して廊下に出す。心臓がまだ速い。
八時四十分。部屋に戻って座った。壁の万年カレンダーが目に入る。二〇二〇年六月十七日。あの日も土曜日だったのだろうか。分からない。調べる気もない。椅子の座面が硬くて、骨盤の骨が当たる場所が痛んだ。こんなことを、いつもは気にしない。
九時。あと一時間。部屋の中を歩いた。六畳間を端から端まで四歩。四歩で壁に着いて、振り返って四歩。それを何往復かした。自分が何をしているのか分からなかった。窓の前で立ち止まって外を見た。空は薄い灰色で、雲が低く垂れ込めている。通りに人影はなかった。
九時二十分。また布団に入った。掛け布団を頭まで被って、暗闇の中で目を閉じた。やめよう。やめたほうがいい。ドアを開けて何が変わるのか。何も変わらない。音を数えたところで、それを報告する相手もいない。手紙の差出人は返信先を書いていなかった。一方的な指示だ。従う義務はない。
九時三十五分。布団の中が暑い。冬なのに汗が背中を伝っていた。こめかみのあたりが湿って、枕に貼りつく感触がした。引き出しの方から、蝋梅の匂いがまだ漂ってきている。甘くて、少しだけ冷たい匂い。外の匂い。
九時四十八分。布団を半分めくって天井を見た。天井の染みが人の横顔に見える。ずっと前から知っていた。いつからあの染みがあるのかは覚えていない。
九時五十二分。心臓が、さっきより速くなっている。横になっているだけなのに、走った後のように脈が打っていた。こめかみと手首と、膝の裏で血管が脈動しているのが分かった。この部屋にいるだけで、体だけが勝手にどこかへ向かおうとしていた。
九時五十八分。
布団を蹴った。立ち上がって、部屋のドアを開けた。廊下に出て、階段を降りた。一段一段の感覚が足の裏に冷たく当たる。手すりに触れた。木の表面がつるつるしていた。一階の廊下。台所から母が何かを洗う水音が聞こえていた。振り返らなかった。玄関に向かって歩いた。まっすぐ。六歩で玄関の上がり框。靴は履かない。土間のタイルが冷たい。靴下の裏が冷えた。
玄関のドアの前に立った。
ドアノブに手をかけた。金属が冷たい。指が震えた。寒さのせいか、それ以外のせいか、区別がつかなかった。鍵は開いていた。母がいつも、朝のうちに開ける。新聞を取るために。
ドアノブを回した。手首に力を入れると、ラッチが外れる小さな音がした。ドアが動く。一センチ。二センチ。五センチ。隙間から、空気が入ってきた。
冷たかった。
部屋の空気とは違う冷たさだった。動いている冷たさ。風が運んできた冷たさ。湿度があって、土の匂いと、排気ガスの匂いと、それから何か緑っぽい——植物の匂いが混じっていた。二月の外気。頬に当たった空気が、肌を刺すのではなく、撫でるように触れた。
十センチまで開けた。
音が来た。
最初に聞こえたのは鳥の声だった。短く、二回。たぶん雀だ。家の屋根の方角から聞こえた。次にエンジン音。低い。大きな車だろう。道路を右から左へ通過していった。ドップラー効果で音の高さが微かに変わるのが分かった。三番目は風の音。電線が鳴っている。ひゅう、と、高い周波数のかすかな振動。四番目——子どもの声。笑い声だった。遠い。たぶん二つ先の通りだろう。はしゃいでいる声が空気を伝って、薄まりながらここまで届いていた。何を言っているのかは分からなかった。ただ、高くて、跳ねるような声だった。五番目。自転車のチェーンが軋む音。家の前の道を、誰かが通り過ぎた。ペダルを踏むリズムが規則的で、少しだけ急いでいた。六番目。犬の鳴き声。一回だけ、短く。吠えたのではなく、何かに反応した声だった。
膝が震えた。
最初は微かだった。ふくらはぎの筋肉がぴくぴくと痙攣して、それが膝に伝わり、太腿まで上がってきた。立っていられなくなったわけではない。ただ、脚が勝手に揺れていた。十年間、外の音を直接聞いていなかった。窓越しの音は知っていた。でもそれはガラスを通過して柔らかくなった音で、今聞いているものとは違った。ドア越しに入ってくる音は生のままで、距離と方角と動きがあった。世界は音で溢れていて、そのどれもが僕に向かって流れ込んできた。
ドアを閉めた。
両手でドアノブを握って、体重をかけるようにしてドアを引いた。ラッチが嵌まる音がした。外の音が遮断された。家の中の静けさが戻る。台所の水音。換気扇。時計の秒針。家の音だけに包まれて、息を吐いた。長く、長く吐いた。吐き終わっても肺の底にまだ空気が残っている気がして、もう一度吐いた。
玄関の土間にしゃがみ込んだ。タイルの冷たさが膝に沁みた。スウェットの薄い生地越しに、二月のタイルの温度がじかに伝わってきた。両手を膝の上に置いて、自分の指を見た。震えていた。指先がわずかに白くなっている。
三十秒。長くても三十秒だっただろう。
その三十秒のあいだに聞こえた音を、僕は正確に覚えていた。雀、二回。エンジン音、一台。電線の風切り音。子どもの笑い声。自転車のチェーン。犬の声、一回。六種類。順番も、方角も、はっきりと記憶していた。
不思議だった。十年間、何も覚えようとしなかった。日付も、季節も、母が何を言ったかも、翌日には曖昧になっていた。記憶する必要がなかった。この部屋の中では、覚えていなくても何も困らなかった。それなのに、三十秒間の音だけは、脳が勝手に記録していた。選り分けて、整理して、保存していた。まるで飢えた人間が食べ物を見た時のように、僕の耳は音を一つも逃すまいとしていた。
足音がした。母が台所から出てきたのだろう。僕は立ち上がった。振り返ると、母が廊下の向こうに立っていた。手にはふきんを持っていた。僕がなぜ玄関にいるのか、聞かなかった。僕の顔を見て、少しだけ目を細めた。それが驚きなのか、別の何かなのか、分からなかった。
「寒かったでしょう」
母の声は静かだった。僕は何も答えずに、母の横を通って階段を上がった。部屋に入って、ドアを閉めて、鍵をかけた。ベッドに座った。まだ膝が揺れていた。
引き出しの蝋梅が匂っていた。あの甘さの向こうに、今は別の匂いが重なっている。二月の外気の匂い。土と排気と植物の匂い。ドアの隙間から入り込んだわずかな外気が、まだ鼻の奥に残っていた。
窓の外を見た。街路樹の枝が揺れている。電線も揺れている。風が吹いているのだ。さっき、あの風の音を聞いた。窓越しではなく、ドア越しに、自分の耳で。枝が空を引っ掻くように動いている。その枝の先に——やはり何かがついていた。朝に見た時よりも、はっきりと分かった。枝先の膨らみ。小さくて、硬そうで、まだ閉じている。芽だろうか。冬の枝に、芽がつき始めている。
便箋の二行目を思い出した。「最初に聞こえた音を数えてください」。数えた。六種類。でも、それを伝える相手がいない。返信先の書かれていない手紙。差出人のいない指示。僕はただ数えて、それを自分の中に持っているだけだ。
けれど、数えた。三十秒だったけれど、数えた。ドアを開けて、聞いて、数えた。
自分がそれをやったのだということが、しばらく信じられなかった。布団の中で何度もやめようとして、九時五十八分に体が勝手に動いた。理由は分からない。意志の力で決断したのではない。蝋梅の匂いに引きずられたのか、六日間のカウントダウンに追い立てられたのか、それとも単に、十年分の何かが今朝たまたま閾値を超えただけなのか。
手紙の差出人が次に何を送ってくるのか。送ってこないのか。そもそもこの手紙は何なのか。分からないことだらけだった。けれど指先には外気の冷たさが残っていて、耳の奥には六つの音がまだ鳴っている。それだけが確かだった。