第2話
第2話「眠れぬ朝の天井のシミ」
眠れないまま朝が来た。
カーテンの隙間から差し込む光が白すぎて、目を細める。スマホのアラームは六時半だけど、画面を見たら五時四十七分だった。二度寝する気力もなくて、ベッドの上で天井のシミを数えていた。昨日の放課後の光景が、まぶたの裏に焼きついて剥がれない。渡り廊下の三人。スマホを構えた手。逆光の中の制服のリボン。
朝の支度をしながら、鏡の中の自分と目が合う。いつも通りの無表情。それを確認して、少しだけ息を吐く。大丈夫。何も起きない。僕はただの透明人間だ。昨日のことなんて、誰も覚えていない。
学校までの道を歩く足が、いつもより重かった。四月の朝の空気はまだ薄く冷えていて、通学路の桜はもう花びらを散らし始めている。水たまりに浮かぶ薄桃色の花弁を踏まないように歩いて、下駄箱で上履きに替えて、階段を上がる。二年三組の教室は三階の突き当たり。廊下を歩きながら、イヤホンの音量を少し上げた。
教室のドアに手をかけた瞬間、空気が違った。
いつもの朝なら、ドアを開けても誰も振り向かない。僕が入ってきたことに気づく人間すらいない。それが日常で、それが僕の居場所だった。なのに今日は、スライドドアを引いた音に反応するように、五つ、六つの視線がこちらに向いた。
「あ、瀬川じゃん」
聞いたことのない呼ばれ方だった。窓際のグループの一人が、椅子の背もたれに腕を乗せたまま僕を見ている。その隣のやつも、そのまた隣のやつも。教室の空気の温度が、昨日までと明らかに違う。
何が起きているのか、理解するのに三秒かかった。
「おーい瀬川、お前あれマジ? 屋上で弾いてたの」
声をかけてきたのは前の方の席の男子で、名前も知らない相手だった。僕はイヤホンを外す余裕もなくて、片耳だけ引き抜いて「……え?」と返した。間抜けな返事だった。
「グルチャ見てないの? 昨日の動画。お前だろ、あれ」
グループチャット。僕が入っていないやつだ。でも動画という単語が耳に刺さった瞬間、昨日の渡り廊下の三人の姿がフラッシュバックした。スマホ。あれは、撮っていたのか。
足が動かなくなった。教室の入口に立ったまま、リュックの紐を握る手に力が入る。周囲のざわめきが、耳の奥でぐわんと膨らんでいく。
「すげーじゃん、ピアノ弾けんの?」「てかあれショパン?」「なんで言わなかったの?」
知らない声が四方から飛んでくる。昨日まで僕の名前すら覚えていなかったはずの連中が、急に距離を詰めてくる。視線の数が増えていく。一つ、二つ。教室の半分くらいが僕を見ている。透明だったはずの膜が、一晩で剥がされたみたいだった。
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自分の席にたどり着くまでが異様に長かった。窓際の一番後ろ。いつもなら誰にも邪魔されずに座れるその席に向かう途中、何人にも声をかけられた。「動画見たよ」「すごいね」「いつから弾いてるの」。僕は曖昧に頷くことしかできなくて、シャーペンを回す指が震えていた。
一時間目の授業が始まっても、落ち着かなかった。数学の教師が黒板に数式を書いている間、スマホを机の下でこっそり見ている連中がいる。その画面に映っているのが何なのか、想像するだけで胃の奥が縮む。
休み時間になった瞬間、人が集まってきた。
「なあ瀬川、あの動画さ——」
最初に僕の席に来たのは、小峰だった。
小峰悠斗。クラスの中心にいるタイプの人間。声が大きくて、いつもグループの真ん中にいて、廊下ですれ違うだけで空気が動く。僕とは一年間同じクラスだったけれど、まともに言葉を交わしたことは一度もない。ただ一度だけ、去年の体育の授業でペアを組まされたとき、小峰は隣のやつに向かってこう言った。
「え、瀬川? いや、キモくね?」
聞こえるように言ったのか、聞こえてもいいと思って言ったのか、そんな区別に意味はなかった。あの一言で僕は確信した。ここでも中学と同じだ。目立たない方がいい。存在を消した方がいい。
その小峰が、今、僕の机の前に立っている。
「いやマジびびったわ。お前あんな弾けたんだ」
小峰の顔は笑っていた。悪意のない、たぶん本当に驚いている顔。でもその笑顔が、僕には読めなかった。読み方を知らなかった。
「俺さ、昨日たまたま渡り廊下通ったら聞こえてきてさ。やべえと思って撮っちゃったんだよな」
撮ったのは小峰だったのか。あの三人の中にいたのか。了解も取らずに、勝手に。
僕は何も答えなかった。答え方がわからなかった。小峰は僕の沈黙を気にした様子もなく、さらに距離を詰めてきた。
「つーかお前、もっと早く言えよ。隠してたとかもったいなくね?」
そう言って、小峰は僕の肩に腕を回した。馴れ馴れしく、自然に、まるで昔からの友達みたいに。その手の温度が制服越しに伝わってきた瞬間、身体が反応した。
——キモくね?
あの声が、鼓膜の奥で再生された。
気づいたときには、小峰の腕を払っていた。力加減なんて考えなかった。ただ反射的に、肩に触れているものを振り払った。小峰が半歩よろめいて、目を丸くした。
教室が凍った。
さっきまでのざわめきが嘘みたいに消えて、沈黙が落ちた。小峰の表情が、驚きから戸惑いに変わり、それからほんの少しだけ、硬くなった。周りの視線が僕と小峰の間を行き来しているのが、見なくてもわかった。
「……なんだよ」
小峰がぽつりと言った。声のトーンが一段低い。
僕は何も言えなかった。払った右手がまだ宙に浮いていて、指先が冷たかった。言葉を探したけれど、喉の奥に何かがつっかえて出てこない。だって何を言えばいい。去年お前に「キモい」って言われたから? それを今さら口にして、何になる?
数秒の沈黙のあと、小峰は鼻で笑った。
「ノリわっる」
それだけ言って、自分のグループの方に戻っていった。周りの空気がゆっくりと動き出す。誰かが小声で「なにあれ」と呟いた。別の誰かが「めんどくさ」と返した。視線が一つずつ外れていく。さっきまでの好奇心が、冷めた空気に置き換わっていく。
僕は席に座ったまま、膝の上で両手を握った。爪が掌に食い込んで痛い。でもその痛みがないと、今にも身体が震え出しそうだった。
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二時間目が終わるチャイムを待たずに、僕は教室を出た。
廊下を早足で歩く。イヤホンを両耳に押し込んで、音楽の音量を最大にする。何も聴きたくない。誰の声も、誰の視線も。非常階段のドアを押し開けて、薄暗い踊り場に入った瞬間、肺の奥から息が漏れた。
でも屋上には行けなかった。
昨日、あそこで撮られた。あの場所はもう安全じゃない。給水塔の影は僕だけの場所だったのに、十五秒の動画で世界に繋がってしまった。非常階段の踊り場でしゃがみこんで、膝を抱える。コンクリートの壁が冷たくて、背中から体温を奪っていく。
スマホを取り出して、初めて学年のグループチャットを検索した。入っていないから中身は見えないけれど、リンクが一つ拡散されているのは外からでもわかった。再生数のカウンターが、画面の隅に小さく表示されている。
三百十二。
たった十五秒の動画を、三百人以上が見た。僕の音が、僕の知らないところで、僕の許可なく、三百人の耳に届いた。
スマホの画面が涙で滲んだ。泣いているのかと思ったけど、違った。目が乾いていただけだ。瞬きもせずに画面を見つめすぎていただけだ。そういうことにした。
折りたたみキーボードはリュックの中にある。いつも通り持ってきた。でも今日はファスナーを開ける気になれない。あの鍵盤に触れたら、昨日の放課後の感覚が蘇ってしまう。誰かに聴かれていたと知らずに、全部をさらけ出して弾いていた自分。裸を見られたのと何が違うんだろう。
五月の風が、非常階段の隙間から吹き込んでくる。四月に比べて少しだけ温度が上がったはずの風が、今の僕には冷たかった。
三時間目のチャイムが鳴る。教室に戻らなければいけない。あの空気の中に、もう一度入らなければいけない。透明人間に戻れるだろうか。今さら。動画を見た三百人の目の前で。
立ち上がって、制服の埃を払う。階段を降りる足音が、やけに大きく響いた。
教室のドアを開ける直前、廊下の向こうから声が聞こえた。
「——軽音部、キーボードいないんだって」
振り向いたけれど、誰が言ったのかわからなかった。通り過ぎた女子二人組の背中が、廊下の角に消えていく。
軽音部。キーボード。その二つの単語が、頭の中で勝手に結びつこうとするのを、僕は振り払った。関係ない。僕は誰かと弾く気なんてない。
教室のドアを開ける。さっきよりは視線が少ない。小峰のグループは窓際で固まって笑っていて、僕のことはもう見ていなかった。代わりに、ちらちらとこちらを窺う目がいくつか残っている。好奇心とも、憐憫ともつかない視線。
席に着いて、シャーペンを握る。ノートに何か書こうとして、何も書けなかった。
明日もこの教室に来なくちゃいけない。明後日も。明々後日も。あの動画が消えるまで——いや、インターネットに流れたものは消えない。僕の音は、もう僕だけのものじゃなくなった。
窓の外で、グラウンドの桜が風に揺れている。花びらが一枚、開いた窓から教室に迷い込んできて、僕の机の上に落ちた。拾い上げようとして、指先がかすかに震えているのに気づいた。
屋上のドアが、もう開けられない気がした。