第1話
第1話「四月、非常階段の靴音」
誰にも聴かせるつもりなんて、最初からなかった。
始業式の朝。校舎の屋上に続く非常階段を、僕は靴音を殺して上がる。四月の風はまだ冷たくて、制服の襟元から首筋に滑り込んでくる。踊り場の窓ガラスに映る自分の顔は、いつも通り無表情だった。その無表情を確認して、少しだけ安心する。屋上のドアを押し開けると、給水塔の影にいつもの空間があった。錆びた鉄の匂いと、コンクリートが朝露を吸った湿った匂い。コンクリートの地面に膝をつき、リュックから折りたたみキーボードを取り出す。電源を入れて、ヘッドホンは——つけない。ここまで音が届く人間はいないと、一年かけて確認済みだ。
鍵盤に指を置く。最初の一音を押すと、風に溶けるようにして消えていく。二音目、三音目。旋律が連なって、空に放り出されていく。ショパンのノクターン。中学の頃にさんざん弾いた曲だ。指が勝手に覚えていて、頭の中が空っぽになっても音だけが流れる。
給水塔の影は、朝日が校舎に遮られてちょうど日陰になる。誰にも見えない。誰にも聴こえない。この学校で唯一、僕が瀬川蓮でいられる場所だった。
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教室に戻ると、透明人間に戻る。
二年三組の自分の席は窓際の一番後ろ。始業式のざわめきの中、誰も僕に話しかけない。僕も話しかけない。机の上にノートを広げて、シャーペンを回す。それだけで四十五分が過ぎてくれることを、去年一年で学んだ。
「せがわ、って誰だっけ」
前の席の女子が隣に小声で訊いているのが聞こえる。隣の女子は首を傾げて、ちらりとこちらを見て、すぐ興味を失くしたように前を向いた。
それでいい。見えない方が楽だ。
中学の記憶が、ふとした瞬間に蘇ることがある。合唱コンクールの伴奏に選ばれた日。ピアノが弾けるというだけで目立って、目立ったせいで的になった。「あいつキモくない?」「なんか暗いし」。男子の輪に入れないまま三年間を過ごして、卒業式の日に誰とも写真を撮らなかった。
高校では最初から存在を消した。部活には入らない。昼休みは屋上。放課後も屋上。イヤホンを耳に押し込んで、廊下を歩く。すれ違う誰とも目を合わせなければ、誰も僕を見ない。透明でいること。それが、僕が二年かけて完成させた処世術だった。
昼休みのチャイムが鳴る。購買でパンを一つ買って、また非常階段を上がる。屋上の給水塔の影に座り、パンを齧りながらキーボードを広げた。午前中に我慢していた分、指が勝手に動き出す。
ドビュッシーの『月の光』。左手のアルペジオが、四月の空気に滲んでいく。目を閉じると、教室の喧騒が遠くなる。風の匂いがする。屋上の鉄柵の向こうに広がるグラウンドから、体育の授業をやっているクラスの声が微かに届く。でもそれは、僕とは関係のない世界の音だ。
ここだけが、僕の場所だった。
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放課後。始業式だけで終わる四月の初日は、みんな早々に帰っていく。下駄箱のあたりが騒がしくなって、やがて静まって、校舎に人気がなくなるのを教室の窓から確認してから、僕は屋上に向かった。
今日は時間がある。
非常階段を上る足取りは、朝や昼とは違う。急ぐ必要がない。踏み板の一段一段を踏みしめるたびに、教室で纏っていた透明な膜が少しずつ剥がれていくような感覚がある。屋上のドアを開けると、午後の日差しがコンクリートを温めていて、朝とは違う、乾いた埃っぽい匂いがした。
キーボードを広げて、深呼吸をひとつ。空気が肺の奥まで入ってくる。吐く。もう一度吸う。肩の力が抜けていくのがわかる。指を鍵盤の上に乗せる。
ショパンのバラード第一番。
ト短調の序奏が、静かに始まる。左手の重い和音が空気を押し、右手の旋律が風に乗って立ち上がる。この曲は好きだ。暗い導入から次第に熱を帯びて、感情がうねるように展開していく。中学の頃、コンクールの自由曲に選んだ曲。結果は——考えない。今は弾くだけだ。
第一主題を繰り返すうちに、身体が温まってくる。折りたたみキーボードの打鍵感はグランドピアノとは比べものにならないけれど、今の僕にはこれしかない。それでも、指先から音が生まれるという事実だけで十分だった。音符の連なりが呼吸になる。吸って、吐いて、その隙間に旋律が流れ込んでくる。
第二主題に入ると、指が加速する。ショパンが楽譜に込めた激情が、鍵盤を通して指先に伝わってくるような感覚。屋上の風が髪を揺らし、夕方の光がコンクリートをオレンジ色に染めていく。目を閉じて、身体ごと音の中に沈む。
僕はこの瞬間だけ、自分が嫌いじゃなくなる。
展開部の右手のトリルが空気を裂く。左手が低音で唸り、和音がぶつかり合って不協和を生む。その不協和が解決される瞬間の、胸の奥がほどけるような安堵。教室では絶対に見せない感情が、指先から溢れて止まらない。こめかみに汗が滲む。呼吸が荒くなる。それでも指は止まらなかった。
コーダに向かって左手が跳躍する。最後の下降音型を駆け抜けて、両手を鍵盤に叩きつけるように終止。残響が風に散っていく。息を吐く。指先がじんと痺れている。
しばらく動けなかった。膝の上のキーボードが、呼吸に合わせて微かに揺れている。心臓が肋骨の内側を叩いていて、全身が火照っていた。弾き終わった後のこの数秒間が、僕にとって一日で最も正直な時間だった。
顔を上げたとき、屋上の景色はもう茜色だった。グラウンドに人影はない。渡り廊下にも——。
いや。
視線を落とした先、階下の渡り廊下に人がいた。三人。制服姿で、立ち止まって、こっちを見上げている。
一人が手にスマホを持っていた。
空気が変わった。心臓が跳ねる。さっきまでの火照りが一瞬で消えて、代わりに冷たいものが背中を駆け上がってくる。指が鍵盤の上で固まったまま動かない。三人の顔は逆光でよく見えなかったけれど、制服のリボンの色でわかった。同じ学年だ。
「——やばくない? あれ誰?」
風に乗って、声の断片が届いた。笑い混じりなのか、驚いているのか、距離があって判別できない。でもその声は、中学の記憶と同じ周波数で鼓膜を揺らした。
僕は反射的にキーボードを閉じた。両手が震えている。折りたたんでリュックに押し込み、給水塔の影に身を隠す。背中をコンクリートの壁に押しつけて、膝を抱えた。心臓が耳の奥で鳴っている。見られた。聴かれた。三年ぶりに、僕の音楽が誰かの耳に届いてしまった。
中学のコンクールの記憶が、瞬間的にフラッシュバックする。ステージの照明。審査員の無表情。客席の隅で笑っていたクラスメイト。「あいつ、全然だったな」——。
違う。あれとこれは違う。あのときは自分から人前に立った。今回は勝手に聴かれただけだ。でも結果は同じだ。音が漏れた。見つかった。僕の唯一の場所が。
しばらく給水塔の影でじっとしていた。渡り廊下の三人がいなくなったのを確認してから、僕はリュックを背負って非常階段を降りた。足が重い。階段の手すりが夕日で熱を持っていて、触れた掌に金属の温度が残った。
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その夜、自室のベッドの上でスマホを握ったまま、僕は天井を見ていた。
学年のグループチャットは入っていない。入る理由がない。だから何が起きているのか、確認する手段がなかった。あの三人が誰なのかも、スマホに何を映していたのかも、わからない。
わからないまま、明日の朝が来る。
折りたたみキーボードに手を伸ばしかけて、やめた。机の上に置かれたそれは、閉じたまま部屋の暗がりに沈んでいる。さっきまで風に溶けていたはずの音が、今は喉の奥に引っかかって、重い。指先にはまだバラード第一番の残響がこびりついているのに、もう一音も出せる気がしなかった。
明日、教室に入ったら何が起きるんだろう。
何も起きないかもしれない。きっとそうだ。僕はただの透明人間で、屋上で変なことをしていた地味なやつ。誰も気にしない。そう思い込もうとして、目を閉じた。
けれど眠れなかったのは、期待していたからじゃない。怖かったからだ。もう一度、あの日みたいに笑われることが。